ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

車の運転と国家統治

 谷川昌幸(C)
 統治governmentは,「船を操る」が語源。操船,あるいは現代であれば車の運転を見ると,その国の政治のあり方がよくわかる。
 
イギリスが民主主義の国とされるのは,タイタニック号事件(史実とすれば)に見られるように,船長以下乗組員が職責に殉じ,英国男性乗客が「紳士」として振る舞ったように,人々が目先の利益よりも規範や誇りを重視し行動する態度を身につけているからだ。民主主義は紳士の政治である。
 
ネパールの政治は,この対極にある。政治はそれぞれの文化ごとに様々であってよいが,もしかりに西洋民主主義をモデルとするなら,ネパールの政治家には「紳士たれ」といわざるをえない。そして,紳士となるには,客観的規範(ルール)をたとえ自分に不利であっても守り抜くという「やせ我慢」の美学の体得が不可欠である。
 
この美学がもっとも赤裸々に現れるのが,現代では道路交通である。深夜,車一台通らなくても,赤信号で止まる。愚劣かつ高尚だ。紙一重の差。わかる人にはわかる。それが紳士だ。ネパールの車運転はこの対極にある。
 
3月19日,ゴルカに行く途中,大渋滞に巻き込まれた。カトマンズ,ポカラ,チトワンの三方面からの幹線の集まる三叉路,ムグリンのはるか手前で車が止まり,全く動かない。トラック運転手は車台の下に潜り込み寝ている(日陰で涼しい)。露天が店開きし,飲み物,お菓子,弁当を売りに来る。 はてはサドゥ(ヒンドゥー教行者)たちが現れ,渋滞解消のため(?),有難いお祈りを唱え,祝福を受けよと呼びかける。まさにネパール的(インド的)混沌。ゴルカよりも面白そうだが,ゴルカに行くという目的合理性には反する。私も近代人だから,イライラが募り,この前近代的・非合理的渋滞を呪い始めた。
大渋滞。車台下で昼寝。路上販売始まる。
 
もしこれがバンダ(ゼネスト)かチャッカジャム(道路封鎖)だとすると,マオイストかマデシか,あるいは身内を轢き殺された一族かが,自分たちの要求を通すためやっているに違いない。はなはだ不合理で,紳士的でなく,したがって民主的ではない。ケシカラン! もうあきらめ引き返そうかと思い始めた頃,これはどうやら自然渋滞らしいということがわかった。
 
そこで周囲を見回してみると,こんなことをやっていては渋滞は当たり前だ,と思われる不可解な交通慣習がいたるところに見られる。 まったくもって不可解なのが,自己中(自己中心)の横着駐停車だ。この道路はインド・タライとカトマンズを結ぶ幹線で,大型トラックが多数往来する。それらのトラックが,道幅の狭いところに平気で駐車している。たとえその20~30m先に広い空き地があっても,そこまでいって駐車することは,しない。カトマンズからムグリンまで,ずぅ~と観察してきたが,そんな自己中横着駐車が無数にあった。紳士たるもの,ルールに従うこと以上に,他人に迷惑をかけないことを心がける。ネパールの運転者はこの逆,他人のことなどまったく考えていない。おそらく,それが迷惑をかけるとすら意識していないのであろう。
 
近代的愚劣の新名所マナカマナの茶店で,ハイカラ軽薄「即席ラーメン」を恭しく賞味しながら見ていると,この世のものとも思えない超自己中ドライバーに,あきれるのを通り越し,いたく感動させられた。何と,道の両側に車を止め,茶店に入り,茶を飲んでいる。当然,通行困難になり,渋滞が始まり,ブーブー,プープーとやかましくなるが,われ関せず,まったく平気だ。恐れ入りました。
両側駐車名所マナカマナ。即席ラーメン賞味のレストランより。
 
しかし,こうした自己中は悪いことばかりではない。ネパールでは,少々他人に迷惑をかけても,怒られない。プープー,ブーブーとけたたましいが,日本のように血相を変えて文句を言い,あげくのはて殴り合いになったり,逆上して殺したりするようなことは,まずない。迷惑なれしていて,迷惑を迷惑とも感じていない。だからこそ,バンダが日常化しても,停電16時間になっても,人々はまぁ仕方ないか,と平静でいられるのだ。日本だったら,天下の一大事,非難の雨あらし,首相の首が飛んでしまう。
 
19日のムグリン渋滞も,大型トラックが駐車し,そこにばかでかい超豪華ツーリストバスが来て動けなくなたことから発生したものだった。 まったく動かない。そうなると,これまた不可解きわまりないのだが,ネパール人(インド人)ドライバーは,待つことができない。二車線なのに,反対車線に出て我先にと先に突き進む。同じことが,渋滞の向こう側でも,当然,発生している。つまり,渋滞の起点を挟んで,反対向きの車が二車線をびっしり埋め,角突き合わせているわけだ。これでは,もうどうにもならない。事態は悪化するばかりで,道路そばのサドゥご一行の祈りも,ますます熱を帯びてきた。
渋滞解消祈願(?)のサドゥご一行(左)。バス前がわれらの乗用車。 
 
ここでスゴイのは,さすがヒンドゥーの神々,行者の祈りが通じたのか,役人か顔役のような人物が警官をつれ,現れた。そして,権威を振りかざし,テキトーに車を整理し始めた。すると,あ~ら不思議,角突き合わせ二進も三進もいかなかった車が少しずつ動き始め,やっとムグリンを通過できた。
 
考察。ネパールのドライバーは,ルールがあるところではルールに従いルールのないところでは良識により他者に配慮する英国紳士の対極にある。このネパール・ドライバーの行動様式は,交通量が少ないときは有効であろうが,交通量が増えると対応できなくなる。したがって,もし車社会以前に戻るのがいやなら,ネパール・ドライバーも交通ルールと良識に従う紳士とならざるをえないのである。
 
同じことが,国家の操縦者たる政治家についてもいえる。社会が複雑化・流動化してくると,もはや人を見て統治するその場しのぎの「人治」は無理だ。ルールによる「法治」,良識による民主主義に移行せざるをえない。ネパールは紳士とならざるをえない。
 
渋滞犯の超豪華巨大観光バス(中央)。近代悪救済を呼びかけるサドゥ(右)。
 
【補足】
これは単なる精神論ではない。1970年頃までの大阪では,整列乗車,整列駐車ができなかった。電車やバスがくると,皆われ先にと乗車口に殺到し,押し合いへし合いの大混乱。運転でも,割り込みや二重,三重駐車は日常茶飯事だった。 それが,「紳士たれ」キャンペーンにより,いまではお行儀よく整列乗車,合法駐車ができるようになった。何かを失ったのではあろうが,それはいまは問わない。
 
とにかく,教育は偉大であり,一世代で人々の行動様式は革命的に改造できることが,大阪で実証された。トラですら,その気になれば,飼い慣らすことができるのだ。

Written by Tanigawa

2009/04/04 @ 11:37