ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

日本大使館の王室批判禁止警告

谷川昌幸:

在ネ日本大使館HPの「安全対策基礎データ」に,次の警告が記載されている。

「王室は国民から敬愛されているため、王室に関する批判は避けた方が無難です。また、現在の政治情勢から王室、国王及び政府に対する批判は身柄拘束の理由ともなり得ますので注意して下さい。」

(1)2つの疑問
この警告には次の2点で疑問がある。

●事実認識の不適切さ
「王室は国民から敬愛されている」というのは,明らかに不正確。根拠も示されておらず,むしろ限りなく間違いに近い。

●王室・国王・政府批判禁止の不適切さ
この警告は,要するに,王室・国王・政府を批判するなという禁止命令だが,大使館がこのような言論規制をすることには疑問を感じる。大使館は,在ネ日本人に対し,生殺与奪の権限をもつ。他のネパール関係者にとっても,その影響力は絶大だ。その強大な権力を持つ大使館が,禁止警告を出せば,それは事実上命令と受け取られ,言論の自由のような最も基本的な人権ですら,保持が困難になる。権力機関は,権力の限界をわきまえ,権力行使は慎重であるべきだ。

(2)言論への自己責任
今のネパールでは,王室・国王・政府批判が危険であり,拘束される可能性もあることは,紛れもない事実だ。

それは,もしネパール人が日本に来て天皇批判をすれば,某筋からねらわれ,殺されるかもしれないのと同じことだ。(1990年,本島長崎市長は天皇の戦争責任発言のため銃撃された。)権力批判は,どの国でも危険なものなのだ。

だから,もし大使館が王室批判禁止をしなければ,不用意発言で拘束される日本人が現れる可能性は,禁止をした場合より大きくなる危険性はある。しかし,それは,言論の自由という人権中の人権を守るための代償と考えざるをえない。

日本国内ですら,大部分の人は,危険と天秤にかけながら言論の自由を行使している。そんな当たり前のことが,ネパールに行こうとする人々に出来ないはずがない。ヒマラヤ登山が自己責任であるのと同様,ネパール政治批判も自己責任である。

(3)大使館の責任とその限界
大使館の任務は,日本人が国際人権法等で保障されている人権を侵害されたとき,全力でその救済に当たることだ。

在ネ日本大使館の王室批判禁止は,残念ながら,大使館の責任逃れと見られても仕方ない。日本政府が,イラク戦争初期にさんざん利用した権力のための「自己責任論」,つまり,イラクに行くなと警告したのに,無視していったのだから,本人の自己責任だ,というあの権力の責任逃れの論理だ。ネパールでは王室批判はするなと警告したのに,無視して拘束されたのなら,それは本人の自己責任であり,大使館には責任はない,という理屈になる。

しかし,これは明白は誤りである。日本人がネパールで自己責任の下に行動し,それでもトラブルに巻き込まれた場合,全力で救済に当たるのが大使館であるはずだ。日本政府,外務省,大使館は,日本人が権利を守るためにつくった権力機関に他ならない。日本人保護は日本大使館の当然の責務である。

ただし,ここで注意すべきは,大使館に出来ることは限定されていると言うことだ。ネパールは外国であり,内政干渉は出来ないし,大使館員の数もごくわずかだ。救済を求めても,救済できない場合が少なくないのは当然だ。それは,ヒマラヤで遭難しても,大使館に出来ることはごく限られているのと同じことだ。登山の自由を行使したら,それに伴う危険を引き受けざるを得ない。

ただし,繰り返しになるが,それはヒマラヤ遭難者が大使館に救済要請する権利がないということではない。権利はあるが,大使館には要請にこたえるだけの能力がないだけのことだ。大使館には邦人保護義務があるが,外国では義務遂行には限界があるということ,ただそれだけのことだ。こんなことは誰にでも分かる常識であり,大使館には出来ないことまでする責任はない。

