ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

ネパールと包摂参加民主主義:石川論文を手掛かりとして

谷川昌幸(C)

Ⅰ 世界最新政治への驀進
後発国の技術的優位については幾度か論じたが,このところの政治の動き――2006年民主化運動→停戦→暫定憲法→制憲議会選挙→制憲議会開催→新憲法制定――を見ていると,政治についてもその思いを強くする。この一連の政治プロセスを導いている理論や思想は,少なくともそれ自体,世界最先端であり,もし成功すれば,ネパールは21世紀型政治の世界最先進国となる。

いまネパール政治を導いているのは,社会諸集団の「自治(autonomy)」,「包摂(inclusion)」と「参加(participation)」,「権力分有(power-sharing)」であり,そのための制度としては共和制,連邦制,比例制が実現したかあるいは実現間近であり,さらには社会諸集団の「自決(self-determination)」,「拒否権(veto)」,「分離権(secession)」までも唱えられている。あまりにもスゴくて目がくらくら,腰を抜かしそうだ。

Ⅱ 自治と包摂参加:石川論文を手掛かりに
ネパール包摂参加民主主義のスゴさは,たとえばネット公開されている論文,石川一雄「パワー・シェアリング型ガバナンスと民主主義の赤字――カナダとマーストリヒト体制のEUを事例として――」(専修大学法学研究所『所報』第29号,2004年11月)を参照すると,よく分かる。この問題については,もっと新しい文献もあろうが,石川論文は論点を明晰に分析しており,ネット公開され便利でもあるので,以下,この論文を手掛かりに,ネパール包摂民主主義の可能性を検討していくことにする。

1.ガバナンス
(1)ガバナンスの概念
私は文化保守主義者なので,外来語のカタカナ表記は好まない。映画や本の題名のカタカナ表記は知的怠慢だし,お役所のカタカナ使用は国民を欺くための常套手段である。だから,「ガバナンス」もよいとは思わない。

Governanceは,「統治」「管理」のことであり,governの語源はgubernare(操船),つまり国家という船を操ることだ。だから,「統治」と訳してもよいのだが,そうしないのは「ガバナンス」に別の意味を与えたいからであろう。石川氏の文学的表現では,次のようになる。

「ガバナンスは,中心権力をもち,権威的支配をビジュアルに成立させるガバメントとは違い,中心的権力や権威が不在なままに諸単位が統治にかかわって生み出す秩序だといわれる。しかし,実際には,いくつもの大小の中心を併存させ,絶えざる危機に直面しつつ,さまざまに工夫される安全のための手続きが合体し,衝突し,アメーバのように形を変え,混血的な一時的権力体を生み出し,消えゆき,星雲のような在りようを示す。それは絶えず政治を生み出す場である。降りかかる困難から人びとを救うことは,出来上がった手続きを通じてはできない。組織の論理,制度の倫理を超えるところで,自由に情況に対応し,結果を見つめる完結し得ない作業が永劫に続く場,それがガバナンスである。」(p.2-3)

わかりやすくいえば,理念としてのインターネット世界のようなもの,あるいはより正確には,ネグリ=ハートのいうマルチチュードが生み出す世界のようなものであろう。

2.自由主義者の「良きガバナンス」
このガバナンス理念と似て非なるものが自由主義者の「良きガバナンス」である。石川氏によると,それは「政治の行政化」,「governance without government」であり,「リベラル・ピース論と武力平和論の二つの顔をもっており,民主主義と人権を擁護する正義論とともに,人道的目的での軍事介入の論理,治安維持目的での戦争権限行使によって構成されている」,つまり「主権国家間体制を超え,世界政府を希求する姿勢と繋がっている」(p.3)。

この近代主義的「良きガバナンス」論では,公開性,透明性,説明責任が求められ,社会諸集団は「包摂」され,市民社会の中に「場所」を与えられるが,そのかわり「参加の名の下に統治の枠の中に組み込まれてしまう」(p.4)。これは,権力空間であり,「中心」が周縁部を支配する。「克服されるべき危機は中心によって構築され,取り組むべき政策的問題群も選別される」(p.4)。

以上の「ガバナンス」と「良きガバナンス」の対比は,ネグリ=ハートの「マルチチュード」と「帝国」のそれにほぼ対応すると見てよいだろう。そして,著者の立脚するのは,いうまでもなく前者「ガバナンス」の立場である。

3.パワー・シェアリング
(1)パワー・シェアリング
ガバナンスにおいては,支配する中央権力は否定され,権力は分有される。つまり,

「パワー・シェアリング(権力分有)は,自治権の相互承認を柱とする協同統治体制を意味する。それは,支配-従属関係を核とする集権的統治(垂直的権力関係)に対し,権力の共同行使を核とする多層分権的統治(水平的権力関係)に力点を置く概念である。」(p.7)

