停電16時間の革命的意義
谷川昌幸(C)
カトマンズは明日からパワーカット16時間,1日の2/3が停電だ。これはスゴイことであり,それに耐えうるネパール社会の「強さ」,「健全さ」は賞賛に値する。
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日本は,近現代化で贅沢三昧,肥満虚弱社会と化し,このような試練にはとうてい耐えられない。
わが大学では,ほんの数分の停電であっても,半月前に予告し準備するが,それでも文句たらたら。あるいは,水道の断水でも大騒ぎ。先日も,東北地方で,1,2日断水したら,なんと全国ニュースとなり,水道局が平謝りしていた。
電気や水道が数日止まろうが,たいしたことはない。いざとなれば,川の水を薪で煮沸して飲めば済む。ただ,それだけのこと。死にはしない。
この肥満虚弱日本社会では,いまやストライキですらできない。1日や2日,電車やバスが止まろうが,学校が休みになろうが,本来なら,どうということはない。それなのに,ストでもしようものなら,まるで極悪非道の反社会的行為であるかのように世間やマスコミに糾弾される。
こんな不健全な肥満虚弱社会を誰が,何のためにつくったのか? だれが,こんな社会から利益を得ているのか?
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部外者の無責任を承知で言うのだが,ネパールの16時間停電突入で困るのは,外国人や都市富裕層だ。低所得層や地方農民などは,もともと電力依存度が低いので,あまり困らない。都市であっても,バグマティ川岸のスラム住民は平気だ。
いま電力カットにたらたら文句を言っているのは,ネパールの特権階級であり,電力不足解消要求は,彼らの特権回復・維持のためなのだ。
極論すれば,電力不足,化石燃料不足は,近現代化で格差拡大し肥満化の兆しが見え始めたネパール社会を,地方農民・都市下層住民の立場からいったんリセットし平準化するチャンスといってよい。それらがなくなってしまえば,都市も農村も生活条件はほぼ同じになり,格差は解消し,失業者は一人もいなくなる。
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暴論だと非難されるかもしれないが,これは格差社会日本の現状を鋭く批判し,話題となった赤木智弘「『丸山真男』をひっぱたきたい。31歳フリーター。希望は,戦争」(『論座』2007年1月号)と同趣旨の議論である。
*パルバティ同志,ヒシラ・ヤミ(2b)参照。
赤木氏は,バブル崩壊により就職機会を失い挽回の希望すら持てなくなってしまった「負け組」にとっては,格差社会の「平和」の現状を耐え忍ぶよりも,むしろ戦争による根底からの現状否定,社会のリセットの方が望ましい,と主張した。
乱暴な議論であり,政財界はおろか労組や「進歩的」知識人からも激しい非難を浴びたが,しかし,赤木氏の議論は危険ではあるが,決して的外れではない。格差拡大し,それが固定化し,「負け組」には復活の希望すら持てなくなったとき,「負け組」がそうした格差社会の平和的改善ではなく,それを根底から否定(リセット)し,いわば自然状態に戻って,そこからやり直そうと考えるようになるのは,至極当然のことだ。
そもそも,いまの資本主義社会も,市民戦争(革命)により中世封建社会を根底から覆し,既成秩序なき自然状態に戻ってから,改めて創り出された社会に他ならない。
だから,社会で格差が拡大し,それが固定化してきたら,右か左からの「革命=戦争」が唱えられ,社会の下層多数派から支持を集めるようになるのは当然なのである。
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しかし,革命であれ反革命であれ,そして戦争はむろんのこと,あまりにも犠牲が多い。できれば,それは避けたい。
そのためには,自由放任にすれば格差の拡大・固定化に向かう社会を,つねに揺り動かし,平等化する努力をすることが絶対に必要となる。
人は,裸の状態(自然状態)ではみな自由・平等であり,これが正義であることは自明の理だ。
ところが,皮肉なことに,平等な人が自由を行使すれば競争となり,格差が生じる。この格差は,平等の理念からすれば,悪だ。しかも,それが固定化すれば,自由の自己否定にすらなってしまう。
だから,人間社会はつねに平等と自由の理念により批判され,格差が固定化しないように修正され続けなければならないのだ。
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この観点から見ると,日本は肥満虚弱化が進行し,もはや揺り動かすことすら難しい危篤状態に陥りつつある。労組や「進歩的」知識人ですら赤木論文の問題提起を理解できず,既存格差社会の擁護に回ってしまった。
これに対し,ネパールはまだ健全といえる。ストもバンダも,停電も断水も,日常茶飯事だ。
無スト社会は,スト社会より不健全だ。
無停電社会は,停電社会より不健全だ。
たしかに,バンダも停電も困りはする。しかし,困るのは自分が特権的生活をしているからであり,バンダや停電はその悪しき生活を反省させてくれる必要不可欠の機会なのだ。
24時間365日停電となれば,ネパールの人々は都市も農村もなくほぼ平等になる--逆説的ではあるが。