ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

ゴミと聖牛

谷川昌幸(C)
このテーマについては、昨年も書いたが、状況はさらに悪化し、聖牛たちのあまりの哀れさに不覚にも涙を禁じえなかった。牛を食う罰当たりなキリスト教国でさえ、牛の権利はもっと尊重されている。(少し前、アメリカで、へたり牛をフォークリフトで突付き屠殺場へ追いやろうとした従業員が、牛権侵害で囂々たる世間の非難を浴びた。かの国では、牛を殺すにも、「牛道的」に殺すことになっているのだ。人道的殺人を規定する国際人道法と同じ論理だ。)
 
1.ケガレとしてのゴミ
この国では、ゴミはケガレであり、忌避の対象。伝統的カースト社会では、ケガレを下送りし、最下層の人々にゴミ処理を押し付けていた。このケガレ下送りシステムが、宗教的に聖化され正当化されていたときは、町も村も清潔であった。
 
ところが、民主化とともに、そのケガレ下送りシステムが機能しなくなる一方、政治的混乱の長期化で新しい近代的民主的ゴミ処理システムの構築が出来ないため、カトマンズはいまやゴミだらけ。不潔・不快きわまりない。
 
ゴミは路上に捨てられる。いたるところで道幅の半分以上を生ゴミ、不燃ごみが占拠し、交通渋滞となる。強烈な腐敗臭の中、すし詰めバス乗客や通行人はひたすら我慢を強いられる。ケガレ観念を残したまま、それを処理する伝統的社会制度を破壊したつけが、これだ。
 
さらにグロテスクなのは、悪臭・汚物まみれの道路に面して、ハイカラ高級ブランド店や超豪華マンション等が続々と建設されていることだ。生ゴミ腐敗臭にまみれつつ、ブランド店で優雅にお買い物。
 
これは、むろん伝統的清掃人の責任ではない。これまでケガレを下送りされ、ゴミ処理を押し付けられてきた人々が、議会に代表を送り、自分たちの権利を主張し始めたのは、当然なことだ。彼らには、冷房の利いた快適なオフィスで働く特権社員と同等以上の給与が支払われて当然だ。責任は、自分たちの利己的都合で伝統的社会制度を破壊しながら、それに代わる新制度を作ろうとしない為政者たちにある。
 
2.階級と民族のすり替え
ここで警戒すべきは、2006年4月政変で権力を得た人々が、階級問題を民族問題にすり替える動きが見られることだ。科学的調査などしなくても、カトマンズで貧富格差が急拡大していることは明々白々だ。特権階級による搾取は激化している。
 
これを放置すると、困窮者の暴動、革命になるおそれがあるので、権力者たちは問題をたくみに民族問題にすり替え、不満を人為的に創られた「民族」に解消しようとしている。ネパールの被抑圧人民は、「民族」で分断されてはならない。マルクス、毛沢東は、むしろこれから彼らの導きの星となるのだ。
 
3.聖牛から野良牛へ
しかし、これは人間界のこと、聖牛たちはまだ、祖国が世俗国家になったこと、そして自分たちがただの家畜になったことを知らない。
 
あわれ聖牛たちは、過去の威厳そのままに、今日も悪臭ただよう路上ゴミの真っ只中に座り、腐敗ゴミやビニール袋を食べている。泥沼の睡蓮。人間のケガレを一身に引き受け、わが身を犠牲にして、人間を救おうとしている。神々しい、聖牛の最後の姿だ。
 
しかし、こんなことはいつまでも続かない。聖牛たちの訴えはいつかは罪深い人間の心にも届き、ゴミはケガレから開放され、価値中立的な廃棄物となり、近代的に処理されるようになるだろう。清掃人は、清掃局の従業員となる。
 
そのとき、聖牛の人間救済は完成する。聖牛はケガレたゴミを食い、人間に罪を自覚させ、ゴミ処理を近代化させる。清掃人は根深い差別から救われる。しかし、そのとき、聖牛は世俗化され、ただの野良牛となり、飼い主に引き取られ、近代的管理の下で飼育されることになるだろう。聖牛は、自らの聖性を犠牲にすることのより、人間を救済するのだ。
 
しかし、聖牛のこの崇高な自己犠牲により実現される世俗的近代的社会が、人間と牛たちにとって本当に生きるに値するような、意味に満ちた社会となるかどうかは、まだ分からない….。

【参照】
ゴミのネパール
ゴミと糞尿のポストモダン都市カトマンズ

Written by Tanigawa

2008/06/19 @ 23:59

カテゴリー: 宗教, 文化

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