ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(3)

谷川昌幸(C)
2.愛国者の「憂国の書」
水村美苗氏はパトリオット(愛国者)であり,『日本語が亡びるとき』は祖国愛に突き動かされた「憂国の書」である。彼女自身,こう述べている。  
 
 憂国の士たちは、自らのために動いているわけではない。世のため人のためと思って、動いている。私もこの本は、我が国、我が同胞、そして我らが言葉、日本語のためと思って、書いたのである。
 海に囲まれた島国に住み、〈自分たちの言葉〉が亡びるかもしれないなどという危機感をもつ必要もなく連綿と生きてきた日本人。それが今、英語という〈普遍語〉がインターネットを通じ、山越え海越え、世界中を自在に飛び交う時代に突入した。二十一世紀、英語圏以外のすべての国民は、〈自分たちの言葉〉が、〈国語〉から〈現地語〉へと転落してゆく危機にさらされている。それなのに日本人は、文部科学省も含め、「もっと英語を」の大合唱の中に生きているだけである。
 この日本語が亡びてしまったらどうするか。百年後も〈話し言葉〉としての日本語はもちろん、〈書き言葉〉としての日本語も残るであろう。だが、真に〈叡智を求める人〉たちが、日本語で読み書きしなくなったらいったいどうするのかーーと、私の「憂国の書」は問いかける。(「著者からのメッセージ」筑摩書房HP,http://www.chikumashobo.co.jp/pr_chikuma/0812/081202.jsp
 
水村氏が憂国の志士であることは間違いない。しかし,にもかかわらず彼女はアメリカに20年間も住み,英語で話し読み書きできる,そのような憂国の志士なのだ。著者は本書をこう結んでいる。
 
それでも、もし、日本語が「亡びる」運命にあるとすれば、私たちにできることは、その過程を正視することしかない。/自分が死にゆくのを正視できるのが、人間の精神の証であるように。(p323)
 
これは,貴族でありながらアメリカを旅し、民主主義の本質を見抜き,その勝利を予見せざるをえなかったアレクシス・ド・トクヴィルを思わせる語り口だ。トクヴィルは,貴族として,高貴な貴族政治の亡び行くのを直視した。
 
水村氏は,たしかに,パトリオットとして,亡びつつある日本語だが「今ならまだ選び直すことができる」(p323)と,情熱的に訴えかけている。しかし,それにもかかわらず,彼女もまたトクヴィルと同じく歴史の逆転の不可能を痛いほど自覚され,いかに抵抗しようとも日本語が亡びるのは運命だと観念されているようだ。そして,本物のパトリオットであるがゆえに,少なくとも亡び行く日本語からは目を背けず,恐れおののきつつも,その死に様を正視していようと,そう覚悟されているように思われる。
 
 

Written by Tanigawa

2009/06/11 @ 10:52

カテゴリー: 文化,

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