ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

邦人の「保護」から「安全」へ

谷川昌幸(C)
この方面には疎く,まったく気がつかなかったのだが,従来の外務省「邦人保護課(Division for the Protection of Japanese Nationals Overseas)」が「邦人安全課(Japanese Nationals Overseas Safty Division)」に名称変更されたらしい。「保護」と「安全」は同じようだが,精神は大きく異なる。
 
「保護」は,保護者,保護国,保護関税のように,子供あるいは自立できない弱者を強者が積極的に介入し守ってやるという意味だ。つまり父権主義(paternalism)の原理にたっている。そして,パターナリズムの理念型は,父の無限愛に基づく無限保護だ。父(や母)は,たとえ全財産や生命さえも失うことになっても,わが子を救おうとする。たとえわが子にどんな非があろうと,父(や母)は,わが子への無限責任を果たそうとするものだ。
 
外務省は,むろんこんな父のような無限責任は負えなかったが,邦人「保護」を任務とする以上,精神的にはパターナリズムであり,在外邦人をいわば「子供」と見なし,暖かく「保護」しようとしてきたし,また国民の側もそれに甘え(依存し),「保護」を要求してきた。
 
しかし,これは推測にすぎないが,これだけグローバル化し,大量の日本人が海外旅行や海外居住をするようになると,そんな生暖かい封建的パターナリズムは現実にはもはや維持できなくなり,クールな近代的合理的権利義務関係に外務省も移行していったのだと思う。パターナリズムの無限責任を放棄し,自己の義務を明確化し,それを越えることについては個々人の自己責任とする。これは冷たくはあるが,近代的合理的であり,なによりも現実的である。
 
「安全」は,本来,消極的(negative)な概念であり,パターナリズムを否定する近代国家の基本原理である。前近代国家や現代福祉国家は,人々の生活に積極的に介入し生暖かく人々を保護しようとする。いずれも個々人を自主独立の個人とは見ていない。領主や政府の「保護」がなければ生きていけない子供のような存在と見ている。これに対し,近代国家は人々を自主独立の個人と考え,警察と軍隊による「安全」は保障するが,それ以外は個々人の自己責任と見なした。近代人は,自由を得るため,自己責任を引き受けた。国家は父であることをやめ,「安全保障」に自己の任務を限定したのだ。
 
外務省が「法人保護課」を「邦人安全課」に改めたことには,名称変更以上の意味がある。それは外務省による自らの責任の限定であり,合理的かつ現実的な判断といってよい。したがって,在外邦人,海外旅行者も,外務省はもはや消極的「安全」しか保障してくれない,ということを前提に,行動すべきであろう。厳しいが,それが現実であり,仕方ない。

Written by Tanigawa

2007/11/10 @ 18:49