この権力を分有するのは民族等であるが,石川氏は,そうした構成単位を「実体化(閉域化,絶対化)」するのは誤りであるとし,「構成諸単位をつねに『境界線をもった単位』として,内実そのものは流動的にとらえている」(p.6)とされる。

これは著者のいうとおりで,民族等を「実体化」してしまえば,今度はその民族内の中心-周縁(支配-被支配)が問題になる。しかし,現実問題として,「集団の権利」を認めると,集団は実体化してくる。実体化するからこそ,個人の集合ではなく,「集団」そのものが権利(集団的権利)をもつのだ。集団の何らかの実体化なくして,集団の権利を認めるのは難しいのではないか? ここが,理論的にも,現実政治としても,難しいところだ。

(2)パワー・シェアリング体制
パワー・シェアリングは,制度的には状況に応じて,自治権,拒否権,大連合,比例制,離脱権,政権輪番制,連邦制などを要請するが,基本にあるのは「自治(autonomy)」である。

パワー・シェアリングにおいては,「あくまで自治(self-rule)の承認による共治(shared rule)が原則であり,集権と分権とのさまざまな組み合わせによって構成単位の自治を確保し,人口の多寡にかかわらず,集団としての存在比例(proportionality)への配慮を柱とした大連合体制を組むのが特徴である」(p.9)。

このパワー・シェアリングの体制は様々であるが,代表的なのは,著者によれば次のようなものである(p.9-12)。この分類は大変わかりやすく,ネパールの憲法論にとっても参考になる。

政治体制 制度の概要 主な採用国等

Confederation 共通中央政府-自治権を持つ構成諸国家 EU, CIS

Federation 連邦制。連邦政府-州政府 米,印,加,独,スイス

Federacy 大きな単位-自治権を持つ小さな単位 米-プエルトリコ
印-カシミール

Associated state 結合国家。一方的離脱権の保障 仏-モナコ

Consociation 「非領土的連邦化原則により複数エスニック集団の自治と協同とをエリート協調を通じて実現する体制」(p.10)。自治,拒否権,比例制 スイス,ベルギー,オランダ

Union 連合。構成単位が主権性を維持しつつ,共通の統治機構を設立 ニュージーランド,レバノン

League 連盟。特定の目的のための連携 アラブ連盟,ASEAN, NATO

Joint functional authority 特定機能の協同遂行のための専門機構 NAFO, JAEA

Condominium 共同統治 アンドラ(1278-1993)
バヌアツ(-1980)

Home rule 内政(地域,地方)自治。権限移譲による自治 スコットランド,北アイルランド

Cultural home rule 文化的内政自治。言語,宗教などの自治

Autonomous provinces or national districts 自治州,民族自治区 スペイン

その他 輪番統治制,協同協会制など

 

4.多民族民主主義
パワー・シェアリングの形は多種多様であり,歴史的にも多くの実例があるが,近代的代表制民主主義,あるいはウェストミンスター型議会制民主主義の立場からは,いくつかの問題点が指摘されていることも事実だ。

石川氏によれば,そうした立場からは,パワー・シェアリングはエリート協調主義であり,拒否権付与で多数決デモクラシーが否定され,集団的権利の肯定により特定のサブカルチャーが実体化され個人の権利保護が危うくなるといった批判,つまりはアイデンティティ政治への批判がなされている(p.12-13)。

したがって,この立場からは,多民族社会で暴力的紛争後,パワー・シェアリング体制とするとしても,それは「あくまでも暫定的な措置,あるいは非民主性に目をつぶった上での移行的措置」(p.13)ということになる。

しかし,石川氏は,パワー・シェアリング体制を民主主義を実現しうる政治的仕組みと考え,卓抜な哲学的表現で次のように説明されている。

「パワー・シェアリング体制を独特なものにしているのは,多様性への深い理解である。そこには,極化を許容する姿勢が組み込まれている。それは,極としての存在を他の極との相互依存関係においてとらえ,極と非極との相即性を政治空間の構成原理とする姿勢である。・・・・極は,他者媒介的であり,同時に他者否定媒介的でもある。極間の関係は,非連続的性と連続性とを両立させ,相互媒介的で,他を内に含み,同時にそれを否定して自己自身であるような関係である。それは,ちょうど棒磁石のN極とS極の関係に等しい。NもSも,それぞれに絶対的極である。しかし,その極性は対立する他の極の存在とともに成立している。二つはそれぞれに有(実体)でもなく,無(単なる依存性)でもなく,有無相通ずる相互性のもとにある。これが,ナショナルあるいはエスニックなアイデンティティの在りようとなる。一即他,他即一のこのような単位の在りようによって極をとらえるならば,国家やエスニック集団を実体化し,本質主義的単位として,そのアイデンティティと主権性とを承認させようとする姿勢はどこからも出てこない。」(p14)

