ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

ネパール人とは? タライの憲法論

谷川昌幸(C)

前回,タライ独立運動について述べたが,憲法制定は「誰がネパール人か?」を決めることだといってもよい。これは理論よりも情念,つまりナショナリズムの問題だから難しく,下手をすると泥沼の民族紛争になりかねない。

日本でも「日本人とは?」と強く意識するのは,沖縄や北方先住民,あるいは在日非日本民族だ。つまり地理的,民族的,文化的に日本社会の周辺部にいる人々である。ネパールでも,「ネパール人とは?」と問わざるを得ないのは,周辺部に位置するタライ諸民族,山岳諸民族だ。彼らはいわゆる「ネパール人」ではない。

では,何が彼らを「ネパール人」としているのか?
  (1)権力(暴力)
  (2)世俗的目標,合理的価値
  (3)情念
実際には,これら三要素の組み合わせで「ネパール人」はつくられてきたが,単純化すれば,従来の王政は主に(1)と(3)を利用した。国王軍の暴力と,ビシュヌ神化身としての国王への信仰により,共同幻想「ネパール人」が造られ維持されてきた。

ところが,2006年4月革命で共和制と世俗化が新国家の根本原理とされた。つまり(2)だ。この場合,民族的文化的同一性の高いネパール語母語民族(人口の約60%)は世俗共和国への統合に比較的無理はないが,それ以外の諸民族はそうではない。

たとえば,「参政権」にせよ「営業の自由」にせよ,世俗的目標や合理的価値は,本質的に普遍的なものであり,そうだとすれば,タライ諸民族がカトマンズ国家ではなく,それらをよりよく共有できるかもしれないインド国家に合流することになんの問題もなく,むしろ賢明な選択になる。これを阻止する世俗的合理的根拠は,カトマンズ国家にはない。

「国民」を「国家」に統合しているのは,世俗的目標や合理的価値観では断じてない。それは神話だ。つまり歴史,文化,慣習の情念的共有幻想である。その神話なくして「国民国家」はありえない。

この問題については,タライが面白い。カトマンズよりもはるかに問題の核心をつく議論が展開されている。そもそもタライがカトマンズ国家内にいる積極的理由は,ほとんどない。そこの憲法論議が面白いのは当然といえよう。

* Bijay Raut, "What does it mean to be a Nepali? The elements and characteristics of national unity", Madhesi – United We Stand, December 31st, 2006 (Originally appeard in The Nepal Digest – August 1, 1998 (6 Shrawan 2055 BS))

Written by Tanigawa

2007/01/06 @ 13:09

カテゴリー: 憲法

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