ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

NHK「ムスタン王国」の真実・再説

1.「ムスタン王国」ヤラセ事件
かつてNHKの辣腕プロデューサーが「禁断の王国・ムスタン」(1992)を制作し放映した。傑作ドキュメンタリーで,日本中が感動した。(ユーチューブではまだ未公開)
 
ところが,誰かにねたまれたのか,このドキュメンタリーはヤラセであり,ネパール王国と日本視聴者を愚弄するものだと,攻撃の火の手が上がった。問題にされたのは主に次の点:
  ・ムスタンは「王国」ではない。
  ・流砂はスタッフが流したもので,ヤラセ。
  ・高山病は仮病で,ヤラセ。
 
この他にも,多くのヤラセや誤りが糾弾され,やむなくNHKも調査委員会を設置し,制作過程を調査した。その結果,問題にされたことの多くが事実と認定され,特別番組でそれが詳しく説明された。そして,NHK会長らが,皆様のNHKが善良な視聴者を騙したとして,平身低頭,沈痛な面持ちで平謝りを繰り返した。このとき辣腕プロデューサー氏らがどのような弁明機会を与えられたのか,またヤラセ判定・懲戒処分後,どうなったのかは分からない。
 
この経緯を見て,私は唖然とした。そして,断固,番組を擁護すべく授業で何回も取り上げ,「ムスタン王国」の「真実」を力説した。
 
2.「事実」は語らない
写真にせよドキュメンタリーにせよ,生の「事実」をあるがままに写すものではない。撮影者,制作者の意図に従い,生の現実のある部分を切り取り,写真やドキュメンタリーとして表現する。学術論文にしても絵画,文学作品にしても同じこと。
 
「事実をして語らしめる」という客観主義の常套句があるが,これは真っ赤な嘘であり,生の事実は何も語りはしない。撮影者・制作者が,一定の意図に従い「語らしめる」ことによって,つまり事実を「加工」することによって,事実は何事かを語り始める。
 
3.ドキュメンタリーと演出
この制作者の意図(意思)による事実の加工が,「演出」である。写真にせよドキュメンタリーにせよ,いや学術論文ですら,およそ作品は「演出」なしには,ありえない。
 
4.「真実」を伝えた「ムスタン王国」
では,「ムスタン王国」の場合はどうか? ムスタンが高山の厳しい自然環境の中にあり,そこへの経路が険しく,流砂があり,ときには高山病になることは,事実だ。制作者は,そのムスタンの「真実」を伝えることを目標に,番組を制作した。
 
ところが,取材中には,あいにく流砂も高山病も発生しなかった。もっと手間暇をかければ,いずれそれらは発生するだろうが,取材班にはその余裕はなかった。そこで,流砂を人為的に流し,高山病の振りをし,撮影した。
 
「流砂」も「高山病」も,そのとき,そこで起こった「生の事実」ではない。しかし,そこでは,それらはしばしば発生することであり,番組がその「真実」を伝えることを目標とするのであれば,「ムスタン王国」は大筋では視聴者を騙したことにはならない。(いくつか事実誤認や誤りがあったことはたしかだが,こうした海外取材ではある程度はやむを得ない。)
 
むしろ,あえていうならば,ドキュメンタリーは「生の事実」を伝えるものだという誤った情報をセンセーショナルに流し,善良な人民をヒステリックな制作者糾弾に誘導したことの方が,ヤラセとして批判されるべきである。
 
5.演出の許容範囲
しかし,そうはいっても,演出が無制限に許されるわけではない。演出がすぎると,文字通り「絵空事」となり,「事実」が何か分からなくなってしまう。演出がどこまで許されるかは,一方における「真実」を伝えようとする制作者の誠意と表現能力,他方における「真実」を見ようとする視聴者の成熟度により,つまり制作者と視聴者の「真実」をめぐる格闘を通して,自ずと妥当な範囲に収まっていくだろう。それが表現の自由の醍醐味だ。
 
「ムスタン王国」の場合,過剰演出かどうか,たしかに微妙なところではある。安全第一であるべきなら,番組最後の字幕部分に,「王国は通称,流砂と高山病は再現映像」と一筆入れておけば,よかった。そうすれば,この番組がこれほど糾弾されることはなかったであろう。
 
6.「事実」はつくられる
実は,このことは,大学が新入生に,まず第一に教える,ごく初歩的な事柄だ。新入生は,教科書の記述を「事実」そのものと信じて疑わない。小中高校で,文科省やその支配下の教員に,そう洗脳されているからだ。
 
そんな新入生に対し,大学はまずガツンと一発,すべての「事実」は誰かにより「つくられた事実」だ,とぶちかまし,新入生どもの心地よい独断の眠りを覚ましてやる。大学教育は,国家への反逆から始まる。それをしない大学は「大学」の名に値しない。
 
だから,写真やドキュメンタリーを見て「生の事実」だなどと脳天気なことをいう大学卒業生は,日本には1人もいないはずだ。それは基本中の基本で,口にするのも恥ずかしいくらいのことだ。
 
6.解釈と「事実の堅い芯」
しかし,「事実」はすべて解釈によりつくられるかというと,決してそうではない。もし「事実」はすべてつくられるものなら,ノンフィクションとフィクション,歴史と歴史小説の区別がつかなくなってしまう。「事実」はつくられるが,しかしすべてがつくられるわけではない。ここに,科学(学問)や文学・芸術の難しさがある。
 
この問題を鮮やかに分析し,大学生にもよく分かるように易しく面白く叙述したのが,E.H.カー『歴史とは何か』(岩波新書)だ。大学新入生の必読文献であり,日本の大学生はみな読んでいる。ここに書いてあることの概略でも理解していないと,独断の微睡みから目覚めない大人子供と見られ,大学を卒業させてもらえない。
 
しかし,碩学カー先生の本は,完全に理解しようとすると,これは難しい。本当に「事実の堅い芯」など,あるのか? あるとすれば,どのようにしてそれを認識するのか?
 
カー先生は,「歴史は現在と過去との対話である」と力説される。それは,「真実」をめぐる制作者と視聴者,作者と読者の間の対話と言い換えてもよい。難しいことだが,こうした大人の対話を続けていくしか,「事実=真実」へは接近できないのだろう。

【参照】

■やらせ 
■池田信夫「やらせ」
■虚偽報道
■ムスタンの真実―「やらせ」現場からの証言  
■NHKスペシャル「ムスタン」の真実
■秋山久 第45回 「やらせ」番組考(2000・12・25転記)  ネットジャーナル「Q」  (秋山氏の略歴)NHK報道局社会部(ニュースデスク、ニュースキャスタ),東京経済大学非常勤講師を経て,現在,フリージャーナリスト。(追加2014.2.8)

140208 ■ローマンタン(Google)。いまや秘境も丸見え(2014.2.8)

谷川昌幸(C)

 

Written by Tanigawa

2009/01/15 @ 10:56