ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

火に入る聖牛の捨身救世

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すさまじい光景を見た(写真参照)。2頭の聖牛がタレジュ寺院参道で、まるで自ら火に入り、焼身自殺を遂げようとしているかのように見えた。聖牛の丸焼き? 終末を暗示する恐ろしい地獄絵だ。
2
即物的に説明すると――朝8時ころタレジュ寺院横の参道。まだ陽は昇らず、寒い。参道の少し広まったところ、小さなシヴァ神祠の横に大量のゴミが捨てられ、焼かれている。ゴミ処理と、暖を取るためだ。
 
その燃え盛る火の中に、2頭の聖牛が入り、ゴミをあさっている。火は一面に燃え広がり、熱いはずなのに、聖牛たちは火の中心へと入っていく。火の周りでは、十数人の善男善女が暖をとっているのに、誰一人これを止めようともしない。
3
牛を食う西洋人ですら、こんな光景を見たら、動物虐待と怒るにちがいない。2頭の牛の8本の足は火傷になっているはずだ。それでも火の中に入っていく。
一般に動物は火を恐れる。おそらく牛もそうだろう。それなのに、自ら火の中に入っていく。食欲が火の恐怖に勝ったのだろう。即物的に説明すればそうなる。
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しかし、これは深い信仰を集めるタレジュ寺院横の参道であり、悪臭を放ち燃え広がっているのはビニール袋の山、聖牛が口にくわえているのもビニール袋だ。こんな光景を目にして即物的説明で済ますことができる外人はおそらく一人もいないだろう。
大げさだが、これは地獄絵だ。2頭の聖牛が、自らの身を焼きつつ、文明廃棄物を黙々と処理している。ビニールは胃に入り、反芻され、腸に入り、文明毒を身体中にめぐらせ、自らと子孫の生命を危うくするであろうが、それでも人間どもの罪を引き受け、廃棄物を黙々と食べてくれている。捨身救世。まさしく聖牛だ。
5
暖をとっている人々はヒンズー教徒のはずだが、誰一人として聖牛たちのこの犠牲的焼身を止めようともしない。聖なる牛だ。以前なら、おそらくそんなことはなかったはずだ。しかし彼らを責めることはできない。彼らは早朝から露天で働かざるをえない貧しい庶民であり、彼らも文明の犠牲者なのだ。聖牛を思いやる心の余裕すらも、彼らは失ってしまっているのだろう。
6
感傷的に過ぎると批判されるかもしれない。が、この光景を即物的に説明して済ますようなことだけは、したくない。人間性を疑われるからだ。

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【参照】

ゴミのネパール
ゴミと糞尿のポストモダン都市カトマンズ
ゴミと聖牛

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2007/11/17 @ 22:04

カテゴリー: 文化

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