ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

Archive for 4月 2011

首相官邸に棺桶,議会前に遺体:キリスト教会

ネパールのキリスト教会は,今年初め,パシュパティ地区開発基金(PADT)によりバンカリ森への埋葬を拒否されたため,政府に対し,バンカリ森への埋葬再開,または代替墓地の提供を要求してきた。しかし,これは微妙な問題であり,政府もうかつに動けず,政府決定は先延ばしにされてきた。

これに対し,キリスト教会は不満を募らせ,1か月前からラトナ公園でハンガーストライキを開始,国際世論にも訴え,政府に圧力をかけてきた。

しかし,それでもなお政府が動こうとしないので,キリスト教会は,26日までに何らかの政府決定がなければ,さらに闘争を強化すると宣言した。

「首相に棺桶を送りつける。首相との直談判,ほかのものではダメだ。」(キリスト教会憲法問題委員会GB・ガルトラジ書記長,ekantpur2011-04-25)

それでも墓地問題が解決されなければ,最後の手段として,制憲議会前にキリスト教徒の遺体を並べるという。

現在,墓地を失ったキリスト教徒は,やむなくカトマンズ盆地の外に遺体を運び出し埋葬している。事態は切迫している。

これは,何回か指摘したように,見方によれば共和制や連邦制よりもはるかに重大な問題だ。制憲議会(国際催事場)前にキリスト教徒の遺体が並べられ,腐敗し,白骨化していくようなことがあれば,国際的スキャンダル,憲法どころではない。そんなことにならないことを願っている。

[参照]
墓地問題でハンスト抗議
墓地紛争,ヒンドゥー惨敗か?
墓地紛争:キリスト教vsヒンドゥー教

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/04/26 at 11:32

カテゴリー: 宗教, 憲法, 人権

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震災後日本と小沢昭一の貧主主義

小沢昭一さんのことは、テレビでちらっと見たりエッセイを目にしたことがあるくらいで,それ以上のことは何も知らないが,たいへんユニークな,本物の芸能人ではないか,といった印象を持っていた。地に足のついた,肝の据わった希有な教養人。

その小沢昭一さんが,朝日新聞の特集「ニッポンみんなで」(4月24日)に登場,記者のインタビューに応じている。これがいかにも小沢的。震災後の「絆」キャンペーンを「ちょっとだけ心配」と軽~く弄り,いたぶりながら,その「貧主主義」で当の朝日の大政翼賛会的特集の急所を刺し貫く。朝日本人ですら,一突きで絶命したことに気づいていないのではないかな? 

「小沢昭一的こころ」はかくも凄い。凄さが見えない凄さに圧倒される。インタビューの最後の「一突き」部分は,次の通り。

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 小沢昭一「シブトク立ち直って」(朝日新聞2011-4-24)

敗戦後は日本中が「茫然自失」の状態でした。昨日までの価値観が根底からひっくり返って、ただ「茫然」とするだけじゃなく、自分の存在の根拠さえ失った「自失」だったわけです。昨日まで「鬼畜米英」なんて言っていたのが、ガラリと変わってアメリカ礼賛の「民主主義」「自由」なんです。世の中、信じられなくなっちゃった。

当時は「みんなで頑張ろう」なんてかけ声もなかった。みんな焼け跡で、今日を生きることで精いっぱい。てんでんバラバラに頑張るしかなかった。

それまでの「一億一心」から、正反対の「てんでんバラバラ」。この「てんでん」というのは、個人一人ひとりの「自立」なんです。そのてんでんを深めよう、バラバラを深めようと、急に切り替わった。でも、バラバラの価値観をどう深めていくか。それは大変でも、そのために戦争という大きな犠牲を払ったわけですからね。

戦後はみんなが何もかも失って貧しかった。でもその代わり「自由」なるものを味わって、これにすがりつこうと思い、みんなが希望を持った。

「今日一日の食うものもない貧乏暮らしだけれど、今度こそ貧乏をバネに俺の好きな生き方をしよう」「大変だろうけど、やってみようじゃないか」と、一人ひとりが独立心を持った。後に私の唱えた「貧主主義」が芽生えるのです。

だかち今回、「一致協力」とか「絆」なんてことが強調されるのが実はちょっと心配なんであります。いつかまた、あの忌まわしい「一億一心」への逆戻りの道になりゃしないかと、そんな気がするんですね。だから私たちの世代には「絆」ってのはちょっと怖い言葉なんです。耳にタコで、こりごりしてる。でも若い人たちには初めての新鮮な言葉なんでしょう。いつの間にか意味がすり替わらないように、気をつけなくちゃいけませんよ。

