ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

コミュナリズムの予兆(2)

谷川昌幸(C)
ネパールに外から入ってきた文化は,もちろんキリスト教だけではない。そもそもヒンドゥー教からして,インドに進出してきたイスラム教に圧迫されたヒンドゥー教徒たちがネパールに移住して広めたものであり,そのヒンドゥー教がいま他宗教のネパール布教をまかりならぬ,といっても説得力はない。
 
あるいは,見方によれば,すべてのイデオロギーは信仰ともいえる。「人権主義」教,「民主主義」教,「資本主義」教,「共産主義」教,「世俗主義」教等々。そして,それらの「宗教」ないしイデオロギーが,ネパールの既存のイデオロギーとフェアな自由競争をしてきたかというと,決してそうではない。「人権」にせよ「民主主義」にせよ,先進国の富と力により,無理矢理ネパールに押しつけられた。決して,対等者間の自由競争ではなかった。ヒンドゥー教と「世俗主義」教をみても,「世俗主義」教の背後には先進諸国の富と力があり,決して両宗教の自由競争にはなっていない。
 
したがって,キリスト教だけを取り上げ,ネパールで不公平な布教活動をしていると非難することはできない。キリスト教会がキリスト教を布教するのと,国連や先進諸国が人権主義や民主主義を布教し,アメリカや日本が資本主義を布教するのと,どこが違うのか。
 
同じだといってしまえば,キリスト教布教に金や力を使おうが,はたまた教育や医療で庶民を釣ろうがすべて自由だということになる。先進諸国や国連は,「人権」や「民主主義」や「資本主義」をネパールに布教するため,公然とそのような手段を使ってきたからである。
 
この議論を論理的にスッキリ論破するのは,難しい。しかし,常識的には,やはりどこか違うような気がする。「キリスト教」「仏教」と「人権」「民主主義」「資本主義」は,いずれも「信仰」にすぎないが,後者が実現に外的強制力の使用も許されると「信じられている」のに対し,前者は許されないと「信じられている」からである。
 
論理的にはいかにもあやふやで,いい加減だが,一応,建前としては,宗教は神や神代替物への信仰に関わるものであり,信仰は本質的に内面的なものだから,信仰への外的強制は許されない,と「信じられている」。 もちろん,そう「信じない」宗教も多々あるが,少なくとも先進諸国や国際社会の常識では,そう「信じられている」。だから,健全な常識を持つ市民の一人として私も,信仰や布教には外的強制は許されない,という立場を建前としてとることにする。

Written by Tanigawa

2009/06/21 @ 16:31

カテゴリー: 宗教

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