連邦共和国宣言:幽霊議会の王制遺産浪費
谷川昌幸(C)
1.第3次憲法改正と共和国宣言
暫定議会が12月28日,第3次暫定憲法改正を可決し,連邦共和国宣言をした。議決の内訳は次の通り。
賛成 270
反対 3 (RPP2, CPN-U1)
棄権 4 (RJP2, Sadbhavana2)
欠席 44
計 321
改正後の条文はまだ見ていないので正確には分からないが,新聞報道では,第159条が現行の「国王に関する規定」から「国家元首に関する規定」に改められ,ここに「ネパールは連邦制民主共和国となる」と明記され,制憲議会の最初の会議でこれを承認・施行する,と規定されたという。そして,国家元首も首相とされた。
また,第33条Aも改正され,制憲議会選挙をチャイトラ月末(2008年4月12日)までに実施するとされた。
さらに,第63条が改正され,制憲議会議員定数が現行の425人から601人に大幅増員された。
小選挙区制選出 240
比例制選出 335
内閣指名 26
計 601
(注)第1次,第2次改正参照。
2.幽霊議会の人民支配
この連邦共和国宣言は,制憲議会選挙後の制憲議会による承認を得て施行される。これまでの報道ではよく分からないところもあるが,理屈から言えば,ネパールはまだ正式には共和制ではなく,首相も暫定国家元首であろう。国営ライジングネパールも,この2点については何も記載していない。したがって,現体制は暫定体制であり,制憲議会選挙が実施され,そこで承認されれば,正式に首相を元首とする連邦共和国になる,という政治的マニフェストの宣言であろう。
しかし,たとえそうだとしても,国民と国家のあり方を根本的に変えるような決定を,暫定議会でやってよいのだろうか?
いまの暫定議会は,誰一人民主的選挙で選ばれた国民代表ではない。大ざっぱに言えば,議員の3/4は国王により墓場から呼び戻された幽霊議員,他の1/4は政党ボス等による指名議員だ。そんな足もない幽霊議会が,生きた人民を差し置いて,人民の運命を決めてもよいのか? それは死者による生者支配ではないのか?
3.右派の人民への訴え
奇妙なことに,革命派が幽霊議会の人民支配をごり押ししようとしているのに対し,王党派,右派と呼ばれている人々が,生きた人民の声を聞け,と訴えている。
スルヤ・B・タパ(RJP)やパシュパティ・S・ラナ(RPP)は,改正案は主権的権力を行使する人民の権利の侵害だ,と批判した。
S・B・タパ「人民の意思により新たに選出される制憲議会のみが,人民の主権的権力を行使できる。・・・・もしこのような極めて重要な決定が7党でなされるのなら,主権はいったいどこにあるのか?」(Kathmandu Post, Dec28)
人民主権の理念から言えば,これら反革命派の人々の主張の方が正しい。むろん右派には旧体制を維持するという政治的思惑があり,革命派には,制憲議会に任せたら,王党派が暗躍し,連邦共和制への転換が頓挫しかねないとの危惧がある。革命成功の観点からは,前衛が無知蒙昧な人民を指導せざるをえない場合があることはいうまでもない。そうした前衛革命論を採れば別だが,そうでなければ,少なくとも理屈から言えば,この点に関しては右派の主張の方が正当であり,したがって,国連など国際社会も制憲議会による体制選択の一線は絶対に譲らなかった。
それにしても,なんたることか! 人民主権の革命派が生きた人民を恐れ,幽霊議会にしがみつく。「死者の手(dead hand)」で主権を幽霊議会に封じ込め,人民に行使させないようにする。死者の生者支配,過去の未来支配。これは本来,保守の原理であり,君主制の原理的根拠であったはずなのに,いまや,議会革命派がそれにしがみついている。
4.造反有理から体制内化へ
ネオ御用ジャーナリズムは,連邦共和制宣言をまたまた「画期的」と大はしゃぎだが,まともな反論をさせないような議会やジャーナリズムは不健全だ。
民主主義は,丸山眞男によれば「永久革命」であり,毛沢東によれば「造反有理」だ。反論を許さない民主主義は民主主義ではない。
マオイストは毛沢東主義者であり,つい2,3年前まではさんざん「造反有理」を唱え,鄧小平の修正主義や社会主義市場経済を非難してきた。それなのに,いまや本家中国以上にマオイスト修正主義だ。この調子では,造反有理どころか,丸山のような貴族主義的「永久革命」論をすら敵視するようになるにちがいない。
5.王制遺産の浪費
既成6政党とマオイストは,28日の連邦共和国宣言により王制遺産をほぼ使い切り,これからは生きた人民の「造反有理」の嵐を真正面から引き受けざるをえなくなった。これまでは都合の悪いことがあれば,国王の陰謀にして済ますことが出来た。国王が権威であるかぎり,造反有理の「理」は権威の「情」で何とか吸収できていた。これからはそうはいかない。これは,移行戦略としては上策とは言えない。
ギャネンドラ国王やパラス皇太子は論外だが,王制そのものは長い歴史があり,まだまだ利用価値があった。国家はパソコンや車のように合理的に設計・製作し,使用できるものではない。合理的作為の及ばない長い歴史の中で形成されてきた国民感情,あるいは国民を心情的に納得させ服従させる権威無くして,国家は存立しえない。
伝統的にネパールでは,この権威を王制が担ってきた。権威の担い手が国王から人民に移るのは歴史の抗しがたい趨勢だが,情念にかかわる権威は理性では操作しきれないものであり,その扱いには慎重を要する。国家をつくって権威を持たせるのは,至難の業なのだ。
民主主義の歴史の長いヨーロッパは,それをよく知っているから,イギリス,オランダ,ベルギー,スペイン,スウェーデン,ノルウェーなど,いまもって王制を残している国が少なくない。
イギリス人は,世界で最も長い近代民主主義の歴史を持つにもかかわらず,頑固に王制を維持している。フランスのように,国王のクビをギロチンで切り落とし,一気に共和制にするのがよいか,イギリスのように斧で国王のクビを切ってみたものの「人民」の危険性に気付き王制に戻すのがよいか。それは国情により,どちらがよいとも一概には言えない。しかし,君主制より共和制の方が民主的だというのは,まったく根拠のない迷信だ。そんなことを言ったら,ヨーロッパの多くの君主国が怒るだろう。日本は民主的ではないので,反撃しないかもしれないが。
ネパールにとって,王制はまだまだ利用価値がある。イギリス人民は,王政復古以来,三百数十年にわたって王制を利用してきたが,それでもまだ噛めば味が出ると考えている。功利主義の本家,エゲツナイことでは世界に冠たるイギリス人のこと,じゃぶり尽くし,スカスカになり,もう利用価値がないと思えば,王制などサッサと廃止するだろうが,今のところその気配はない。まだまだ利用できると考えているのだ。ことさように,王制は民主主義にとってアリガタイものなのだ。
それなのに,ネパールは,王制の歴史遺産を短期間で浪費してしまった。権威は破壊は簡単だが,再建は至難の業だ。卑近なところでは「赤福」や「吉兆」を見れば,よくわかる。無責任な「人民」にそんな難事業が出来るのか?
アフガン,パキスタン,(シッキム),ビルマ。みな共和制だ。ここにネパールが入る。印中二大勢力の間の,不安定な共和制の弧とならないことを祈っている。