東北の皆さんはみんな我慢強く、ねばり強い。それだけじゃなくて、実は底抜けに明るいユーモアの心もお持ちなんです。大変でしょうが、持ち前のたくましさでシブトク立ち直っていただきたいと祈っております。 (以上,朝日新聞より引用)
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東北文化への深い理解と尊敬,東北の人々の秘められた底力への限りない信頼に基づく,心からの温かい激励だ。

この「小沢昭一的こころ」の前では,キンキン声タカ派の日本ガンバレの空疎さや,猫なで声全体主義者の思いやり支援キャンペーンのいやらしさが,たちまち露見してしまう。

政府には,復興のため,定められた職責をきちんと果たすよう要求し監視する。そして,被災された人々には,小沢昭一さんとともに,「シブトク立ち直っていいただきたい」と祈りたい。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/04/24 at 16:46

震災後日本の無責任と自己犠牲

1.祖国愛と自己犠牲の崇高さ
震災・原発事故で示された日本人の「勇気」と「自己犠牲」は世界中の人々を驚かせ,ハーバードのサンデル教授も,前述のように,それを特別講義で取り上げ,コミュニタリアニズム(共同体主義)のモデルとして賞賛した。

今回の大震災や原発事故のような未曾有の危機に際し,多くの日本人が驚嘆すべき「勇気」と「自己犠牲」を示してきたことは事実である。昨日もテレビが,地震直後,中国人研修生20人を真っ先に高台に避難させ,自分は津波に呑まれ亡くなってしまった女川町の男性の勇敢な行動と,それに対する中国からの感謝と賞賛を紹介していた。東日本大震災では,このような本物の「勇気」や「自己犠牲」が多数みられたという。私は,日本人の一人として,彼らを心から尊敬し誇りに思う。

また,福島原発事故でも,被曝の危険を顧みず,現場に踏みとどまり,あるいは現場に入り,事故拡大防止のため懸命に努力されてきた多くの技術者・作業員の方々の「勇気」と「自己犠牲」にも心から感謝し,日本人として彼らを尊敬し誇りに思う。

人間が自分の家族や地域(近隣),あるいは祖国を愛するのは自然なことである。そして,それらが危機に陥れば,生命を賭しても救いたいと思うのが,人情である。右翼はもちろん,リベラルも左翼も、これは否定しない。家族愛,郷里愛,祖国愛の無い人は,生命を賭してわが子を守ろうとする野の小鳥にすら劣る。人間,いや動物ですらない。キリストやガンディーのように敵まで愛するのは難しいとしても,家族や同胞を愛せないような人は,人間失格である。

2.祖国愛の詐取
しかし,である。人間社会の難しさは,この家族・地域・祖国への自然な愛が,社会では巧妙に詐取されてしまうことが少なくない,という点にある。国家や企業には、危機対処の職責にある人々が選任されている。彼らは,危機の際,自ら決断し,行動し,その結果に対して責任を取らなければならない。ところが,社会で危機対処への無私の「勇気」や「自己犠牲」が賞賛され始めると,彼らはそれに便乗し,あるいは自ら積極的に煽り立て,そうすることによって,決断し行動するという自らの当然の職責をぼかし,責任を回避するようになる。「自己犠牲」は,崇高な無私の自発的行為から,社会的賞賛により陰湿に強制される擬似自発的行為へと成り下がってしまうのだ。

さらに恐ろしいことに,家族・地域・祖国のための「自己犠牲」は自然な愛による自発的行為だという賞賛が繰り返されると,「自己犠牲」を強制されている本人ですら,それを「強制」とは感じなくなり,自分の自発的行為と思い込んでしまう。為政者や企業幹部,あるいは社会多数派にとって,これほど都合のよい状況はない。

これに対し,もし,たとえば原発事故処理への出動を職責に基づき命令し強制すれば,命令権者には明確な責任が生じる。誰が,誰に,どのような条件で,原発事故処理作業をさせるのか? それが危険な作業であれば,命令権者は、当然,合理的で妥当な労働条件を明示し,同意(informed consent)を得た上で,作業を命令しなければならない。命令権者と労働者の権利義務は明確となる。

