ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

ホームページと著作権: ネパール協会の場合

谷川昌幸(C)

インターネットの普及で誰でも簡単に情報発信できるようになったのは喜ばしいが,ここで問題になるのが,著作権。これはなかなか難しい問題である。

1.著作権は認められるべきか?

(1)知は万人のもの
かつて岩波茂雄は「読書子に寄す――岩波文庫発刊に際して――」(1927)において,こう述べた。

「真理は万人に求められることを自ら欲し,芸術は万人によって愛されることを自ら望む。」

この岩波の格調高い宣言通りだとすると,著作権により「真理」や「芸術」の流通を制限するのは,「進取的なる民衆の切実なる要求」(岩波)に反するばかりか,普遍化を求める「真理」そのものとも相容れないことになる。

人間は本来,自らを表現すること(世界に現れること―H・アレント)それ自体を欲し,そこに喜びを感じる。表現したもの,つまり著作物(文章,絵画,イラスト,写真,音楽,演劇,プログラムなど)は,その表現活動の結果であり,それらがもし普遍化を求める真理や芸術なら,万人が自由にそれらを利用してもよいはずだ。いや,利用させるべきである。

この著作権否定の考え方は,インターネットの普及により,事実上実践に移されている。ネット上では,文章も写真も,複製,加工のし放題,もう止めようがない。ネット上には,事実上,著作権はない。知も芸術も万人のものになりつつある。

これは岩波の「真理は万人のもの」という理念への前進といってよい。万人が共通の文化世界に参加し,そこに蓄積されつつある膨大な情報を自由自在に利用し,真善美のさらなる実現に向けて努力する。おそらくこれが,人類の創造的活動の一つの理想的なあり方であろう。

(2)知は創作者のもの
ところが,皮肉なことに,真理の普遍性を高らかに唱えた岩波茂雄自身が,著作権による知の私有財産化(囲い込み)によって,岩波文化を育成発展させていった。著作権で守られていなければ,そもそも岩波文庫ですら,存立し得なかったはずだ。

この皮肉は,「学問のすすめ」で知の普及,万人の啓蒙を唱えた福沢諭吉が,他方では,自分の著書の海賊版の横行に立腹し,「著作権」の確立に奔走した史実にも見て取れる。万人の啓蒙が福沢の願いなら,著書が複写され,世間に出回ることは,むしろ歓迎すべきことではないか。

(3)人格の具体化としての著作物
福沢や岩波が「真理は万人のもの」といいつつ,自分たちの創作物=著作物を「自分のもの(財産)」と主張せざるを得なかったのは,著作物が彼ら自身の人格の具体化されたもの,つまり彼ら自身だったからである。

著作物は具体化された自分の人格だから,自分の生命や身体や意志が尊重されるのと同じく,著作物も尊重してほしいということ。これは,もっともな要求である。著作権は人格権だとすれば,その侵害は人権侵害であり許されないことになる。

そして,人権は自分の権利だから,著作権は財産権でもある。J・ロックはこう説明している。――生命と身体と,その身体の働きの結果は,各人固有(proper)のものであり,したがってそれらは各人の財産(property)である,と。

(4)著作物の二面性
このように,著作物は真理を表現したものとして普遍化を求める側面と,著者=創始者(author)の所有する財産(property)として他者から保護されるべき側面の二面性をもつ。

この二つの要求は相対立するものであり,したがって社会では何らかの形で調整されなければならない。この権利の調整を行うのが,世界社会に置いては,ベルヌ条約(1886),万国著作権条約(1952),TRIPS条約(1994),WIPO著作権条約(1996)などであり,日本では「著作権法」である。

(5)「同意」の原則
著作権法の根本原理は,一言でいえば,著者の「同意」である。著作物の創始者(author)は著者本人だから,著作物への権利は当然本人にある。他者は,著者が同意してはじめて,つまり著者による権利譲渡(authorize)によってはじめて,その著作物を利用することが出来るようになる。

J・ロックにおいて,「同意」なき統治権は簒奪であった。それと同じく,「同意」なき著作物の利用は簒奪であり,許されない人権侵害ということになる。

(6)著作権とインターネット
著作物使用におけるこの「同意」原則は,伝統的な印刷物においては,ほぼ確立しており,たとえ侵害があっても,救済は比較的容易である。ところが,はじめに述べたように,近年急拡大したインターネットにおいては,法律も社会慣行もまだ整わず,事実上,アナーキー状態である。

