ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

毛沢東主義vsキリスト教vsヒンズー教

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ネパールの混乱は、深層では、むしろ宗教にある。11日のekantipurをみると、マオイストのプラチャンダ(ダハール)議長がナクサライト(印マオイスト)のネパールでの訓練を必死になって否定している、そのすぐ横に、キリスト教会が黄金色の宣伝を出している。この場所は、アメリカ国務省の定位置だが、そこに今度は米系キリスト教会の宣伝がでているのだ。(記事連動広告であろう。)
 

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たしかに近代民主主義は近代キリスト教(プロテスタント)によって生み出されたものであり、相補関係にあることは事実である。その意味では、アメリカ国務省とキリスト教会が交代で前近代的偶像崇拝や非民主的政治を批判し、“無知蒙昧なネパール人たち”を啓蒙し彼らの神に目を向けさせようとするのは、きわめて合理的なことであり、当然といってよいかもしれない。

しかし、こんな無神経なことをもし日本でやったら、余計なお世話だ、Yankee, Go Home! となることは、まず間違いない。だから、もちろんアメリカもそんな馬鹿なことはしない。にもかかわらず、ネパールでは堂々とやっている。ネパールは馬鹿にされているのだ。

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ekantipurの画面を見ていただきたい。「宗教はアヘン」と信じるマルクス主義者、「革命は銃口から」と唱える毛沢東主義者の右横で、Global Media Outreach というキリスト教団体が、「神を信じるものは救われる」と説教している。クリックしてみると、本部はアメリカ。こんな取り合わせは、日本なら喜劇だが、ネパールでは悲劇。悲愴感がつきまとう。それだけ、ネパール社会の亀裂は深いのだ。

いまの日本社会であれば、キリスト教会が「信じるものは救われる」と宣伝しても、大多数の日本人は「あっ、そう、それはすばらしいですね」で済ませてしまう。ところが、ヒンズー教が生活となっているネパールでは、そうではない。

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そもそもヒンズー教とキリスト教は、歴史的に不幸な関係にあった。ヒンズー教は、イエス=キリストを神々の一人として受け入れようとしたが、キリスト教はヒンズーの神々を猥雑な偶像として唾棄し、ヒンズー教徒を改宗させ、彼らの神の絶対的支配の下に服従させようとした。しかも、キリスト教は経済的にも政治的にも圧倒的優位にある欧米諸国をバックにしている。キリスト教会には、金力と権力の後光が輝いていた。

ヒンズー教徒は、教徒として生まれるのであり、ヒンズー教に改宗の思想はない。これに対し、キリスト教、特にプロテスタントは、一切の伝統や慣習を否定し、絶対的な唯一の神への全面的改宗を迫る。他者、他宗教を無限に受容しようとするヒンズー教と、自己以外の他者を絶対的に拒否するキリスト教。こんな両極端の宗教が、いまネパールでは真正面から激突し始めているのである。

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欧米や日本は、このような原理的対立の時代をすでに経てきており、一歩引いてみるだけの余裕がある。先進諸国のスレた現代人には、そのような原理的対立は、むしろ喜劇に見えてしまう。「 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(マタイ福音書19・24)。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(同5・3)。

ところが、ネパールではそうではない。マオイストは唯物論に立ち「宗教はアヘン」と信じ、「銃口から革命」を生み出そうとしている。その一方、大多数のヒンズー教徒は無数の神々を日々礼拝し、神々と共に生活している。その基本的事実を無視し、そんな初歩的なことも考慮せず、アメリカ国務省やキリスト教会は、無邪気に、一方的な原理主義的宣伝を垂れ流している。国務省もキリスト教会も、ネパールは彼らよりもはるかに長く深く重い文化の豊かな伝統を持っている、という事実を見るべきであろう。

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日本でなら、もちろんかまわない。喜劇として、笑い飛ばされるだけだから。たとえば、はるばる欧米から和歌山県大地町に押しかけたシーシェパードのイルカ原理主義者たちに対しては、高々と聖書を掲げ、語りかけよう!

「神は彼ら(人間)を祝福して言われた。産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(創世記1・28)

「地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。」(創世記9・2-3)

みよ、神は「すべて生きて動くもの」を人間の「食物」として与えられた。クジラもイルカも、神が人間に与えられた「食物」である。これは全能の神の命令である。シーシェパードごときに、この神の命令を改変する力はない。大地に来るなら、キリスト教の神を殺してから来るべきだ。ニーチェなら、そうしたであろう。

日本の仏教徒や無神論者には、聖書を使ってイルカ原理主義を笑殺するだけの余裕がある。創世記の一節を看板やチラシに書き、イルカ原理主義者に見せてやるだけのカネもある。

しかし、われわれ日本人は、牛を神聖視する人々に向かって、「牛の偶像崇拝をやめよ」「神は牛を人間の食物とされた、牛を食え」とは、決していわない。日本人はその程度のたしなみは心得ているのだ。アメリカやキリスト教会にも、無神経によその国に手を突っ込み、引っかき回すようなことはやめていただきたいものだ。

▼キリスト教とヒンズー教の関係については、小谷汪之「キリスト教とヒンドゥー教」(『インド社会、文化史論』明石書店、2010年)が、この上なく鋭く、明快に分析している。必読文献。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2010/11/12 @ 13:46