ところが,実際には,そうではないらしい。原発事故処理への出動を,勇敢な「自己犠牲」と賞賛することにより,命令権者は「命令」ないし「強制」の事実を隠微な形に希薄化していき,危険きわまる劣悪な労働条件での作業を技術者や作業員に「自発的に」引き受けさせることに成功したようだ。隠微・陰湿な命令権者は,たとえ技術者や作業員に被害が出ても,崇高な自発的「自己犠牲」を理由に,たいした補償もせず,責任を免れるにちがいない。

3.「無責任の体系」としての震災後日本
かつて丸山眞男は,天皇制国家を「無責任の体系」と呼んだ。それと,どこが違うのか? 天皇制国家は,家族への自然な愛を国家へと拡大し,国家のために死ぬことを賛美した。そして,国民もそれを信じたとき,為政者はそれを最大限利用し無数の国民を国家のために殺したのである。自発的愛国心により自らお国のために生命を捧げたのだから,為政者には責任はない。一億総懺悔!

福島原発処理では,そしてそれよりも分かりにくくはあるが震災・津波被害処理においても,原理的ないし構造的には同じ「無責任の体系」が出来つつあるのではないか?

4.「死ぬ」倫理と「殺す」論理
しかし,再び「にもかかわらず」といわざるをえない。家族・地域・祖国への愛は,国家や企業,あるいは社会多数派に詐取されがちだが,にもかかわらず,それがわれわれのうちに自然なものとして内在していること,そしてまたそれは決して無用・無価値であるわけではないこと,これは確かである。丸山眞男はこう喝破した。

「『国家のために死ぬ』というのは個人倫理の立場であり,政治は戦争においてそれを『国のために殺す』行為に転換させるのです。そうした『政治』の苛烈な法則,政治次元の独立性が一切容認された上で,なおわれわれはヨリ高次の意味で政治における倫理的契機について語らねばなりません。いかなる万能の政治権力もその前に頭を垂れなければならない客観的な倫理的価値があり,それを全く無視して存続することは不可能です。」(「政治学入門」244-5頁,強調原文)

政治家が市民に国家社会への貢献を要求しうるのは,政治家が責任倫理を自覚し,自らの判断と責任の下に,委ねられた権力を行使する場合のみである。それは「無責任の体系」の下での、隠微・陰湿な「自己犠牲」の強制とは,対極にあるものである。政治的には,それは合理的であり,市民には支配に服従する政治的義務がある。

しかしながら,それでもやはり政治においては「強制」の契機が払拭しきれず,権力による国家貢献命令は倫理的には正当化しきれない。それは,つねに家族・地域・祖国への自然な,純粋に自発的な愛の倫理により,批判されなければならない。

5.理念型としての隣人愛と祖国愛
父母には子への無私の愛がある。生命を賭してわが子を救ったという事例は枚挙にいとまない。近隣や祖国への愛は,それほど直接的ではないであろうが,理念型としては純粋な隣人愛や祖国愛はあり得る。イエスの隣人愛やガンディーの祖国愛はそうしたものであろう。もしそうした愛ですらすべて否定してしまえば,人間は野獣にも劣る悪魔的怪物になりはてる。問題は詐取であって,家族愛・隣人愛・祖国愛そのものではない。

「国のために死ぬ」と「国のために殺す」――この慄然たる深い宿命的葛藤を見ようともしないサンデル教授の震災特別講義は,政治哲学として、どう評価されるべきだろうか?

参照1:サンデル教授と震災後日本の「秩序と礼節」
参照2:「時代も事情も異なるが、東電本社と、未経験の危機と闘う現場に、「大本営と前線」の落差が重なる。きびしい使命にもかかわらず、伝え聞く作業従事者の処遇はずいぶん酷だ。・・・・現場と国民に対して欺瞞の大本営であるなかれ。東電だけではない。菅政権への気がかりは、より大である。」(天声人語,2011-4-22)

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/04/23 at 12:53

マオイストの憲法案(16)

4(10) 財産権

マオイスト憲法案第31条(1)~(5)は,財産権を規定している。

マオイスト憲法案第31条 財産権
(1) 財産の取得,所有および処分の権利。
(2) 個人財産への累進課税。
(3) 公益目的以外での個人財産に対する負担付与の禁止。ただし,本項は,非生産的財産または不法取得財産には適用されない。
(4) 国家は,次の場合,補償義務を負うことなく財産を収用することができる。革命的科学的土地改革プログラムにより土地なし農民もしくは無断居住民(squatter)に土地を配分するため,または第3項により公益のために,国家が収用,取得もしくは負担付与する場合。
(5) 土地の生産性向上のため,ならびに農業近代化,環境保護,秩序ある住宅建設および都市開発のために,国家は土地利用を規制できる。

財産権については,1962年憲法でも,「法律による場合を除いては財産を奪われない」との留保がつけられていた。1990年憲法では,公益による財産権の制限が認められたが,その際には国家補償が義務づけられた。2007年暫定憲法ではどうか?

