宮島喬『ヨーロッパ市民の誕生』(7)
■(テキストの前に)中世復興で国家相対化
近代国家は,ホッブズがいうように,地上最強の組織だ。統治は近代化されるにつれ強化される。近代化とは合理化であり,組織の合理化とは,ウェーバーがいうように,法(ルール)の支配としての官僚制化である。官僚制は,合理的に立法された客観的な法を公平無私に執行する。この近代的官僚制支配こそが,最も効率的であり,したがって最も強力である。
これは民主化と言い換えてもよい。近代化は民主化であり,民主化は官僚制化である。「人民を人民が人民のために統治する(government of the people,by the people, for the people)」という民主主義の理念は,合理的官僚制なくしては実現不可能だ。近代国家は民主化すればするほど官僚制化し,そして官僚制化すればするほど統治は効率化し,強化される。
この近代民主国は,客観的な法とそれの執行に当たる官僚制により,国民の安全を守る。われわれは国家によって守られている。近現代において,国家なき民,outlaw(法的保護外の者)がいかに悲惨か。まずこの基本的事実をしかと確認しておかなければならない。
そしてまた,国民の安全保障のためにも近代民主国は最強国家だということも忘れてはならない。近代国家は,合理的な法の合理的な執行のために,国民生活の合理化を目指す。合理的に認識し制御できないような情念や慣習の類は,統治の安全と効率の障害物として除去される。こうして近代民主国は,合理的な人民意思による公平無私な効率的統治を実現し,国民にあまねく安全を保障する。完全な予測可能性の下に無駄なく動く統治マシーン。これが地上最強の民主国家なのだ。
しかしながら,近代民主国において,人民が官僚制をマシーンとして使い人民自身を公平無私に統治するということは,具体的には誰も統治しないということ,つまり統治するのは抽象的な「人民」に他ならないということだ。人民意思の支配とは各人が全人民によって支配されることであり,「法(=人民意思)の支配」とは万人が法に支配されること,つまり法を忠実に執行する官僚制の支配に服従することだ。こうして「人民意思」や「法」が物神化され,それに忠実に従う官僚制が自己目的化し始め,やがてそれは官僚主義に堕落し,万人を閉じこめる鉄の檻となる。
哲学におけるポストモダンや政治における多文化主義は,近代合理主義や近代民主主義のそうした非人間化から人間性を救い出し,再生させようとする試みに他ならない。近代の合理化,官僚制化,民主化に抗して,非合理的なもの,非民主的なものを再生させる試み,ルネッサンスが「暗黒の中世」に対する古代的人間性の復興であったとするなら,現代の多文化主義は「光明の近代」に対する中世的ないし前近代的人間性の復興,いわば「第二のルネッサンス」である。
むろん,近代合理主義,近代民主主義を経てきた先進諸国においては,近代の遺産を継承した上での中世復帰である。イザとなれば,国家による法の保障に逃げ込むつもりで,選択的に先祖帰りをしている。これに対し,途上国はいまだ近代国家の強さもその法による保護も十分経験しないまま,先進国にたぶらかされ国家たたきに走っている。そんなことをしていると,「暗黒の中世」がそのまま蘇りかねない。
むろん,先進諸国においても,多文化主義は要するにごまかしであり,つねに民主主義の理念と対立している。近代合理主義の無菌室,近代民主主義の鉄の檻の中では生きづらいが,さりとてバイ菌うようよ,魑魅魍魎跋扈は困る。先進諸国は,国家による安全保障を残しつつ,中世復興による人間性回復を試みているのだ。途上国の人々は,この先進国の狡さを見落としてはならない。
先進諸国の「第二のルネッサンス」は,「暗黒の中世」を「豊穣の中世」と読み替え,現代に再生させようとするが,いかんせん中世は過去のもの。これに対し,近代合理主義による文明浄化をあまり受けていない途上国は,先進諸国にとっては現実にいまそこにある文化の豊穣の海そのものだ。先進諸国の多文化主義は,一面では,近代合理主義,近代民主主義による文明浄化で非人間化し活力を失ってしまった先進諸国が途上国の多様な文化を搾取するための策略に他ならない。