(4)責任の限界
ところが,大使館も日本国民も,責任の限界の明確化を回避しようとする傾向がある。これは無限責任論に陥り,かえって危険なことになる。

国民は大使館の「邦人保護」の限界を認めようとせず,何かあると無限責任を追求しがちだ。大使館は,国民のその悪癖を知っているので,予防線を張り,越権の禁止命令のようなものまでも出し,命令違反については自己の本来の保護責任すら棚上げし,国民の自己責任をあげつらうようになる。これは,国民にとっても大使館にとっても,不幸かつ危険な情況である。大使館も日本国民も,責任には限界があることを前提に,行動する必要がある。

(5)禁止命令に迎合した日ネ協会?
日本大使館の王室批判禁止命令に迎合したのではないかと疑われるのが,日本ネパール協会だ。

ネパール関係者の間では周知の事実だが,ネパール協会理事会は,今夏,突然,協会HP(JN-NET)をパージした。理由は不明瞭であり,そのやり方は,ギャネンドラ国王が2005年2月,政党内閣を一方的に解任し,自ら直接統治を始めたのとそっくりだ。

そのころ,外務省は,意地も外聞もかなぐり捨てて,ネパール国王のご機嫌取りに躍起だった。国連常任理事国入りのための賛成票がほしくて,愛知万博を訪れたパラス皇太子を何と天皇・皇后,皇太子夫妻らにまで謁見させ,公式写真さえ撮らせている

日ネ協会も,その外務省の意向を受け,皇太子歓迎会を開催し,その模様は日本皇族との会見と共にネパールで広く報道された

そのようなとき,協会HPのナマステボードで,私や他の何人かの方のネパール王政や日本外交への批判的意見が掲載された。ナマステボードは,自由投稿欄であり,文責は100%投稿者自身にある。誰が見ても,投稿が日ネ協会の見解でないことは,一目瞭然だ。しかし,そうした批判的意見は,外務省やその意を受けたと思われる協会理事会の立場とは,もちろん異なっていた。

協会理事会によるHP閉鎖命令は,そのような情況の下で,突如,一方的に通達された。理由は明らかにされていない。

しかし,情況から考え合わせると,在ネ日本大使館の王室批判禁止命令に忠実に従った措置だった可能性が大きい。別の理由かもしれないが,それはHP閉鎖命令の理由が開示されていないので,今のところ分からない。

(6)公権力による言論統制の危険性
日本ネパール協会のような長い伝統をもち,日本政府と程良い距離を保ってきた有力団体ですら,大使館が言論統制を始めたら,抵抗できず,屈服させられてしまう。ましてや,個人は・・・・。

この場合,禁止が警告か命令か,直接伝達されたか否かは,それほど問題ではない。公権力が警告や命令を出せば,その保護を受けざるを得ない(特に外国滞在中には)弱い立場の民間団体や個人は,公権力の意を容れざるを得ないのだ。自己規制こそが,公権力にとって最も好都合な情況だとすると,日ネ協会のこの間の対応は,日本大使館にとって模範的ということになる。

(7)真の日ネ友好のために
日本大使館の禁止命令に,もし日ネ協会ですら迎合したとすれば,その影響は他の諸団体,NGO,個人にも及ばざるを得ない。そうなれば,ネパール政治批判は姿を消し,活動は権力迎合的なものばかりとなるだろう。しかし,それが本当に,日ネ友好のためになるのだろうか?

NGOや個人にとって,大使館の禁止命令に率直に従っていた方が楽だし,安全でもある。しかし,それが真の友好的態度とは,到底思われない。ネパールが鎖国中なら,それでもよいかもしれないが,グローバル化ばく進中の現在,日本外交の都合に合わせ(ネパール庶民のためではなく!)行動していたら,ネパール関係者はネパール国民に取り返しのつかない害悪をなしてしまう恐れがある。そんなことはすべきではないだろう。

大使館もNGOや個人も,相互の責任の範囲を見極めて行動するのは楽ではないかもしれない。特にNGOや個人は,自己責任を問われるから,行動は自ずと慎重にならざるを得ない。

自己責任は,NGOや個人が自由の代償として当然引き受けるべき責任である。楽だからといって,自己責任を放棄し,外務省や大使館に無限責任を要求すれば,そのツケは自己の行動の自由の否定となって跳ね返ってくる。――いま日本ネパール協会がそうなりつつあるように。

Written by Tanigawa

2005/12/28 @ 16:22

カテゴリー: 民主主義

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