暫定憲法第19条 財産権
(1) 上記(1)と同じ。
(2) 上記(3)とほぼ同じ。「但し書き」による適用除外は不法取得財産のみ。
(3) 上記(4)に対応。財産の国家収用あるいは負担付与の場合には,国家補償を義務づけ。

さすが毛沢東主義者! 財産,特に土地については「革命的」な規定をしている。31条(4)によれば,国家は地主から土地を没収し,「土地なし農民」や「無断居住者」にそれを配分することができる。あるいは,少し拡大解釈すれば,「非生産的財産」についても,国家はそれを没収し,必要な人々に配分することができる。

これは革命的だ。ネパールで土地改革が叫ばれながら,いっこうに前進しなかった最大の理由は,土地収用に対する補償である。地主の土地隠しも確かに問題ではあった。名義を分散し,犬や牛にそれらしい名前をつけ土地所有者としている例もあった。しかし,そうした手口はその気になって調査すれば,すぐに解明できる。ところが,国家補償となると,大金がかかり,実際には,土地収用・再配分は困難であった。マオイストは,そこに真正面から切り込み,地主からの無償土地収用,農民への配分を憲法に明記したのだ。

無茶だと思われるかもしれないが,日本でも敗戦後の「農地解放」により地主の土地は「ただ同然」で強制買い上げされ,小作農民に払い下げられた。事実上,マオイスト流の土地改革を日本も,いやアメリカ(GHQ)ですら,実行したのだ。アメリカがしたのと同じことを,マオイストがやって悪いわけがない。

マオイスト憲法案の財産権規定については,もう一つ注目すべきは,累進課税を明記している点である。ネパールでは,いまだ所得が十分に補足されておらず,ここに根本的な問題があることは事実だが,それはいわば技術的な問題であり,いずれ改善されるであろう。これに対し,累進課税は所得再配分の政策選択であり,これの明記は重大な意味を持つ。

マオイストはいうまでもなく共産主義者であり,まずは社会主義の実現を目標としている。累進課税は,「社会主義的」な所得再配分政策であり,憲法明記は革命的だ。

今のネパールでは,農民や労働者を搾取し財産を蓄積した半封建的有産階級や買弁ブルジョアジーが,贅沢三昧の生活をしている。そんな「反人民的」な財産には懲罰的重税をかけ,税収を増やし,それでもって生活苦の人民の生活向上が図られて当然だ。

マオイスト案の財産権規定は,突飛な危険なものではない。西洋も日本も,歴史のある段階で,みなやってきたことなのだ。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/04/19 at 16:25

カテゴリー: マオイスト, 経済, 憲法

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サンデル教授と震災後日本の「秩序と礼節」

M.サンデル教授の「白熱教室」が人気で,何回か観たが,これは大学の授業というより,むしろ「テレビ伝道」である。

サンデル教授の討論は,本物の問題を見据えるのではなく,巧妙にそれを回避するか棚上げにし,その上で自説のコミュニタリアニズム(共同体主義)に議論を誘導していく。一,二回観ると,安心を得たい人は癒やされサンデル礼賛に向かうが,少しでもマユにツバする不信心者には討論の手の内が見え,興ざめし,二度と観ようとはしなくなる。

16日のNHK「M.サンデル特別講義:大震災後の世界をどう生きるのか」も、ひどかった。教授は,東日本大震災・福島原発事故後の日本では,アメリカや他の国のようにパニックにはならず,略奪や便乗値上げもなく,人々が「秩序と礼節」「自己犠牲と静かな勇敢さ」をもって行動したことを,ニューヨークタイムズ(3月26日)などを引用し,「日本人の国民性に折り込まれた特性」として絶賛した。

たしかに,震災後の日本人のそうした行動が,外国人ジャーナリストを驚かせ,世界中に賞賛をもって報道され,人々を感動させたことは事実である。サンデル教授は,これをコミュニタリアニズムの好個の事例としてとらえ,予定を変更して特別講義で取り上げたのである。

