ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

布教の自由と責任

谷川昌幸(C)
今朝,いつものようにekantipurを開いたら,言語戦争記事のど真ん中に,ど派手なサイエントロジーの宣伝。私にはサイエントロジーの知識はほとんどないが,一種の宗教ではあろう。国家世俗化後,このサイエントロジーの宣伝が激増し,これはいくら何でも無神経だ,と非宗教的な私にさえ気になっていた。自由は規制があってはじめて自由たり得る。布教の自由は,規制(規則)なくしてはありえない。
 
ネパールでは,国家世俗化により,国家は宗教を政治的に規制しないことになった。しかし,これはどんな布教活動をしようが自由だ,ということではない。どんな布教活動でも許されるのなら,金持ち教団はマスメディアを買収し,文化も無視し,自由に布教してよいことになる。そのような自由は,強者の自由であり,本当の自由ではない。
 
もちろん,ヒンドゥー教の方も,主にインド方面からテレビ,ラジオをつかって盛んに宗教活動をしている。非ヒンドゥーの人々には,これは苦痛かもしれない。また仏教の場合も,平和省など,いくつかの国家機関により政治目的で盛んに利用されている。あるいは,逆に言えば,仏教が国家世俗化に乗じて,政治を布教に利用し始めている。これは許されない。
 
このように,他の宗教についても問題はあるが,それらを考慮しても,サイエントロジーの布教方法は限度を超している。
 
これは,第一義的には,マスメディアの責任である。言論機関は社会の神経,社会の木鐸であり,したがって他の機関にない大きな自由が認められている。この自由は,言論機関がその自由を社会のために公平に使用するという信頼のもとに認められている。自由を公的に使用する,という責任だ。言論機関がこの責任を放棄すると,必ず政治が言論に介入してくる。布教も公平の観点から行わないと,政治的介入を招く。
 
カンチプールには,サイエントロジーに提供したのと同じスペースを,ヒンドゥー教や仏教やイスラム教や無宗教主義などに提供する覚悟があるのだろうか? もしそうでないのなら,このような言論機関の自殺行為のようなことは止めるべきだろう。
 
サイエントロジーの宣伝。「言語戦争」記事のど真ん中に,どぎつい言葉を連ね,表示される。無神経といわざるをえない。(ekantipur, Aug.5)

Written by Tanigawa

2009/08/05 @ 09:25

カテゴリー: 宗教