これをもう少し具体的に言い換えると,次のようになる。

「人々がその生まれて生きる環境の違いを反映した政治的・社会的秩序を生き,独自な文化を育み,そこに共有されるアイデンティティを重視するとしても,それはきわめて自然なことである。そうした文化的価値の共有を踏まえた行政区画からなるパワー・シェアリングの工夫は,領土的自治の承認,あるいは機能的で非領土的な自治単位を肯定し,単純に国民人口規模の多数の意思のみを実現していく普遍的正義観とは異なる秩序への視点を生み出す。それは,もちろん普遍を否定し,すべてを相対化することを意味してはいない。そうではなく,とことんその特殊な生を生きた果てに,おそらくは普遍に通ずるものに触れることができるという理解がそこにはあると考えるべきだろう。」(p.15)

この説明は,よく理解できる。ネグリ=ハートがマルチチュードで主張していることも,おそらくこのようなことであろう。

Ⅲ 包摂参加民主主義の可能性

グローバル化により,もはや近代主権国家をそのまま維持できないことは自明なことだ。日本の教科書では,いまだ近代主権国家を当然の前提とし,主権,領土,国民を排他的な不可侵なものと教えているが,そんな見方はもはや現実とはほど遠い。グローバル化により,それらは急速に相対化され,すでに世界社会も国内社会も多かれ少なかれパワー・シェアリング体制となり,今後さらにそれが加速して行くであろうことは確かである。したがって,ここでの問題は,それがどのような過程を経て進行するかである。

核心は,集団の権利と自治である。石川氏も指摘するように,集団の自治を認めるなら,当然,その延長として自決権があり,国家(あるいは所属政治組織)からの離脱権も認めざるをえない。すでに個人には国籍離脱権があるのだから,集団に権利を認めるなら,国家離脱権も認められて当然だ。民族自治は民族自決であり,これは分離独立の権利だ。たとえば,九州は東京に従属する必要はなく,いつでも日本から分離し,韓国や中国と連合を組んでもよいわけだ。

しかし,問題は,離脱権さえ認めた上でのパワー・シェアリングによるガバナンスが,現実にどこまでうまくいくかということだ。石川氏自身,「いずれのケースもうまく機能しておらず,これから制度化するプロジェクトについても,誰の目にも困難さの方が際だっている」と指摘している通りだ。

特にネパールのような途上国の場合,いったんアイデンティティ政治を認めると,およそ個人の自由や人権と相容れないような文化や集団がパンドラの箱から次々と出てくる恐れがある。法では禁止されていても,実際にはまだ農奴制に近いものがあり,これだって立派な文化といえる。周知の売春集団だって,一つの社会集団だ。そんな有象無象が文化自治,集団自治を主張し始めたら,収拾がつかなくなる。あるいは,もっとやっかいなのは地域や民族。タライ地方が民族自決でネパールから分離すれば,実際には,インド併合となる。その場合,タライ内の非インド系民族はどうなるのか?

さらに見落としてならないのが,政治体制はパワー・シェアリングで多民族の分立自治化していっても,非政治領域とくに経済は際限なくグローバル化し,その支配力は巨大化していく。この強大化する非政治的権力の支配に,分節化・多元化し弱体化した個々の政治単位がどこまで対抗しうるのか? 

パワー・シェアリングは,自由・独立の個人の権利を平等に保障することを理念とする近代主権国家を解体することによって,実際には,グロ-バル資本主義の普遍主義的支配を裏から支えることになるだけではないのか? つまり,それはネグリ=ハートのいう「帝国」に敵対するようでいて,実際にはその下働きをすることになるだけではないのか?

たとえば,ネパールにおいて,近年,民族の言語や文化を破壊しているのは,国内多数派民族というよりは,むしろグローバル資本主義である。中央国家権力を弱体化させれば,グローバル資本のネパール支配はさらに容易となり,各民族のグローバル資本主義への従属はさらに進行するであろう。

国家相対化が時流であることを認めた上で,私はあえて言いたい。

・すでに強大な近代国家権力を確立し終えている先進諸国には,途上国の近代的国家主権確立の努力を非難・妨害する権利はない。

・途上国には,中立的,合理的,合法的な近代的国家主権を確立する権利があり,それによって得られるものは,失うものよりも断然多い。

Written by Tanigawa

2008/05/19 @ 19:56