ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

ハーバーマスとポスト世俗化国家(2)

谷川昌幸(C)
3.ハーバーマスとラッツィンガー
この本の原題は『世俗化の弁証法――理性と宗教について』であり,理性(世俗知)と信仰をいかに対話させ相関させるかが,それぞれを代表するハーバーマスとラッツィンガーにより議論されている。
 
ハーバーマス(1929-)は,ドイツの哲学者でフランクフルト学派第二世代,著書に『公共性の構造転換』(1961),『コミュニケーション的行為の理論』(1981),『事実と妥当性』(1992),『他者の受容』(1996)等がある。2004年,「京都賞」受賞。リベラル左派の代表的理論家。
 
ヨーゼフ・ラッツィンガー(1927-)は,ドイツの神学者,大司教・枢機卿(1977-),1981年からバチカンの要職歴任,2005年4月教皇に選任され,ベネディクト16世となる。カトリック右派保守派。
 
この現代を代表するリベラル左派のハーバーマスと,カトリック右派のラッツィンガーが,2004年1月19日,「世俗化」について討論をした。この本は,そのときの両者の冒頭講演である。
 
この討論は,注目すべき出来事であった。現代を代表する哲学者と宗教指導者は,なぜ「世俗化」をめぐって討論するにいたったのか? この間の経緯については,私にはまったく知識がないので,本書「訳者解説」により,要点を紹介しておこう。 
4.世俗化と市民社会
ラッツィンガーは,カトリック右派ながらも,教会の政治参画を説き,教会改革を進めた。ラテンアメリカへの布教について,彼はこう批判している。(以下,引用は「訳者解説」より)
 
「ひとつ前の世代ならば、ポール・クローデルがしたように、クリストファー・コロンブスを血まみれの偶像の神々から南米を解放した存在とするドラマを書くこともできた。キリスト教の人間性を通じて人類の統一へいたる道として、……描くことができた。ところが今日、南半球へのヨーロッパ人の侵入を、誰がこのように描く勇気を持っているだろうか。少なからぬ人々が、逆のほうがよかったのではないか、ヨーロッパをキリスト教から解放し、その真理信仰に依拠する支配要求から救い出すという逆のかたちがよかったのではないか、と考えている。そこまで思いつめない者でも、スペインによる土地の収奪は、暴力による抑圧の歴史、物欲と残虐の歴史としか見ることができないであろう。そして、その歴史は、多くの偉大な宣教師たちの敬虔な奉仕によっても埋め合わすことができないと思っている。……ヨーロッパはコロンブスのあの運命的なアメリカへの航海以来、拡大し、アメリカでまたしても自己を誇示した。それは、アメリカにとって、そしてヨーロッパにとって祝福だったのだろうか、呪いだったのだろうか。祝福と呪いの決算書を作り、相互に比較するのは難しいことであろう。ヨーロッパ中心主義はその馬鹿げた自信のゆえに、アフリカとアジアであまりにも多くを踏みにじり、破壊した。ヨーロッパ中心主義を繰り返すべきでないという警告は、いずれにせよ、ヨーロッパに重くのしかかっている。」(p58-59)
 
ラッツィンガーは,カトリック教会内部から,このような厳しい反省の下に,人権と民主主義,そして憲法を重視し,異なる立場の人々の関係をいかに構築するかを考えてきたのである。
 
カトリック教会は,もともと反人権的,反民主的であった。教皇庁は,ナチスと「協定」を結び,ユダヤ人虐殺を黙認してきた。戦後,ハーバーマスはそれを批判したが,カトリック教会やドイツ世論は反共主義にこり固まり,教会弁護に回った。カトリック教会は,アイヒマン,メンゲレらユダヤ人虐殺犯の国外逃亡の手助けさえしている。教会は人権や立憲主義に反対だったのである。
 
そのバチカンが「人権」を認めたのは,1963年の回勅「地上の平和」においてだった。一方,社会問題については,19世紀末から「人間の尊厳」を認め,そのための国家福祉政策を唱え始めていた。このカトリック社会理論は,民主主義的なものではなかったが,戦後,西ドイツ建国と,そこにおける大幅な社会参加の実現に寄与することになった。
 
 1960年代入ると,キリスト教左派が台頭し,カトリック教会のあり方に根本的な反省を迫るようになった。1962-65年第二バチカン公会議は最終文書「人間の尊厳」により「良心の自由」,「信仰の自由」を認め,教会は国家との結合をゆるめ,「市民社会の制度」へと変化し始めた。他宗派,他宗教への敬意が表明され,貧困などへの取り組みも重視されるようになった。
 
カトリック教会における国家「世俗化」は,このように,国家と宗教の分離を意味し,教会は「市民社会の制度」となることを意味する。これは教会再生への道であった。国家との結びつきから解かれた教会は,それ故にかえって「市民社会の制度」として公共の議論に積極的に参加し,人権や民主主義のために政治的影響力を行使できるようになった。
 
「70年代以降,民主化に成功した30あまりの国々の三分の二は,カトリック信者が大多数を占める。」(p87)
 
「要するに宗教が、公共の世論の場における一定の役割を、しかも古典的な意味では非宗教的な問題を論じることで果たすようになっている。『宗教の脱私事化』とカサノヴァが名づける現象である。そしてこの現象は、デモクラシーの深化とともに生じてきた。こうして宗教は、時に伝統的な生活世界の擁護者の役を引き受け、時には、国家と市場の全面的浸透に対する抗議者の立場をとり、いずれの場合にも共通善を、しかも必ずしも宗教色を持たず、そのつど議論によって確認しうる共通善を基準とするようになる。」(p102)
 
ここにいたって,カトリック教会は「市民社会における公共性」を説くハーバーマスに接近し,対話ができるようになった。少なくともこの点では,両者の位置は,かなり近いといえる。
 
しかし,宗教の側の議論と,哲学の側の議論とでは,決定的に相容れない部分が残る。「訳者解説」はその点についても論究しているが,ここでは、ハーバーマスの議論を検討したあとで,改めてその問題について考えてみることにする。

Written by Tanigawa

2009/07/09 @ 22:27

カテゴリー: 宗教