ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(8)

谷川昌幸(C)
 9.日本語の選び直しは可能か?
以上,速読・粗読気味であったが,水村美苗氏の『日本語が亡びるとき』を読んできた。もとより専門外の素人の読書ノートにすぎず,誤読もあろうが,そうした点は訂正しながら,お読みいただければ幸いである。
 
本書は,政治学一般の観点から読んでも面白いが,私の場合,最近,ネパール政治に凝っているので,とりわけ興味深く,身につまされる思いであった。
 
ネパールは,サンスクリットの豊穣な伝統に属し,植民地支配されることもなかったが,近代化が遅れたため,ネパール語の国語としての成熟以前に,英語帝国主義に席巻されてしまった。
 
ネパールでは,ネパール語が国語であり,1959年憲法以来,憲法でも「国語」と定められてきた。ところが,1990年民主化革命により自由化が一気に進むと,皮肉なことに,ネパール語を守ってきた様々な防壁が次々に取り除かれ,特にこの数年はインターネットを通して,英語が洪水のようにネパールに押し寄せてきた。
 
いまネパールに行くと,因襲的カースト制に代わって,新しい言語カースト制が成立しつつあることに気づく。「英語―ネパール語―諸民族語」の,魂までも序列化してしまう言語カースト制である。
 
ネパールでは,就職も昇進も,この言語カースト制により決まるようになってきた。それを見て,親たちは,どんな無理をしてでも,競って子供たちを内外の英語学校に入れようとする。高度な教育は,保育園・小学校から大学まで,英語で行われているからだ。貧乏人は,イヤイヤながら,現地語=ネパール語学校に行く。ネパールでは,誰知らぬものはない公然たる事実だ。マオイストですら,この言語カースト制には拝跪している。悪循環だ。英語帝国主義への隷従だ。分かってはいるが,もはや誰にも止められない。
 
このネパールで,B・アンダーソンが唱えたことを,同じ鈍感さで,かつ大いなる善意をもって実践しているのが,国連諸機関だ。
 
在ネパール国連諸機関は,最新の包摂民主主義を奉じ,少数諸民族の言語の保護育成に躍起になっている。ところが,その際,彼らもまた英語で大キャンペーンを繰り広げているのだ。何たる偽善か!
 
英語帝国主義の国連諸機関やその手先のネパール人たちが,いくら母語教育を喧伝しようが,ネパールの人々は,言語カースト制の現実を日々イヤというほど見せつけられている。誰が,そんな偽善的母語教育の笛で踊るものか。
 
そもそも,ネパール最高の就職先たる国連諸機関に就職するには,高度な英語力を要求される。多言語主義・母語教育主義を唱えるなら,まず国連諸機関が英語帝国主義を率先して放棄し,多言語主義を実践せよ。そうすれば,ネパールでも母語教育が実現できるだろう。もしそれができないのなら,英語で多言語主義を唱えるなどといった恥知らずなことは,直ちに止めるべきだ。
 
ネパール語を国語として成熟させる前に英語を受容してしまったネパールでは,もはや国語としてのネパール語の選び直しは不可能であろう。パソコンの進化で,たしかにデバナガリの使用は容易になった。普通のキーボードから,誰でも簡単に /fi6«efiff (राष्ट्र भाषा) と入力できる。しかし, /fi6«efiff (राष्ट्र भाषा) と書いて,誰が読んでくれるのか。natinal languageであれば,世界中の人々に理解してもらえる。
 
これが国語の成熟を見る前に「英語の世紀」に引きずり込まれてしまったネパールの惨状だ。日本も,こんな悲惨な言語植民地になってしまって,それでよいのか?
 
日本語を選び直す――滔々と進行する「英語の世紀」の中で,それは本当な可能であろうか・・・・。
 
水村氏の『日本語が亡びるとき』は,まさしく「読まれるべき言葉」が書かれた本物の「憂国の書」である。
 

Written by Tanigawa

2009/06/16 @ 09:42

カテゴリー: 文化,

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