ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(7)

谷川昌幸(C)
7.英語の世紀と国語の危機
ところが,著者によると,グローバル化,情報化,大衆社会化などにより,いまや英語が唯一の普遍語となり,それ以外の国語は現地語へと引き下げられ,国民文学は存亡の危機に立たされている。「英語の世紀」が始まったのである。
 
たとえば,著者も指摘するように,日本でも学術論文は英語で書くようになりつつある。日本史や日本文学史の論文ですら,英語で書かされる。世界の多くの人に読んでもらうという高尚な目的よりも,業績評価において英語論文は5点もらえるのに,日本語論文はせいぜい2点,ひどい場合は0点にしかならないからである。 
 
また著者は,日本の大学が翻訳機関たることを止め始めたと指摘しているが,これも加速度的に進行している。優秀な大学,大学院ほど,入試や授業の英語化を進めている。英語授業がウリなのだ。
 
かくして日本語・日本文学の祝祭の時代は終わりを告げつつある。次の文章には,著者の悲壮な憂国の情が溢れている。少し長いが,力強い文章なので,引用しよう。  
 
 今、その〈国語の祝祭〉の時代は終わりを告げた。
 一度火を知った人類が火を知らなかった人類とちがうよう、あるいは、一度文字を知った人類が文字を知らなかった人類とちがうよう、一度〈国語〉というものの存在を知った人類は、〈国語〉を知らなかった人類とはちがう。美的のみならず、知的、倫理的な重荷を負うものとして〈自分たちの言葉〉で読み書きするのを知った人類は、地球規模の〈普遍語〉が現れたといっても、即、深い愛着をもつに至った〈国語〉に、知的、倫理的、美的な重荷を負わせなくなることはないであろう。だが、〈普遍語〉と〈普遍語〉にあらざる言葉が同時に社会に流通し、しかもその〈普遍語〉がこれから勢いをつけていくのが感じられるとき、〈叡智を求める人〉ほど〈普遍語〉に惹かれていってしまう。それは、春になれば花が咲き秋になれば実が稔るのにも似た、自然の動きに近い、ホモ・サピエンスとしての人間の宿命である。
 悪循環がほんとうにはじまるのは、〈叡智を求める人〉が、〈国語〉で書かかなくなるときではなく、〈国語〉を読まなくなるときからである。〈叡智を求める人〉ほど〈普遍語〉に惹かれてゆくとすれば、たとえ〈普遍語〉を書けない人でも、〈叡智を求める人〉ほど〈普遍語〉を読もうとするようになる。ふたたび強調するが、読むという行為と書くという行為は、本質的に、非対称なものであり、〈普遍語〉のような〈外の言葉〉を読むのは、書くのに比べてはるかに楽な行為である。すると、〈叡智を求める人〉は、自分が読んでほしい読者に読んでもらえないので、ますます〈国語〉で書こうとは思わなくなる。その結果、〈国語〉で書かれたものはさらにつまらなくなる。当然のこととして、〈叡智を求める人〉はいよいよ〈国語〉で書かれたものを読む気がしなくなる。かくして悪循環がはじまり、〈叡智を求める人〉にとって、英語以外の言葉は、〈読まれるべき言葉〉としての価値を徐々に失っていく。〈叡智を求める人〉は、〈自分たちの言葉〉には、知的、倫理的な重荷、さらには美的な重荷を負うことさえしだいしだいに求めなくなっていくのである。(p253-4)
 
まったくもって水村氏は愛国者(パトリオット)であり憂国の志士だ。漱石の苦悩を自らの苦悩として追体験したいと願っていられるようでさえある。しかし,その願いはもはや叶えられそうにない。
 
果たして漱石ほどの人物が、今、大学を飛び出して、わざわざ日本語で小説なんぞを書こうとするであろうか。今、日本語で小説を書いている人たちの仲間に入りたいと思うであろうか。いや、それ以前に、問わねぽならない問いがある。果たして漱石ほどの人物が、もしいたら今、日本語で書かれている小説を読もうなどと思うであろうか。/悲しいことに悪循環はとうにはじまり、日本で流通している〈文学〉は、すでに〈現地語〉文学の兆しを呈しているのではないだろうか。(p261)
 
