ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

サンデル教授と震災後日本の「秩序と礼節」

M.サンデル教授の「白熱教室」が人気で,何回か観たが,これは大学の授業というより,むしろ「テレビ伝道」である。

サンデル教授の討論は,本物の問題を見据えるのではなく,巧妙にそれを回避するか棚上げにし,その上で自説のコミュニタリアニズム(共同体主義)に議論を誘導していく。一,二回観ると,安心を得たい人は癒やされサンデル礼賛に向かうが,少しでもマユにツバする不信心者には討論の手の内が見え,興ざめし,二度と観ようとはしなくなる。

16日のNHK「M.サンデル特別講義:大震災後の世界をどう生きるのか」も、ひどかった。教授は,東日本大震災・福島原発事故後の日本では,アメリカや他の国のようにパニックにはならず,略奪や便乗値上げもなく,人々が「秩序と礼節」「自己犠牲と静かな勇敢さ」をもって行動したことを,ニューヨークタイムズ(3月26日)などを引用し,「日本人の国民性に折り込まれた特性」として絶賛した。

たしかに,震災後の日本人のそうした行動が,外国人ジャーナリストを驚かせ,世界中に賞賛をもって報道され,人々を感動させたことは事実である。サンデル教授は,これをコミュニタリアニズムの好個の事例としてとらえ,予定を変更して特別講義で取り上げたのである。

いうまでもないことだが,震災後,パニックになり略奪や買い占めが起こるより,「秩序と礼節」や「自己犠牲と静かな勇敢さ」をもって行動する方がよいに決まっている。それはそのとおりであり,その限りで正当に評価されるべきだが,しかしサンデル教授の議論の仕方や海外報道への日本人の反応には問題が多いといわざるをえない。

第一に,震災後の日本人の行動をコミュニタリアニズムの範例とするサンデル教授の見立てはあまりにも皮相であり,およそ学問的でも「哲学的」でもない。第二に,外国ジャーナリズムやサンデル教授の「日本人的行動」賞賛を見聞きし,得たりとばかりに「日本人の国民性」の優秀さを喧伝するのはあまりにも軽薄であるばかりか,危険でもある。

震災後日本人は,なぜ「秩序と礼節」「自己犠牲と静かな勇敢さ」をもって行動したのか? 理由はいくつかあろうが,日本人として反省すべきもっとも本質を突いた問いは,東京の出席者の一人が,言葉を選びつつ発した次のような疑問であった。

日本には,非日常のとき,「権利があっても行使できないと感じさせる状況」,「ノー」という権利があっても,それをいわせないような雰囲気,つまり「コミュニティーによる自己犠牲」の強制が生じやすい。福島原発事故処理に動員された「勇敢な人々」のなかにも,そのような人がいたのではないか?

慎重に言葉を選びつつ語られたのは,このような問いであった。これは、日本人としては聞きたくない,重い問いである。そのためか,この発言は誰かによって遮られたらしく,途中に不自然な編集が施されているように見えた。

大きな問題が生じると,日本では社会の同調圧力がかかり,個人は当然の「自由」や「権利」を行使できなくなる。その結果,責任を負うべき人々への責任追及も抑圧され,一致団結「全体責任」とされ,国家総動員体制が自然にできあがってしまう。「頑張れニッポン!」の連呼。震災後,日本のマスコミは異様な「全体主義的」雰囲気にとりつかれていた。

震災後日本人の行動は,「日本人の勇気と美徳」ではなく,本質的には,そのようなムラ社会的同調圧力によるものではないか,という問いかけである。

これこそ,問われるべき本物の「哲学的」問いであったにもかかわらず,サンデル教授(あるいはNHK?)は,はぐらかし,話題を別の方向に向けてしまった。自分の議論にとって都合が悪くなると,「転進」するのがサンデル流らしい。

次に,やはり東京の出席者の一人が,震災後日本人の行動は,日本が多民族国家ではなく,国家全体が一つのファミリーのようなものだと感じられていたからだ,と答えた。これも日本人としては見過ごすことのできない重大発言である。これは,日本を一つの家族と見なした戦前の天皇制国家(家族国家)の考え方そのものである。これに対して,サンデル教授は,そこに「多様性の欠如」というマイナス面もあるのでは,と指摘はしたが,それでおしまい,すぐ他の方向へと「転進」してしまった。

サンデル教授の「転進」作戦は,具体的で切実な問いにたいしても用いられる。東京の出席者の二人が,原発の場合,原発設置のリスクを負わされる人・地域(福島)と、その恩恵を受ける人・地域(東京)が別だという問題がある,と指摘した。これは日本では以前から幾度となく問われてきた問題であり,逃げられない本物の現実的問題である。原発は東京や大阪に建設せよ! ニューヨーク,ロンドン,パリ,北京・・・・みな同じことであり,普遍性をもつ問題でもある。ところが,この逃げられない本物の具体的な問題ですら,サンデル教授ははぐらかし,逃げてしまう。

サンデル教授の「白熱教室」は,本物の重要問題ははぐらかしつつ,それでもやはりコミュニタリアニズムは正しいという漠たる印象を参加者・視聴者に与えることを目的としているように思われる。

欧米のように、個人主義の強固な伝統があるところでは,コミュニタリアニズムを対抗思想として「テレビ伝道」することにもそれなりの意義があるであろうが,個人主義の伝統が希薄で,いまだムラ的コミュニタリアニズムが「国民性に折り込まれた特性」となっている日本では,サンデル教授のようなコミュニタリアニズム「テレビ伝道」は危険である。

日本人の「秩序と礼節」「自己犠牲と静かな勇敢さ」を外国メディアやサンデル教授が絶賛し,それを見た日本人が「日本人の国民性に折り込まれた特性」を再発見し,有頂天になり,その再生産強化に再び邁進する。サンデル教授のおかげで,そんな悲喜劇がこれから始まりそうな気がする。

 160207

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/04/17 @ 17:53

カテゴリー: 社会, 人権

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