ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

宮島喬『ヨーロッパ市民の誕生』(6)

谷川昌幸(C)

Ⅷ 「第2章 言語,アイデンティティ,シティズンシップ」について

言語がアイデンティティやシティズンシップの中核にあることはいうまでもない。言語は言霊,つまり魂そのものといってもよいからだ。

1.カタルーニャ
(1)最大の非国家語
本書によれば,カタルーニャ語は,ヨーロッパ最大の非国家語で,話者はEU公用語のデンマーク語よりも多い。カタルーニャは古くから固有文化を持つ独立した地域だったが,その後,次のような経緯をたどって今日に至っている。
 1714年 スペイン領となる
 1932年 自治政府樹立
 1936年 フランコにより自治権剥奪
 1975年 フランコの死により自治回復へ

(2)義務教育
現在,カタルーニャの義務教育は,カタルーニャ語とカスティーリア語の2言語。カタルーニャ語がより重視されている。
(3)地名
カタルーニャ語表記に復帰。2言語表記ではない。
(4)社会生活
公用文,社用文,商用文などの2言語化は実際には難しい。

2.4層のアイデンティティ
こうした状況をふまえて,本書では,アイデンティティやシティズンシップをつぎの4層に分けて考えることが提案されている。

 (a)固有言語共有
   カタルーニャ,バスク,ウェールズなど。
 (b)固有言語の共有は十分ではないが,固有文化アイデンティティは持つ
   バルセローナ市,カーディフ市など。
 (c)国民アイデンティティ
 (d)ヨーロッパ・アイデンティティ

これら4層の相互の関係は,地域や個人により異なるだろうが,ヨーロッパでこれら4層のアイデンティティ,シティズンシップが形成されつつとはいえるであろう。

●(補足)日本の国語化政策の功罪
本書では,日本の国語化政策については触れられていないが,これは大成功であり,したがって同時にそれはまた大きな問題をはらんでいるともいえる。そこで,以下,全くの専門外ながら,私見を追加しておく。

(1)日本語化政策
日本も,言語学的分類は別として,少なくとも日常言語としては,かつては多言語だった。これを明治政府が学校と軍隊を使って標準日本語=国家語に統一した。

この国語化政策は,言語の統一により日本の近代化に大きく寄与した反面,地域言語の弾圧という代償を伴った。それはすさまじいものであり,弾圧対象となった各地の「方言」話者に取り返しのつかない深い傷を残した。

(2)丹後弁
私は京都府の最北端,丹後の出身。丹後弁が広く使われ,私ももちろん丹後弁を母語として育った。

1960年頃まで,小・中・高校では,丹後弁は「汚い」とされ,標準語への矯正(=強制)教育が行われていた。丹後弁を話すと,就職に不利だと脅され,標準語を話す訓練を受けたのだ。

これは屈辱だった。自分の言葉=言霊=魂が劣等であるということ。話すたびに劣等感に駆られ,修学旅行では街の人に聞かれないように用心したものだ。

(3)ズーズー弁
丹後弁は方言といっても,それほど「なまり」は強くなく,標準語話者にもわかる。これに比べ,東北のいわゆる「ズーズー弁」はよそ者にはまるで理解できない。言語学的にはそうではないのかもしれないが,少なくとも素人が聞いている限りでは,ズーズー弁は江戸や京の言葉とは別の言葉であり,まさしく固有言語,固有文化だ。だから,これは徹底的に弾圧された。精神的拷問,虐待とすらいってもよい。

1990年頃,私は山形のある大学に赴任した。直後のある日,新任の同僚数人と会議のため山形県庁に行き,ロビーで時間待ちをしていた。そこに地元の中年女性清掃員が数人きて掃除を始め,そしてよそ者丸出しの私たちに話しかけてきた。その最初の一言は今も忘れない。「ごめんなさい,汚い言葉で」,まずそう断ってから話し始めたのだ。

(4)学校=軍隊=工場=刑務所
山形の母語,山形の固有文化を弾圧し,人々に精神的拷問を加え,一生涯消し去ることのできない深い傷を負わせたのは,学校だ。

近代以前の日本の多言語,多文化は,明治政府の富国強兵の障害だった。多言語だと,「突撃!」と命令してもよく理解されず,いざ戦争となっても戦えないかもしれない。工場や商店で上司が指図しても,指図が正確に伝わらず,従業員をうまく使えないかもしれない。私自身,山形でしょっちゅうレジで金額を聞き損ね,恥ずかしい思いをしたものだ。

だから明治以降,政府は躍起になり,学校を使って方言=劣等=悪と教え込み,国語=国家語を強制してきたのだ。

地域言語抹殺の最大の犠牲者はアイヌ民族であり,そして沖縄の人々であろう。言語弾圧は,民族弾圧,地域弾圧に直結している。

国語化政策は,discipline,つまり魂の「しつけ」であり,これなくして軍隊も工場も効率的には動かない。その極限は,「しつけ直す」ことを目的とする刑務所だ。近代教育のモデルは,刑務所に他ならない。

(5)多言語の難しさ
国語化政策は非文化的,非人間的だと分かってはいても,近現代世界においては少数言語の維持は容易ではない。他の事柄なら,法的・社会的強制により強引に方向付けをすることもできるだろうが,言葉は魂そのものであり,これを強制するわけにはいかないのだ。

それでも以前であれば,国家が少数言語の権利を保障する政策をとれば、ある程度,効果があったであろう。しかし今や少数言語を脅かしているのは,国家というよりはむしろグローバル市場主義と結びついた言語コミュニケーションの拡大そのものだ。人々は,自由意志でもっとも有利な言語を習得しようとする。マスコミも,流通範囲の広い言語を優先する。この流れは,もはや止めようもない。

学術の分野でも,すでに日本語論文は劣等とされ,英語論文にせよと脅されている。お気の毒に,仏語でも独語でもない。フランス人やドイツ人ですら,最近ではフランス語やドイツ語では本が売れないので英語で書いている。非英語圏の著者たちが,多言語・多文化擁護の本を英語で書いている! どうしようもない。

多層シティズンシップが,言語と文化とアイデンティティの多元性、多様性の回復をもたらしてくれるだろうか? そうすべきではあろうが,はたしてそうなるのだろうか? ここが難しいところだ。

Written by Tanigawa

2007/05/31 @ 21:54

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