いうまでもないことだが,震災後,パニックになり略奪や買い占めが起こるより,「秩序と礼節」や「自己犠牲と静かな勇敢さ」をもって行動する方がよいに決まっている。それはそのとおりであり,その限りで正当に評価されるべきだが,しかしサンデル教授の議論の仕方や海外報道への日本人の反応には問題が多いといわざるをえない。

第一に,震災後の日本人の行動をコミュニタリアニズムの範例とするサンデル教授の見立てはあまりにも皮相であり,およそ学問的でも「哲学的」でもない。第二に,外国ジャーナリズムやサンデル教授の「日本人的行動」賞賛を見聞きし,得たりとばかりに「日本人の国民性」の優秀さを喧伝するのはあまりにも軽薄であるばかりか,危険でもある。

震災後日本人は,なぜ「秩序と礼節」「自己犠牲と静かな勇敢さ」をもって行動したのか? 理由はいくつかあろうが,日本人として反省すべきもっとも本質を突いた問いは,東京の出席者の一人が,言葉を選びつつ発した次のような疑問であった。

日本には,非日常のとき,「権利があっても行使できないと感じさせる状況」,「ノー」という権利があっても,それをいわせないような雰囲気,つまり「コミュニティーによる自己犠牲」の強制が生じやすい。福島原発事故処理に動員された「勇敢な人々」のなかにも,そのような人がいたのではないか?

慎重に言葉を選びつつ語られたのは,このような問いであった。これは、日本人としては聞きたくない,重い問いである。そのためか,この発言は誰かによって遮られたらしく,途中に不自然な編集が施されているように見えた。

大きな問題が生じると,日本では社会の同調圧力がかかり,個人は当然の「自由」や「権利」を行使できなくなる。その結果,責任を負うべき人々への責任追及も抑圧され,一致団結「全体責任」とされ,国家総動員体制が自然にできあがってしまう。「頑張れニッポン!」の連呼。震災後,日本のマスコミは異様な「全体主義的」雰囲気にとりつかれていた。

震災後日本人の行動は,「日本人の勇気と美徳」ではなく,本質的には,そのようなムラ社会的同調圧力によるものではないか,という問いかけである。

これこそ,問われるべき本物の「哲学的」問いであったにもかかわらず,サンデル教授(あるいはNHK?)は,はぐらかし,話題を別の方向に向けてしまった。自分の議論にとって都合が悪くなると,「転進」するのがサンデル流らしい。

次に,やはり東京の出席者の一人が,震災後日本人の行動は,日本が多民族国家ではなく,国家全体が一つのファミリーのようなものだと感じられていたからだ,と答えた。これも日本人としては見過ごすことのできない重大発言である。これは,日本を一つの家族と見なした戦前の天皇制国家(家族国家)の考え方そのものである。これに対して,サンデル教授は,そこに「多様性の欠如」というマイナス面もあるのでは,と指摘はしたが,それでおしまい,すぐ他の方向へと「転進」してしまった。

サンデル教授の「転進」作戦は,具体的で切実な問いにたいしても用いられる。東京の出席者の二人が,原発の場合,原発設置のリスクを負わされる人・地域(福島)と、その恩恵を受ける人・地域(東京)が別だという問題がある,と指摘した。これは日本では以前から幾度となく問われてきた問題であり,逃げられない本物の現実的問題である。原発は東京や大阪に建設せよ! ニューヨーク,ロンドン,パリ,北京・・・・みな同じことであり,普遍性をもつ問題でもある。ところが,この逃げられない本物の具体的な問題ですら,サンデル教授ははぐらかし,逃げてしまう。

サンデル教授の「白熱教室」は,本物の重要問題ははぐらかしつつ,それでもやはりコミュニタリアニズムは正しいという漠たる印象を参加者・視聴者に与えることを目的としているように思われる。

欧米のように、個人主義の強固な伝統があるところでは,コミュニタリアニズムを対抗思想として「テレビ伝道」することにもそれなりの意義があるであろうが,個人主義の伝統が希薄で,いまだムラ的コミュニタリアニズムが「国民性に折り込まれた特性」となっている日本では,サンデル教授のようなコミュニタリアニズム「テレビ伝道」は危険である。

日本人の「秩序と礼節」「自己犠牲と静かな勇敢さ」を外国メディアやサンデル教授が絶賛し,それを見た日本人が「日本人の国民性に折り込まれた特性」を再発見し,有頂天になり,その再生産強化に再び邁進する。サンデル教授のおかげで,そんな悲喜劇がこれから始まりそうな気がする。