*参照:内田樹「日本の外国文学が亡びるとき」 (http://blog.tatsuru.com/2008/12/17_1610.php
 
8.「英語の世紀」の英語教育と日本語教育
(1)英語帝国主義の鈍感と偽善
憂国の志士,水村氏は「英語の世紀」の到来に悲壮な闘いを挑まれている。「英語帝国主義」などといった俗な表現は使用されていないが,内容的には氏の主張は英語帝国主義批判に他ならない。本書で,この関係で私にとって特に印象的であったのは,氏のB・アンダーソン批判である。
 
著者は,アンダーソンが著書『想像の共同体』において国家を「想像の共同体」とし,それと「国語」との関係を解明したことを高く評価しつつも,「英語に関する考察がまったく欠落している」という点を厳しく批判する。 著者によれば,アンダーソンは2005年,早稲田大学で講演し,最後をこう締めくくったそうだ。
 
学ぶべき価値のある言葉は、日本語と英語だけだと考えているような人は間違っています。そのほかにも、重要で美しい言語がたくさんあります。本当の意味での国際理解は、この種の異言語間のコミュニケーションによってもたらされます。/英語ではだめなのです。保証しますよ。(p116)
 
これに対し著者は,そんなことをいっても,それじゃと,インドネシア語やフィリピン語を学ぶ人がどれだけいるか,と批判する。アンダーソンは,多言語主義が実際には英語ができることを大前提にしていることに,まったく気づいていない。
 
アンダーソンには英語が<普遍語>であることの意味を十分に考える必然性がなかっただけではない。考えないまま、多言語主義の旗手となる必然性ももっていたのである。(p119)
 
この部分の注で,著者はアンダーソンもあとで普遍語としての英語の力に気づくようになったと補足しているが,しかし,英語圏の人々が英語の特権的地位に鈍感なことは,紛れもない事実だ。
 
弱小言語の大切さを最強普遍語の英語で述べ伝える。「英語ではだめなのです」と英語で言う。何たる鈍感,何たる偽善か! これぞ英語帝国主義の真骨頂だ。著者はこんな下品な表現はされていないが,ここでの批判は,まさにこのようなことであろう。
 
こうしたことは,グーグルの図書デジタル化計画についても認められる,と著者は指摘している。たしかに,各国語の図書のデジタル図書館化は可能であろうが,英語はそれらとはまったくレベルが異なる。そのことに英語圏の人々はまったく無自覚だ。
 
それらの[非英語]〈図書館〉のほとんどは、その言葉を〈自分たちの言葉〉とする人が出入りするだけなのである。/唯一の例外が、今、人類の歴史がはじまって以来の大きな〈普遍語〉となりつつある英語の〈図書館〉であり、その〈図書館〉だけが、英語をく外の言葉>とするもの凄い数の人が出入りする、まったくレベルを異にする〈図書館〉なのである。/英語を〈母語〉とする書き手の底なしの無邪気さと鈍感さ。(p246)
 
まさにその通り。こうした英語母語者の無邪気と鈍感こそが,「英語の世紀」の最大の脅威であり,憂国の志士,水村氏と共に「日本語宣言」を高く掲げ,断固闘い抜かねばならないのである。
 
(2)英語エリート教育のすすめ
「英語の世紀」はもはや押しとどめられない。では,この時代において,どのような英語教育を行い,どのようにして日本語を守っていくか? これが水村氏のこれからの切実な課題となる。
 
「英語の世紀」の英語教育には,次の三つの方針が考えられる。
  Ⅰ <国語>を英語にしてしまう。
  Ⅱ 全国民をバイリンガルにする。
  Ⅲ 国民の一部をバイリンガルにする。
 
 ①英語エリート教育
結論から言うと,著者はⅢの英語エリート教育を採用するよう要求する。
 
Ⅲを選ばなくては、いつか、日本語は「亡びる」。(p278)
 
