ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

Un-Victim: 「武器を持つガンディー」としてのロイ(2)

2.安全圏から非暴力を説くなかれ
人を殺さざるをえないギリギリの状況にない者,あるいはその状況を想像すらできない者に,殺人の悪を語る資格はない。同じく,自らは暴力の矢面に立たず,安全圏にいる者に,暴力の悪を説き,非暴力を唱える資格はない。ゲルニカとロイとの迫真の議論はこう展開する。

「ロイ: 私自身に武器を取る決意がなければ,暴力を説くのは不道徳でしょう。同様に,攻撃の矢面に立たずして非暴力を説くのも不道徳です。

ゲルニカ: かつて,あなたはこう書いています。『絶滅の危機には反撃の権利がある,と人々は信じている。いかなる手段によっても。』これに対し,お定まりの非難がなされてきました。そら,ご覧,ロイは暴力を説いているよ,と。

ロイ:私は,こう問いかけたい。もしあなたがチャティスガルの深い森の奥に住む「先住民(adhivasi)」であり,その村が800人の中央予備警察隊に包囲され,次々と家を焼かれ,女性を強姦され始めたとしたら,そのとき,人々はどうすると思いますか? ハンガーストライキをするのか? それはできない。人々はすでに飢え,餓死しつつあるから。商品ボイコットをするか? できない。なぜなら,人々には商品を買うお金がないから。たとえ,それでももし人々があえて断食やダルナ(dharna)をするとしても,いったい誰がそれを見てくれるのか? 誰が関心を示してくれるのか? だから,私にはこう考えるしかないのです――私自身が武器を取る決意がなければ,他の誰かに向かって暴力を説くことは不道徳である,と。そして同じく,自ら攻撃の矢面に立たずして非暴力を説くのは不道徳である,と。」

これは,すさまじい議論である。世のほとんどの非暴力主義は,安全圏の中からのお説教にすぎないということになろう。

3.立ち上がれ,非暴力のために
しかし,ロイは暴力は不可避と考えているわけではない。もしわれわれが不正義に苦しめられている人々に目を向け,共に闘うために立ち上がるなら,彼らは暴力に訴える必要はなくなる。

「ロイ: 先住民(adhivasi)の強制移住や窮乏化に対する闘いを誰も支援しないのであれば,彼らにガンディー主義を期待することはできないということ,これは事実です。しかしながら,森の外にいる人々,メディアが関心を示す裕福な中流階級の人々が,その抵抗運動を支援することはできます。もし彼らが支援に立ち上がっておれば,森の中の人々もおそらく武器を取る必要はなかったでしょう。もし森の外の人々が支援に立ち上がらないのであれば,戦いの犠牲者のことを考えよといった道徳を説いてみても,あまり意味はありません。」

4.哀れみを請う犠牲者たるなかれ
ロイが一貫して唱えているのは,イエーリングのいう「権利のための闘争」である。哀れみを請うのではなく,自ら権利を闘いとれ,とロイは訴える。

「特権階級の人々をいらだたせているのは,私が単なる犠牲者ではないこと,私が単なる犠牲者の振りをしないことです。彼らは哀れな犠牲者を愛し,犠牲者救済を愛しています。私の著作は貧しい人々への援助のお願いでもなければ,哀れみ深い慈善のお願いでもありません。NGOや慈善活動や援助基金を求めているのではありません。そんなものは,金持ちが自分のエゴをくすぐり,端金で自分の良心を満足させるためのものにすぎません。」

インドには,たしかに慈善があふれている。企業は競って社会貢献事業を宣伝している。しかし,ロイは,そんなものは偽善であり,自己満足にすぎない,と一蹴してしまう。過激派ロイの面目躍如といったところだ。

5.公的なものが私的に,私的なものが公的に
ロイは,このようなラディカルな立場をとってきたため,「公的なものが私的に,私的なものが公的に」なってしまったという。

「私は,たいへん不安定な,しかし,静かでないこともない生活を送っています。が,ときどき,皮膚が,つまり私と,私の住む世界とを区別する或るものが,無いのではないかと感じることがあります。この皮膚の欠如は危険です。私の生活のあらゆるところに,それはトラブルを招いています。それは公的なものを私的に,私的なものを公的にします。それはときどき大きな心的負担をもたらします――私だけでなく,私の近くにいる人々にとっても。」

文学的な表現だが,これは,マオイスト・シンパと激しく攻撃され,またカシミール自決支持発言で反国家扇動罪で告発されるなど,まさしく「公的なものが私的に,私的なものが公的に」なってしまった,ロイの偽らざる心境であろう。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/02/24 @ 16:12