 160207

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/04/17 at 17:53

カテゴリー: 社会, 人権

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マオイストの憲法案(15)

4(9) 不可触民差別および人種差別に対する権利
マオイスト憲法案第30条は,不可触民差別や人種差別を禁止している。カースト差別,人種差別は,1962年憲法第10条でも禁止されており,その規定がその通り適用されておれば,それらの差別はなくなっていたはずである。しかし,他の多くの規定同様,62年憲法第10条も実際には無視され,非道なカースト差別が続いてきた。

1990年民主化運動成功により成立した90年憲法では,第11条で「不可触民」差別禁止が明記され,具体的に「公共の場所への立ち入り拒否」や「公共施設の利用拒否」を明文で禁止した。

2007年暫定憲法では,14条(1)~(5)により,不可触民差別と人種差別を,憲法にそぐわないほど詳細かつ具体的に規定し禁止している。マオイスト案は,それを受けているが,一部マオイストらしさを出したところもある。

暫定憲法第14条
(1) カースト,出自,共同体または職業を理由とした人種差別または不可触民差別の禁止。差別者は処罰され,被害者は賠償される。
(2) カーストまたは部族を理由に,公共的な施設利用もしくはサービスを拒否すること,公共的な場所もしくは宗教的な場所への立ち入りを拒否すること,または,宗教的行為を拒否すること,の禁止。
(3) カーストまたは部族を理由に,商品やサービスの生産や提供を拒否することの禁止。
(4) カースト,部族もしくは出自を理由として,優劣を述べること,社会的差別を正当化すること,カーストの優劣もしくは憎悪の思想を広めること,または,他の形でのカースト差別を助長すること,の禁止。
(5) (2)~(4)に抵触する行為の処罰。

マオイスト憲法案第30条
(1) 上記(1)に対応。差別理由に「身体的条件」を追加。賠償規定なし。
(2) 上記(3)と同じ。
(3) 上記(4)に対応。差別理由に「不可触民」追加。
(4) 不可触民カーストを理由として,本人の意思に反する行為や仕事をさせ,差別することの禁止。
(5) あらゆる形の不可触民差別や他の差別の処罰と,差別被害者への賠償。

カースト差別禁止という点ではマオイスト憲法案と暫定憲法は同じだが,ニュアンスは微妙に異なる。全体的にマオイスト案では,不可触民差別禁止が前面に出ている。また,暫定憲法14条(2)が公共的な場所立ち入りやサービスの拒否を禁止しているのに対し,マオイスト案は職業の強制を禁止している。

カースト差別については,憲法にここまで細々と記述する必要は無いと思うが,62年憲法のような差別禁止の原則規定だけでは実効性がなかったことを考えると,可能な限り詳細かつ具体的に憲法に記述せざるを得なかったのだろう。

マオイスト人民戦争は問題も多いが,少なくともカースト差別や性差別をラディカルに批判し,差別撤廃へ向けて大きく前進させたことは,高く評価できる。

マオイストの「蛮勇」なくして,カースト差別や性差別撤廃へ向けてのこれだけの前進はあり得なかったと断言してもよい。ピューリタン革命の「首切り斧」,フランス革命の「ギロチン」,社会主義革命の「人民裁判」――歴史は残酷なものだ。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/04/16 at 10:38

マオイストの憲法案(14)

4(7) 犯罪被害者の権利
マオイスト憲法案第27条は,犯罪被害者の権利を規定している。犯罪被害者は,捜査・起訴状況などに関する情報を知る権利と,社会復帰援助および犯罪被害補償を受ける権利を有する。この規定はマオイスト案にしかない。斬新な規定である。

4(8) 予防拘禁に関する権利
マオイスト案は,暫定憲法と同じく,予防拘禁を制限しているものの,禁止はしていない。予防拘禁は,1962年憲法で認められており,これが1990年憲法,暫定憲法,マオイスト憲法案へと継承された。

29条(1) 主権と統合または法と秩序に対する直接的脅威がある場合以外の予防拘禁の禁止。

(2) 当局が悪意で違法に予防拘禁した場合の賠償。

予防拘禁は,国家社会に危険と判断された場合には認められる。政治的な要件であり,人身保護が空文化する恐れがある。きわめて危険。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/04/13 at 20:55

カテゴリー: マオイスト, 憲法

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