ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

墓地紛争:キリスト教vsヒンドゥー教

国家世俗化は,墓地まで政争の具とし始めた。死にかかわることであり,こじれると宗教紛争になりかねない。

これまでクリスチャンはパシュパティナートの森(Sleshmantak)を墓地として使用してきた。一遺体の埋葬1600ルピー。ところが,パシュパティナート寺院当局が,そこは寺院のものであるとして,1月から使用禁止としてしまった。

墓地を失ったクリスチャンたちは,政府が救済策をとらないなら,遺体を制憲議会前,あるいはシンハダルバール(官庁街)に並べる,と宣言した。

このクリスチャンの墓地要求運動を支援しているのが「キリスト教会新憲法提案委員会」。国家世俗化を求めるキリスト教会が,国家にキリスト教会墓地の提供を要求する。なんたる皮肉か! これまで私は,キリスト教会がこんな政治圧力団体をつくっていることを全く知らなかった。宗教と政治――これはやっかいだ。

ネパールのキリスト教会が政治に介入すれば,当然,世界中のキリスト教会がそれへの支援に回る。墓地問題は,ネパール宗教紛争の引き金になりかねない。

そもそもキリスト教とヒンドゥー教では,死生観が全く異なる。クリスチャン,特にカトリックにとって,遺体は死後の復活に不可欠のものであり,遺体は可能な限り完全な形で墓地で保存しなければならない。自分の身体がないと,最後の審判のとき,復活し神のもとで永遠の命をえることができないからだ。イエスは,その身体のまま復活した。イエスを信じるクリスチャンは,イエスにならい自分たちも生前の身体をもって復活できると信じているのだ。

これに対し,ヒンドゥーは,一部の人を除き墓をつくらない。亡くなったら,パシュパティナートかどこかで荼毘に付され,遺灰はガンジスに流してもらう。これにより,身体は自然に帰り,魂は輪廻転生するか解脱することになる。

このようにキリスト教とヒンドゥー教では,遺体の位置づけが全く異なる。遺体は,クリスチャンにとっては聖なるものであるのに対し,ヒンドゥーにとっては死でケガレたものであるにすぎない。ケガレた遺体など,ヒンドゥーは保存したいと思いもしないだろう。両者の相互理解は絶望的だ。

キリスト教会憲法提案委員会がクリスチャンの埋葬の権利をキリスト教諸国に訴え,諸外国が「人権」を理由にネパール政治に介入しはじめたら,どうなるか? 遺体をシンハダルバール前に並べる――これはショッキングな光景であり,世界世論は沸騰,ネパール政府は激しいバッシングを浴びるだろう。

これに対し,ヒンドゥー教も激高し原理主義が支持を拡大,キリスト教会への反撃が始まるだろう。

これは,キリスト教にもヒンドゥー教にとっても不幸なことである。何とか,政治問題化させずに解決できないだろうか? たとえば,しばらくはクリスチャンの墓地使用をこれまで通り黙認し,その間に代替墓地を探し徐々に移転する,といったやり方である。死は人生の最大関心事。これを政治問題にしてはならない。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/01/31 @ 09:08

カテゴリー: 宗教, 文化, 人権

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