ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

コミュナリズムの予兆(4)

谷川昌幸(C)
宗教が外から入ってくる場合,在来宗教と純粋に信仰のレベルで競争することはまずない。神々は,内面的な信仰の世界よりもむしろ,外面的な世俗世界で覇権を争う。
 
山本忠義(C.Perry)氏によれば,マッラ王朝時代,カプチン会修道士たちは,カトマンズ盆地で無料医療を提供し,ジャガジュ・ジャヤ・マッラ王も受診し,謝礼として住居を提供した。バクタプルやラリトプルでも同様であった。
 
 「礼拝部屋が設けられ,医薬品が人々に近づく手段に用いられ,何千という重病の幼児や子供が洗礼を受けた。・・・・信仰者の多くはネワール人の土地なし農民で,神父たちは彼らに土地を買い与えた。」(p152)
 
ラナ家専制の時代には,ダージリンや印ネ国境付近で,ネパール布教活動が続けられた。
 
 「インド北東のアッサムからネパール極西部のダルチュラに至るキリスト教の学校にはネパール人の生徒が見られた。・・・・/また,多くのハンセン病患者が治療を求めて国境を越え,チャンダグ高原やカリンポンのハンセン病ミッション病院を訪れた。・・・・/その他の医療宣教活動も多くのネパール人の生活に触れた。巡回クリニックや,国境に点在する病院や施薬所などである。巡回クリニックは定期的に国境地域を巡回し,医学と福音伝道を結びつけた。」(p158)
 
ボジラジ・バッタ牧師もこう述べている。
 
「(開国後)宣教団が社会開発援助団体としてネパールに入り始めた。その際,各団体はメンバーの地元民布教活動を厳禁するという文書をネパール政府に提出させられた。彼らは,医者,技術者,社会活動家としてのみ,入国できた。もし違反すれば,外国人は即時国外退去,ネパール人は厳罰に処せられた。もしヒンドゥー教徒や仏教徒に布教し改宗させたら,ネパール人は7年以下の投獄であった。」Bhojraj Bhatta, "Impact of Missionaries and Native Missions in the Present Reality of the Church in Nepal," May 2009 ( http://nepalchurch.com/content/view/285/28/)
 
このように,キリスト教が途上国に入っていく場合,圧倒的に優位な富と科学的知識(近代知)が,どこでも神の行く道の露払いをしてきた。長崎でも,幕末維新に西洋からキリスト教諸派が殺到したが,その布教の武器もいうまでもなく富と科学的知識であった。
 
 たとえば,僻地の外海地区に入ったドロ神父は,医療,教育,開拓,建築,地場産業育成など,まるで彼自身万能の神であるかのような働きをし,地域の人々の信望を一身に集めた。ドロ神父は,いまでも「ドロ様」として敬愛されている。
 
ドロ神父は立派なキリスト者であり,誠心誠意,無私の愛をもって貧困にあえぐ外海の人々を支援した。私ももちろん彼を深く尊敬している。
 
しかし,そのことと,ドロ神父が布教に富と科学的知識の力を利用したということは別の事柄である。キリスト教の神は,仏や在地の神々と純粋な宗教のレベルで競ったのではなかった。もしドロ神父に財産も科学的知識もなければ,彼がいかに神の愛を説こうが,村の人々は彼の言葉に耳を傾けなかったであろう。
 
これは,富や科学的知識で布教の露払いをしてはいけない,ということではない。現世利益は,どの宗教でも多かれ少なかれ説いている。神や仏を信じることで,金持ちになったり病気が治ったりしたとしても,それは何ら非難すべきことではない。人々は幸福になり,神仏のご威光も増す。
 
ただ,ここで注意すべきは,富や科学的知識において圧倒的に優位な側が,それらで布教の露払いをしているにもかかわらず,そのことに無自覚で,まるで自分の神と在来の神々とが,純粋に信仰のレベルで自由競争している,と錯覚してしまうことだ。
 
「自由」はいつの時代でも,強者の利益だ。貧者・弱者の神と富者・強者の神が「自由に」競争すれば,富者・強者の神が勝つ。イエスや仏陀ご自身は,まったく逆のことを教え,実践したが,歴史を見ると,残念ながら,彼らの教え通りにはならなかった。この歴史の逆説を,私たちは十分に自覚していなければならない。
 
富者や強者は,内面的な「宗教の自由」や「信教の自由」を唱えつつ,自分の神のために富や科学的知識といった外面的な世俗の力を使う。いや,富や科学どころか,しばしば軍隊をさえも使って,神の教えを宣べ伝えてきた。神や仏陀ご自身が,そんな外的な力を布教に使ってはいけないと,繰り返し繰り返し諫めているにもかかわらず,だ。
 
これは難しい問題だ。ウソも方便であり,現世利益が悪いわけではない。ただ,信仰においては魂の救済こそが究極の価値だという原点につねに立ち戻り,厳しく自己批判すべきだ,ということであろう。平凡ではあるが。
 
ネパールに話を戻すと,キリスト教会は,1990年革命により規制をゆるめられ,この数年の民主化運動Ⅱをきっかけに急成長を始めた。マノーズ・シュレスタ氏によると,クリスチャンは2006年現在で70万人以上に達したという。
(M. シュレスタ「ネパールのキリスト教」http://www3.point.ne.jp/~doushin/NEPAL/CinNepal.html
 
この数字は,世俗国家宣言後は爆発的に増え,いまでは150万人(2008-9年度)ともいわれている。この信者急増がどこまで現世利益によるものかは正確には分からないが,ただそれが既存のヒンドゥー教社会にとってはたいへんな脅威であることは当然であり,事実,あちことで軋轢が生じ始めている。
 
ここで難しいのは,先述のように,キリスト教会の側が富と科学的知識の点で圧倒的に優位な立場にあるということである。
 
このことは,たとえば先に引用したボジラジ・バッタ牧師自身がはっきりと認めている。彼の「希望教会(Hope Church)」がどのような教会か,まったく知識はないが,彼のこの文章は実に恐るべき内部告発だ。ネパールで活動する諸外国の教会団体や宣教師とそれらに寄生するネパールの諸教会・聖職者の,底なしの腐敗と堕落が容赦なく糾弾されている。文章の最後は,こう結ばれている。最悪と特に厳しく糾弾されている「東洋(あるいはアジア)の宣教師たち」が日本人でないことを祈るばかりだ。
 
「何という皮肉か! 宣教団や宣教師(内外いずれであれ)は真理・誠実・謙虚の使徒と考えられている。しかしネパールでは,彼らは(少数の無名のものを除き)欺瞞・腐敗・傲慢の輩とされてきた! 誰も,宣教師(特に東洋の)や外国宣教団所属ネパール人など信用しはしない。彼らがネパールの地域教会に対し何をしてきたか,誰でも知っているからだ。」
 

Written by Tanigawa

2009/06/23 @ 23:50

カテゴリー: 宗教

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