ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

ハーバーマスとポスト世俗化国家(7)

谷川昌幸(C)
10.公的討議への参加動機
ハーバーマスは,人々の自由な民主的討議を通して相互を承認し合意を形成し,これにより統治の正当性を合理的に生み出していく,と主張する。しかし,たとえそうだとしても,人々はいったいなぜ,そのような討議に参加するのだろうか? 何のために討議するのか?
 
近代世俗国家では,それは個々人の自然権を守るためであった。人々は,自分の生存(ホッブス)や財産(ロック)を守るため,合意により政治社会を形成し運用する。政治参加の動機(モチベーション)は個々人の利害である。この論理は,利害が民族,階級,人民のそれになっても,基本的には同じである。人々は,それらの集団の利害のために,政治参加する。動機は明白である。
 
ところがハーバーマスは,先述のように,統治の正当性の根拠をそのような前政治的な実体的なものに求めることを拒否した。それでは,人々は何のために政治参加するのか? 何のために討議するのか?
 
問題は,まさにここにある。ハーバーマスは,そのような民主的討議に参加し,法をつくっていく市民には,統治の客体にすぎない市民よりもはるかに大きな参加の動機(モチベーション)が必要であると主張する。
 
「こうした国家公民は、自分たちのコミュニケーション権利および参加権をアクティヴに行使しなければならない。しかも、自己の利益を正しく理解してそれを擁護するという点に関してだけでなく、権利の行使にあたって公共の福祉を志向しなければならない。そしてこれは、相当に高度のモティベーションの投入を要求されることであるが、法によってそうしたモティベーションを強制することは不可能である。例えば、選挙に参加する法的義務というのは、連帯の指令と同じく民主的な法治国家にはなじまない。必要とあれば自分の知らない匿名の同じ市民を助けることを請け合い、公共の利益のために犠牲も覚悟するというのは、リベラルな政治的共同体の市民に受け入れてもらうには、かなり無理な要求なのである。」(p8-9)
 
これは,ハーバーマス自身が「かなり無理な要求」と認めているように,かなり高い参加のハードルである。自己の生命や財産を守るための政治参加であれば,誰にでも理解でき,参加の動機となる。ところが,ハーバーマスは,参加に当たっては「公共の福祉」あるいは「共通善」を志向せよ,と要求する。何のために,そんなことをしなければならないのか? ハーバーマスは,啓蒙された私益は公益とか,神の見えざる手の導きによる公益といった説明をせず,ストレートに次のように説明する。
 
 「それゆえ政治的美徳は、たとえそれがほんの少額ずつ『要求される』場合でも、デモクラシーの存続には不可欠である。これは社会化の問題であり、また自由な政治文化の日常習慣や考え方に慣れ親しんでいるかどうかの問題である。国家公民という法的地位はシヴィル・ソサエティへといわば組み込まれているのである。そしてこのシヴィル・ソサエティは、そう言ってよければ、『政治以前の』生き生きとした源泉からそのエネルギーを得ているのである。」(p9)
 
あれあれ,何か変ではないか。この「政治的美徳」とは何か? ハーバーマスの説明では,「政治以前の生き生きした源泉」から市民社会がエネルギーを得て,この「政治的美徳」を人々の間に育んでいく,ということらしい。しかし,そのような「政治以前の源泉」を認めることを,彼は拒否していたのではなかったか? あるいは,彼はこうもいっている。
 
「デモクラシーにもとづく憲法を持つ法治国家は、自分自身の利益を考える社会市民に対して消極的自由を保障するだけではないのだ。こうした国家は、コミュニケーション的自由が躍動し、誰にとっても無視できないさまざまなテーマについて公共の論争に国家公民が参加するよう促すのである。」(p10)
 
同じことだが,なぜ人々は「公共の論争」に参加しなければならないのか? ここのところは,少なくともこの本だけではよく分からない。おそらく,このようなことではないか。つまり,市民社会では,「政治以前」の様々な源泉からエネルギーを得た諸集団が自由な討論を通して「公共性」を形成していく。これが,慣習化され,社会化され,いわば民主主義のエートスとなり,それが人々の参加を促すように働く。いいかえるなら,それは,国家をどのように法制化するか,どのような憲法をつくっていくか,をめぐる公的討議ということになる。
 
「先に『統合的な紐帯』がないと嘆かれていたが、そうした『統合的紐帯』はまさにデモクラシーのプロセスそのものなのである。つまり、共同でのみ実行可能なコミュニケーション的実践なのだ。そこでは最終的には、憲法の正しい理解をめぐって論争がたたかわされているのである。」(p10)
 
11.憲法愛国主義
自由な民主的議論,つまり憲法的問題をめぐる公的議論が成果として憲法を生み出しつつ,人々の間に「憲法愛国主義的愛着」(p11)を育む。これは「憲法愛国心」(p11)であって,単なる理性的憲法理解ではない。ここは微妙なところであって,また危ないところでもあるが,ハーバーマスはこう説明している。
 
「『憲法愛国心』については広く誤解がまかり通っているが、その本当の意味は、市民たちが、憲法の抽象的な内容を体得するというだけのことではなく、それぞれのナショナルな歴史のコンテクストに即して憲法を身につけるということなのだ。基本権の道徳的内実がメンタリティに定着するためには、知的学習過程だけでは足りない。道徳的認識と大規模な人権侵害に対する世界中で一致が見られる道徳的憤激、こうしたものだけでは、政治的に立憲化された地球社会(もしも、こうしたものがいずれ存在することになった場合に)の市民たちの統合に役立つとしても、それはあるかなきかのかすかな統合にすぎない。同家公民のあいだで、それがいかに抽象的で法によって媒介されたものであろうと、連帯が成立するためには、まずは正義の諸原則が、文化的な価値志向の濃密な網の目のなかに根づく必要があるのだ。」(p11-12)
 
「前政治的」なものを持ち込まないといいつつ,ここでは「文化的価値」を引き合いに出している。もちろん,何らかの「文化的価値」が憲法の基礎になるとか,国家正当性の根拠になるとは言っていない。憲法が「文化的価値」の「網の目のなかに根づく」ということ。そうすれば,「憲法愛国心」が涵養され,国家公民の「連帯」が成立するという。これはいったいどういうことであろうか?

Written by Tanigawa

2009/07/15 @ 18:23

カテゴリー: 民主主義