ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

タイヤ権力論の登場

谷川昌幸(C)

ネパールに「人民」はいないと繰り返し批判し,良識派から非難されてきたが,ようやくpeople powerへの冷静な反省が見られるようになった。

Kiran Panday, "Tyre Power," Nepali Times, #312, Aug.25-31

ネパリ・タイムズは王様に近いのか否か? 統一共産党内にも,共産党のくせに,王様大好き党員がごまんといるお国柄だから,ネパリ・タイムズと王様との関係は外国人の私には分からない。要は,パンデ氏の記事の内容だ。

1.タイヤ・パワー
パンデ氏によれば,タイヤ燃やしが正であれ否であれ(健康上,悪だ),石油値上げ決定が正であれ否であれ(議論の余地あり),そしてマオイスト扇動が有ったにせよ無かったにせよ(たぶん有った),タイヤ・パワー(タイヤ権力)から学ぶべきことがあるという。

そのとおり。よくできたレトリックだ。

2.衆愚の街頭政治
パンデ氏は,ズバリ,核心をつく。直接引用しよう。

「われわれは今後,政府を人民の力(people power)だけでつくるつもりか,それとも投票で選出するつもりか? そして,苦心の末,代議政府をつくっても,結局,それも街頭の衆愚(mob)によって転覆させられるのだろうか? 地下過激政党のレンター群衆(御用群衆 rent-a-crowds)や暴力学生組織は,体制変革や政策作成にどこまで関与すべきなのか? タイヤ燃やしで,これからもわれわれは物事を決めていくつもりなのだろうか?」

問題はまさにここにある。パンデ氏は,街頭に出た群衆を直視し,勇敢にも「レンター群衆」「衆愚(mob)」と呼んでいる。(衆愚は蔑称だが,群衆内に入れば誰でも衆愚になる。これが群衆の怖さ。)

3.タイヤは捨てよ
石油値上げ反対のタイヤ焼きの非合理性を,パンデ氏は,やさしく説明している。

ネパールはインドと地続きであり,石油価格をインド以下に据え置くことは不可能だ。それをするには,国境閉鎖か,水力電力を大量につくって売り価格補填金を捻出する以外に方法はない。どちらも不可能だとすると,なぜ石油依存の生活を改めるという政策を採らないのか? タイヤを焼くのではなく,タイヤ(車,石油コンロ等)不要の社会構造に転換していくべきだ。

まさに,その通り。値上げがいやなら,それが最善の選択肢だ。なぜ,そんなことも分からないのか?

4.当事者意識の欠如
それは結局,私に言わせるなら,彼らに「当事者意識」がないからだ。国家も政府も政治も,彼らのものではなく,皮肉なことにまだ「国王のもの」「印米のもの」「誰か偉い人のもの」と,実は彼ら自身が思いこんでいるのだ。

5.「市民」となり「人民」となるには
パンデ氏は,まさにその「当事者意識」の欠如を問題にする。

「もしわれわれが,成立途上の民主主義をちゃんと機能する包摂的民主主義にしたいと本当に願うなら,われわれはその民主主義体制の一部になるべきだ。そう,われわれ全部が。」

「市民であるとは何を意味するか? われわれが本当の市民になれば,そのときはじめて,われわれは民主主義を理解する人民を持つことになる。そして,それこそが,真の人民権力(people power)なのだ。」

まことにもって,その通り。このような「人民」なら,私も全面的に支持する。

6.例外状況の常態化
変革期にタイヤ焼きなどの直接行動が威力を発揮することは,私も認める。しかし,それはあくまでも非常手段であり,例外的な直接行動である。

ネパール政治の宿痾は,民主主義にとっては例外の直接行動が常態と化していることだ。90年憲法下で,議会が何を決めようが,議会で負けた反対派が街頭政治(タイヤ焼き)でそれに反対し,議会政治を麻痺させてしまった。

タイヤ焼き街頭政治が,ギャネンドラ国王を生み出し専制化させた元凶だといっても言い過ぎではない。

代議政治は直接政治ではない。議会は,歴史的にも原理的にも,民主主義よりもむしろエリート主義,貴族主義に近い。

7政党もマオイストも,幹部たちはエリート,貴族のくせに,people powerを詐称している。彼らがこんな形の街頭政治で権力を取っても,同じ理屈で,すぐ倒されるに決まっている。王様が,王宮前でタイヤ焼きをしても,people powerだ。どこが違うのか?

だれでもタイヤに火をつければ,即「人民」。これで,まともな代議政治ができるわけがない。

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Written by Tanigawa

2006/09/01 @ 12:42

カテゴリー: 民主主義

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