これに対し,「真理は万人のもの」と開き直り,文章でも写真でも無制限にネットに載せてしまう,というのも一つの考え方である。いやなら,世間に自分の著作物を出さなければよいわけだ。

しかし,これについては,やはり先述のように,人間は世界への現れ(アレント)をもって本質としているから,人間は何かを表現せざるを得ない存在である。表現は人権そのものである。だから,勝手に使われるのがいやなら,表現しなければよい,とはいえない。それは,人間をやめなさい,ということに他ならない。表現の自由はもっとも基本的な人権であり,最大限保障されなければならない。

そして,その表現の結果としての著作物も,具体化された人格=自分自身であるから,その使用方法については,本人に当然の権利があると考えざるを得ない。人はすべて「個人として尊重される」。個人の人格や財産の安全が保障されなければ,人は安心して生きていけないし,人類の発展も望めない。ネット時代とはいえ,著作権は一定の範囲内で守られるべき権利だといえる。

こう考えてくると,インターネットにおいても,著作物の使用の可否は,結局,本人(author)の「同意」の原則に従って判断するのが妥当だということになる。

2.著作権法の規定

日本の著作権法も,この「同意」原則に従って構成されている。

(1)著作人格権
 1)公表権(18条)=著作物の公表の可否,公表の方法を決定する権利
 2)氏名表示権(19条)
 3)同一性保持権(20条)=著作物の名称や内容を変更する権利

(2)著作財産権
 1)複製権(21条)
 2)公衆送信権(23条)=著作物を放送したり,サーバーにアップロードして公衆送信する権利
 3)以下略

(3)著作権の譲渡
著作権は権利だから,著作権者は複製権,公衆送信権などを譲渡することが出来る。そして,譲渡された者は,譲渡された権利の範囲内で,著作物を利用できる。

3.事例:雑誌の表紙・目次・記事ダイジェストのデータベース化,HP掲載

以上の著作権の規定それ自体は明快だが,問題は,デジタル化時代においては高品位な複製・加工が誰にでも容易に出来てしまうこと,そして,いったんネット上に公表されたら損害の回復は極めて困難なことである。

たとえば,本や雑誌をスキャンし,HPに掲載することは,小学生にでも出来ることだし,事実,その類のことはいたるところで見られる。これが著作権法違反であることは,明白である。

では,もう少し微妙な場合はどうか? 著作権情報センター『著作権講座Ⅱ』(2005)は,公立図書館が雑誌の表紙・目次・記事ダイジェストをデータベース化し,ホームページに掲載する場合について,次のように解説している。

「これら(雑誌の表紙・目次・記事ダイジェスト)をデータベース化することは,当然,複製権あるいは翻案権が働きます。更に,インターネットのホームページにこのデータをアップロードする場合には,・・・・著作権法の公衆送信権が働きます。したがって,著作権法上,定められた例外規定を除いてはこれらを許諾なく行うことは出来ません。」(p.22)

著作権法上は,公共図書館ですら,著作物のインターネットでの利用には,これほど厳しい制限が付されている。それは,デジタル化されたデータは,品質劣化なく,瞬時に何千,何万もの複製が可能であり,著作権が著しく侵害される恐れがあるからである。

4.ネパール協会HPの場合

それでは,ネパール協会HPの場合は,どう判断すべきだろうか? 私は協会の1会員だし,HPに私の関与した著作物も掲載されているので,これは私自身の問題でもある。

(1)会報1面スキャン画像掲載
協会HPには,会報バックナンバー(No.98-194)のスキャン画像が一覧表示されている。

  ・194号スキャン画像(HP掲載ファイル)

  ・194号紹介画面(HP掲載ファイル)

「会報」の1面(1頁)は,全体の1/2~1/3が写真またはイラストであり,雑誌表紙というよりは小冊子本体の第1ページである。画像(194号の場合)は,513×736ピクセル(jpeg)。124KB。

画質は,モニター表示には十分だし,「会報」と同じB5用紙に印刷しても十分鑑賞にたえる。つまり,HP画像をダウンロードして印刷すれば,「会報」1面は誰にでも容易に入手できる状態になっている。

