コミュナリズムの予兆(6)
谷川昌幸(C)
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このカトリック被昇天教会爆破に対する抗議行進が,5月31日,カトマンズなど,全国で実施された。(UCAN=Union of Catholic Asian News, June 2)
カトマンズ行進を呼びかけたのは,Isu Jung Karki牧師。あいにくの豪雨にもかかわらず,カトリック3000人(3教区),プロテスタント4000人(150教会)の計7000人が参加した。ちなみにキリスト教徒は150万人,そのうちカトリックは7500人(2009年)。 このカトマンズ抗議行進には,ヒンドゥー教徒やイスラム教徒も参加していた。
大惨事後の行進であったが,キリスト協会側の抗議は抑制されたものであった。また「世界ヒンドゥー協会・ネパール」のDamodar Gautam会長やイスラム教指導者のNazarul Hussain氏も,事件後直ちに,この爆破を非難し,キリスト教徒との連帯を表明していた。
しかし,それにもかかわらず,爆破事件に対する教会側の発言や抗議行進が「政治的」色彩を帯びることは,避けられない。いくつかの発言を見てみよう。
■S.ボガティ神父(被昇天教会)
「なぜ攻撃されたのか分からない。ネパールのカトリック教会は社会のためになることを常に行ってきた。われらは,どのような集団や社会の感情をも決して害するようなことはしてこなかった。」(UCAN, May 25)
■A.シャルマ司教(被昇天教会)
「ネパールのカトリック教会は,貧者や救いの必要な人々のために奉仕してきた。教会が攻撃される理由はなかった。礼拝の場は常に敬意を払われ,決して攻撃されてはならない。・・・・行進はキリスト教諸派や他宗教の人々の間に統一があることを示した。」(UCAN, June 25)
■レプチャ氏(カトリック教徒)
「[ヒンドゥー教過激派は,ネパールのカトリック教会の自制的な態度を利用してきた。]この行進は,カトリック教会は暴力攻撃を許さないこと,教会の諸権利を守るため立ち上がることを知らしめた。」(UCAN, June 25)
■J.カルキ牧師(プロテスタント)
この抗議行進は「行われるべきもの」であり,「世俗国家に反対する人々への当然の応答」である。(UCAN, June 25)
以上の発言は,抑制されたものである。しかし,宗教問題が難しいのは,そうした発言であっても,敵対者には,許し難い自己正当化と取られてしまうことだ。
「貧者や救いの必要な人々への奉仕」それ自体が,無神経な傲慢発言とされかねないし,「ネパールのカトリック教会の自制的な態度を利用」や「教会の諸権利を守るために立ち上がる」は,攻撃的本性の暴露とさえ映るだろう。
ましてや,「世俗国家に反対する人々への当然の応答」ともなれば,その政治性は明白である。キリスト教会が,布教拡大のため「世俗国家」擁護の政治運動を始めた,と取られてしまうのである。
あるいは,次のような報道もある。 「カトリック筋によると,NDAは元兵士,元警官,マオイスト・ゲリラ犠牲者から構成されていると考えられている。NDAは,共産主義者・キリスト教徒・イスラム教徒と戦うため自爆攻撃の訓練をしてきたという。」(BonsNewsLife, June 13)
この「カトリック筋」が誰かは分からないが,UCAN(June 1)がこの内容の記事を掲載しているので,カトリック側の発言には違いないだろう。
NDAが自爆攻撃を準備している,というのは本当かもしれない。しかし,キリスト教会側が,それを言い出すと,歯止めが利かなくなる。
ブッシュ政権は,自爆攻撃への反撃をアフガンにおける「十字軍の戦い」と呼び,イスラム圏の猛烈な反発を招いた。驚いて「不朽の自由作戦」と変更したが,もはや後の祭り,アフガン戦争はキリスト教侵攻に対するイスラムの聖戦という見方が広く深く浸透してしまった。アフガン戦争の泥沼化の根本的な原因の一つであろう。
繰り返すが,NDAや他の反キリスト教諸集団が,自爆攻撃を準備しているのは,本当かもしれない。もしそうなら,それにどう対処すべきなのか?
自爆攻撃が人権否定であり絶対に許せないことは言うまでもない。しかし,その一方で,人々を自爆攻撃にまで追い詰めたのは,一体何であったのかも,よく考えてみる必要がある。
キリスト教会は,ネパールの人々の気持ちを害するようなことはしていない――本当に,そういいきれるのか? イエスは「心の貧しくあること」を教えた。キリスト教会は,そのイエスの教えに忠実であったのか? 難しいことだが,ネパールの人々の側に立ってみて,いま一度,教会の布教のあり方を反省してみることも必要なのではないだろうか?