日本が必要としているのは、専門家相手の英語の読み書きでこと足りる、学者でさえもない。日本が必要としているのは、世界に向かって、一人の日本人として、英語で意味のある発言ができる人材である。・・・・/かれらは、英語を苦もなく読めるのは当然として、苦もなく話せなくてはならない。発音などは悪くともいいが――悪い発音で流通するのが〈普遍語〉の〈話し言葉〉の特徴である――交渉の場で堂々と意見を英語で述べ、意地悪な質問には諧謔を交えて切り返したりもしなくてはならない。それだけではない。読んで快楽を与えられるまでの、優れた英語を書ける人もいなくてはならない。優れた英語を書くことこそ、インターネットでプログが飛び交い、政治そのものが世界の無数の人たちの〈書き言葉〉で動かされるこれからの時代には、もっとも重要なことだからである。(p276-7)
 
この英語エリート教育に,私は賛成だ。国際交渉の場で堂々と意見が述べられないのは英語だけのせいとは思わないが,それでも英語圏の人々と同等以上に英語に通じた練達の英語プロ集団をもつことは,「英語の世紀」における日本国益のためにも,絶対に必要なことだ。戦車や戦艦などなくても,英語プロ軍団は不可欠だ。
 
②片言英語教育の愚劣
では,日本は実際にはどのような英語教育を行っているのか? Ⅰの英語を日本国語とする案は,かつて森有礼が唱えたことがあるが,いまではこれの支持者はほとんどいない。
 
いま目標とされているのは,Ⅱである。学校教育を通して,「国民総バイリンガル社会」を実現し,英語を(第二)公用語にしてしまおうというのだ。
 
しかし,著者は,そんなことは不可能だし必要でもないと批判する。この先,在日外国人が少々増えようと,日常会話は片言で用が足り,皆がバイリンガルになる必要はさらさらない。
 
ところが,日本の学校教育は,英語ができなければ乗り遅れるといった世間の英語強迫観念にも押され,不必要かつ不可能な「国民総バイリンガル社会」を目標としている。
 
小学校では,「片言でも通じる喜びを教える」ため,英語が導入された。見当外れも甚だしい(p287)。 インターネットの時代,もっとも必要になるのは,「片言でも通じる喜び」なんぞではない。それは,世界中で通用する<普遍語>を読む能力である(p289)。
 
③英語は選択科目に
「英語の世紀」に求められる英語プロ集団を育成するには,学校での英語は選択科目とすべきなのである。
 
(3)日本語教育
著者は,「英語の時代」の英語教育をこのように英語エリート教育に改めることにより,国語を守っていくことが可能になると考える。
 
もし、私たち日本人が日本語が「亡びる」運命を避けたいとすれば、Ⅲという方針を選び、学校教育を通じて多くの人が英語をできるようになればなるほどいいという前提を完璧に否定し切らなくてはならない。そして、その代わりに、学校教育を通じて日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべきであるという当然の前提を打ち立てねばならない。(p284-5)
 
 だからこそ、日本の学校教育のなかの必修科目としての英語は、「ここまで」という線をはっきり打ち立てる。それは、より根源的には、すべての日本人がバイリソガルになる必要などさらさらないという前提すなわち、先ほども言ったように、日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべきであるという前提を、はっきりと打ち立てるということである。学校教育という場においてそうすることによってのみしか、英語の世紀に入った今、「もっと英語を、もっと英語を」という大合唱に抗うことはできない。しかも、そうすることによってのみしか、〈国語〉としての日本語を護ることを私たち日本人のもっとも大いなる教育理念として掲げることはできない。
 人間をある人間たらしめるのは、国家でもなく、血でもなく、その人間が使う言葉である。日本人を日本人たらしめるのは、日本の国家でもなく、日本人の血でもなく、日本語なのである。それも、長い〈書き言葉〉の伝統をもった日本語なのである。
 〈国語>こそ可能な限り格差をなくすべきなのである。 (p290)
 

Written by Tanigawa

2009/06/15 @ 14:17

カテゴリー: 文化,

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