それは,同じような構造を持つ生物多様性条約(1992年)を見ると,よく分かる。先進諸国は,生産効率だけを考え,原野を開拓し,化学肥料や農薬を乱用し,「害虫」「害獣」や「雑草」「雑菌」を絶滅させた。また生活環境を清潔・快適にするため,自然を合理的に改造し,また強力な医薬品や殺虫剤,殺菌剤を多用し,人間にとって不快な他の様々な生物も次々と抹殺してきた。その結果,先進諸国では生物の多様性が失われ,生物の一種にすぎない人間も生きづらくなってきた。人間中心の合理主義の観点からは「雑草」「雑菌」「害虫」「害獣」としか見えなかったものも,複雑な自然秩序の不可欠の構成部分であり,人間の都合だけでそれらを除去してしまえば,自然の調和が損なわれ,その一部にすぎない人間も結局は生きられなくなることが,ようやく先進諸国の人々にも分かりはじめてきたのである。
その先進諸国にとって,途上国の自然はいまや農業,医学,環境など先進国自身の生活の維持向上のためになくてはならない自然資源の宝庫となった。生物多様性条約は,途上国のためというよりは,むしろこの自然資源を先進諸国が無秩序に乱獲しないための条約なのである。
多文化主義は,極論すれば,この生物多様性条約の文化版である。それは,合理化,民主化により生殖力も文化創造力も失いつつある先進諸国が,自らの過去(近代以前)からというよりはむしろ,現存する途上国から根源的な「生きる力」を奪い取るための策略である。先進国主導の多文化主義は,途上国の人々のためのものではない。先進国は,近代合理主義・民主主義の権化としての強力国家を手にしつつ,自らの精力回復のため多文化主義を使っているのだ。途上国は,この事実を見据えた上で,先進国主導の多文化主義への対応を考えるべきだろう。
さて,またまた前置きが長くなってしまったが,こうしたことを念頭に置きつつ,以下,テキストを読んでいくことにしよう。
1.移民の受容
本書によれば,ヨーロッパは大量の移民を受け入れる「移民大陸」である。移民人口比率はすでにフランスで11%,イギリスで8%となり,全体的にはアメリカ(8%)以上となっている。
移民が人口の1割ともなれば,当然地域的にはもっと高いところもあるから,移民の受け入れは,理念というより現実の政策の問題となる。事実,ヨーロッパ諸国では,1970年代以降,次々と移民受け入れ政策が具体化されていった(p54-61)。
・仏=移民労働者庁(1974),ほぼ自動更新の滞在許可証(1980年代)
・独=外国人委任官(1979),無期限滞在許可(1980年代)
・蘭=マイノリティ施策覚書草案(1981)
・蘭,ベルギー=条件付き出生地主義(1980年代)
また,用語としても,無資格滞在者を「不法」ではなく「不正規(irregular)」と呼び,いずれ正規化(市民化)される可能性のある者として処遇している。たとえば,人道基準によりフランスで15000人(2000年)が正規化されるなど,大規模な正規化が行われている(p61-62)。
こうした「市民化」は,移民・難民側からの要求でもあるが,著者によれば,国家・行政側の必要によるものでもある。これは常識でも分かることだ。もし住民の1割もが移民であれば,彼らを市民化しなければ,ゴミ収集から学校運営まで支障が出ることは目に見えている。だから,地方参政権なども,むしろ自治体の必要から付与されるといってもよいだろう。
2.多文化容認
ヨーロッパは移民を「市民化」してきたが,これは「同化(assimilation)」ではなく,「相違への権利」を認め異文化を受け入れる「編入」,つまり「多文化容認」だという。たとえば,英ブラッドフォード市では,ムスリム住民の要求に応え,ウルドゥー語教育,ハラール肉給食,イマームによるコーラン授業が導入された。もちろん,こうした多文化容認政策には反対も強い。ブラッドフォード市では,やりすぎだと攻撃され,大紛争(ハニフォード事件)になってしまった(p63-64)。
その一方,移民の側も,ホスト社会への適応の必要性は感じ,自ら適応していく(p65)。したがって,多文化政策を「上から」と見るか「下から」と見るか,移民の文化変容を「同化」と見るか「適応」と見るか,その判断は難しい。いまのところ,個別事例の分析を積み重ね妥当な評価を探っていく以外に方法はないだろう。
3.J・レックスの「多文化社会」
国家統治の一元性と文化の多様性の問題を解決する便利な方法の一つは,いうまでもなく生活を公的領域と私的領域に二分する近代自由民主主義の方法の転用である。
著者によれば,社会学者のジョン・レックスは,多文化容認と平等とを結びつける努力をしてきた。レックスは――