(2)無断転載か?
「会報」への寄稿者は,ごく少数を除き,著作物(写真,イラスト,文章など)を「会報」に掲載することは同意していたが,それのデジタル化(電子化)複製にもホームページ掲載にも,同意はしていない。これは,厳密に言えば,無断転載である。

(3)著作権侵害か?
したがって,厳密にいえば,これは著作権(公表権,複製権,公衆送信権)の侵害に相当するし,著作権情報センターの先述の事例に照らしても,違法である。

「会報」で自ら「本紙の記事,図表,図版その他一切の無断転載を禁じます」と著作権法遵守を宣言しているのだから,ホームページ上の該当ページは削除したほうがよいであろう。

ネパール協会のような弱小団体が,ホームページを大いに活用し,「会報」を掲載するのは効果的であり望ましいことだし,私自身それの実現に努力してきたが,その前提として,著作権者の同意を得ておくことが絶対に必要なことはいうまでもない。

(4)「暗黙の同意」はあったか?
しかし,協会HPの場合,掲載したのは「会報」を編集・発行している協会自身である。だから,先の図書館とは,同列に扱えない側面もある。つまり,著作権者は,「会報」への寄稿時に,デジタル化,HP掲載にも「暗黙の同意」を与えているのではないか,という議論である。

その可能性は,必ずしも否定できない。あの「同意」の哲学者J・ロックでさえ,権利譲渡には「明示の同意」が必要といいつつも,それに徹しきれず,実際には「暗黙の同意」を持ち出さざるを得なかった。

「会報」に写真やイラストを提供したのは,日ネ友好促進と協会の発展のためであった。「会報」のHP掲載は,その目的に合致する。したがって,寄稿者はHP掲載にも「暗黙の同意」を与えているはずだ,という論理である。

たしかに,そうともいえる。断定は難しいので「行列の出来る法律相談室」風にいうならば,著作権侵害と訴えて勝てる可能性は,80%といったところか。

(5)損得計算では?
法的には,おそらく協会の方が,相当,分が悪いだろう。それでは,損得計算ではどうか?

協会HPが「明示の同意」なしに「会報」スキャン画像を掲載していることは,明白な事実だ。1面の写真やイラストは,多少画質は落ちるが,自由自在にデジタルコピーやプリントが出来る状態になっている。では,この事実は,著者に対して,どのような影響を与えるだろうか?

すぐ予想されるのは,「会報」編集委員会も理事会も,著作権をあまり尊重しないのだな,という印象を著者に与えることである。つまり,「会報」に寄稿したら,「明示の同意」なしに著作物を勝手に利用されかねない,という不信感の発生・拡大である。

そうなれば,たとえば命がけで撮った写真,長年の研究の成果など,つまり上質の貴重な著作物であればあるほど,「会報」には寄稿されなくなり,結局,会報は二束三文の捨てネタばかりということになる。

それでよい,というのであれば,それはそれで一つの行き方であり,これ以上,いうことはない。

いや,それは困る,「会報」は可能な限り高度な水準を維持したい,というのであれば,功利主義的損得計算からいっても,「明示の同意」のない「会報」スキャン画像はHPから削除した方がよいと思う。

5.創作の苦難,複製の安直

どのようなものであれ,何かを創り出すことは大変なことであり,だからこそ創始者=著者の創作物=著作物=外化された人格は尊重されなければならない。

これに対し,コピー,複製はいとも簡単,いまではサルにでも出来る。

この創作の苦難と複製の安直の間には,目もくらむような落差がある。われわれが,公平のために,刑事罰まで動員して著作権を守ろうとするのは,そのためである。

しかし,いくら処罰で脅しても,複製の安直には抗しがたい魅力がある。正直に告白するなら,私自身,複製,剽窃,盗作の誘惑を常に感じている。私のHPにも,安直に走り著作権侵害をしている部分があるかもしれない。それほど,盗用への誘惑は執拗であり,ちょっと気を緩めると,つい誘い込まれてしまう。

著作権には,人格と密接に関わるだけに,そのような日々人の品格を試すような厳しさがある。もって重々自戒したいところである。

Written by Tanigawa

2006/03/03 @ 22:07

カテゴリー: 人権

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