「移民は公的領域では完全に平等な処遇を受け,私的領域ではその行動の多様性が保障されるべきだとして,それをもって『多文化社会(multicultural society)』と規定する」(p66)。
多文化社会をこのように規定すれば,それはたしかに自由民主主義の大原則と一致する。フランスの不動の国是も全くそのとおりだ。しかし,私の見るところ,公私二領域を分離できないとするのが多くの異文化の特質であり,またこの議論は,私的領域で社会的に抑圧され抹殺されていく少数派文化の救いにはならない。これは,あからさまな同化主義よりはるかにましだが,しかし結局は公的領域を支配する社会的強者の支配の便利な方便になってしまう。
4.デニズンの増加
社会生活を公的領域と私的領域に二分する考え方は,T・ハンマーのいうデニズン(denizen)に通ずるところがある。著者の要約によれば――
「デニズンとは,永住者的地位,居住,移動,就労の自由などを獲得し,しばしば選挙権のみを欠いているような外国籍の市民を指す」(p67)。
EUには長期滞在外国人が多い。ドイツには外国人が734万人(2002年)いるが,そのうち56%が10年以上,33%20年以上。つまり,帰化できても,しないのだ。その主な理由は―― (a)郷里,親族との関係を切れない,あるいは切りたくない。 (b)国籍以外のシティズンシップの拡大。社会保障,住宅,教育など国籍に関係なく保障され,そして地方参政権も与えられるとすれば,国籍をとる必要なくなる。 (c)帰化しても,社会的差別はなくならない。国籍に関係なく,異民族,異文化への差別は継続するから。
5.デニズンのシティズンシップ
このデニズンは,要するに国籍なき市民であり,私には近代以前への先祖帰りのように見える。
(1)近代以前のシティズンシップ
著者によれば,「シティズンシップの観念は遠くギリシア,ローマに遡り,近代以前のそれでは,都市(古代都市国家,中世自治都市),領邦,ギルド・社団,宗教宗派,民族コミュニティなどへの所属がより重要な意味をもっていた」(p74-75)。
また,所属については,アンシャンレジームでもプロイセン王国(19世紀初)でも出生地主義だったという(p75)。
(2)非国家組織のシティズンシップ
現在のヨーロッパでも,移民の受け入れは,国家以外の諸組織が先導してきた。労働組合,社会党系諸政党,キリスト教系諸組織,NGO等々。これにより労働については労組加入権,経営協議会委員・労働裁判所参審員選挙権などが獲得され,社会への適応,社会的諸権利の獲得も進んでいった(p84-85)。
(3)地方参政権
地方参政権も拡大されていった(p86-92)。
・フランクフルト市(外国人人口30%)=外国人会議(1991)。地方参政権に代わるもの。3カ月以上ドイツに滞在し外国人登録をしている者に選挙権。選出された代表は市議会委員会に出席し意見を述べる。
・モン・サンバロル市(仏)=準議員制度(1985)。外国人が代表として準議員3人選出。市議会に出席し意見を述べる。
・スウェーデン=地方選挙権(1975)。3年以上合法に居住する外国人に選挙権。
・オランダ=外国人地方参政権(1983)
・欧州議会=外国人地方参政権への支持表明(1985~)
以上のように,労組,教会,NGOの成員資格にせよ,地方選挙権等の自治体市民権にせよ,いずれも国籍とは一応切り離されたものである。これらにより,外国人はそれらの非国家組織への帰属意識を持ち,シティズンシップを獲得している。これは,私流の言い方をすれば,いわば近代以前の復興である。
■(テキストのあとに)デニズンの二面性
以上の第3,4章の議論から,私は以下のようなことがいえるのではないかと思う。
デニズンの非国家的シティズンシップは,一方では在住外国人の様々な文化要求を受け入れ,多文化共生社会を目指すものであり,またそれは国籍の二重化,多重化ともあいまって国家を相対化し,将来的には世界市民化,地球市民化にすら向かう可能性のあるものである。これにより近代の主権国家の合理的一元的支配が否定され,人間と社会の多様性が回復されていくことが期待できるであろう。
しかし,その反面,デニズンは危険でもある。国家の側からすれば,デニズンは国民としての義務を負担せず,国家サービスにただ乗りし,都合が悪くなると,さっさと逃げ出してしまう無責任な存在と見える。税等は負担するにせよ,戦争とか経済危機とか自然大災害となれば,損得計算で損とわかれば逃げ出す。そんなデニズンを国家は信用できるわけがない。
国家は,あるいは国家というと特定の政府と取り違えられるのであれば祖国というとすれば,その祖国は構成員が生命を賭して守るべきものだ。全体主義を徹底的に批判し自ら武器を取って戦ったG・オーウェルに「右であれ左であれわが祖国」という文章がある。そう,ギリギリのところで,人は自分の祖国に命をかけるのだ。
特に民主主義国は,国家のために生命を捧げるという約束によって成立している。自由民主主義国も社会主義国も,非民主主義の君主国や寡頭支配国以上に国民の生命の犠牲を要求し,国民も自発的にそれに応じてきた。第1次,第2次世界大戦の何千万人もの死を見よ。民主主義による自発性がなければ,こんな大量死は不可能だ。
危機において,デニズン国家は,民主主義国の敵ではない。デニズン国家は,デニズンの安全を保障しない。国家も危ないがデニズンも危ない。逃げ込む祖国があればよいが,もしそれがなければ,危機状況においてデニズンは祖国なき流浪の民となる。
さらに個人の側からしても,デニズンは危険である。国家は老獪であり,人々の虫のよいデニズン要求を逆手にとり,住民をフルメンバーとしての国民と二流市民としてのデニズンに分け,巧妙に分割統治する。新自由主義経済の正社員と非正社員の二分法の論理と同じだ。
好景気のとき,人々は会社に縛られるのはいやだと考え,自由な働き方を要求,若者を中心に多くの人々が非正社員の生き方を自ら選んだ。会社も国家もその要望に応え,そのような人事制度,法制度を作り上げてしまった。雇用の多様化は,むろん企業側の強い要求であったが,同時に労働者側の要求でもあったことを忘れてはならない。
しかし,これは周知のように,労働者を苦しめることになった。企業とその代弁者の国家は老獪であり,労働者側の雇用多様化要求を逆手にとり,労働者をフルメンバーの正社員と二流メンバーの非正社員に分け分割統治,非正社員の雇用条件をどんどん切り下げていった。そして,不況になると,企業や国家が守ったのは,結局,正社員だけだった。労働組合も,非正社員は見捨てた。これは大変だ,と気づいたときは,もう手遅れ。社会も企業も正社員・非正社員の二階級構造となり,もはやどうすることもできない。階級格差は固定化し,カースト化しつつある。
デニズンは,国家フルメンバーの重責を忌避し,利益だけを得るという,虫のよい要求だ。会社に縛られず自由に働き,いつでも辞めたいときに辞めようと思っている労働者と同じようなもの。そんないい加減なデニズンや非正規社員を,国家や企業が国運を賭け社運を賭けて守るはずがない。逆に,これ幸いと,浅はかなデニズン要求,自由雇用要求を利用し,使い捨てにするだけだ。
地方参政権にしても,むろん無いよりましだが,それはむしろ統治のための方便の要素の方が大きい。一流市民と二流市民に分け,一流市民が地方参政権しか持たない二流市民を便利に利用する。そして,イザとなれば,二流市民を踏み台にして自分たちだけが生き残ろうとする。権力の側からリアルに見ると,そうなる。
しかし,である。以上は,あくまでも国家の側から,しかも危機状況を想定すれば,そうなるということである。そして,そのような見方に相当のリアリティがあることもまた残念ながら事実である。
しかし,これまで見てきたように,デニズン化,非国家シティズンシップは,国家の相対化であり,新しい社会を創っていこうとするものでもある。非国家的シティズンシップの拡充により,人間関係が多元的,多層的に形成され,ネットワーク状の社会が構築されていけば,中央集権的国家ではなく,ネットワーク的人間関係により,個人の安全が保障されるようになってくる。
たとえば,日本の国家権力により守られていると信じている日本人と,ネパールなどアジアの国家権力による保障の弱い国とを比較してみると,個人の生活は日本の方が安全とは必ずしもいえない。いまの日本では,年金問題に見られるように,国家がこけたら皆こける。ところが,中国系やインド系,あるいはネパール人にしても,親族,身内,同郷等のネットワークが世界中に張り巡らされており,イザとなればそれらの相互扶助が働く。もちろんまだ不十分なものだろうが,そうしたネットワークが拡充していけば,国家による安全保障以上のものが出来上がる可能性はある。つまり,ここでも中世復興なのだ。
以上のように,デニズン,非国家的シティズンシップには二面性があり,複眼的に見なければならない。そうした観点からEUを見ると,これは現在進行中の壮大な国家相対化の試みであり,今後の展開が大いに注目される。