ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

震災後日本の無責任と自己犠牲

1.祖国愛と自己犠牲の崇高さ
震災・原発事故で示された日本人の「勇気」と「自己犠牲」は世界中の人々を驚かせ,ハーバードのサンデル教授も,前述のように,それを特別講義で取り上げ,コミュニタリアニズム(共同体主義)のモデルとして賞賛した。

今回の大震災や原発事故のような未曾有の危機に際し,多くの日本人が驚嘆すべき「勇気」と「自己犠牲」を示してきたことは事実である。昨日もテレビが,地震直後,中国人研修生20人を真っ先に高台に避難させ,自分は津波に呑まれ亡くなってしまった女川町の男性の勇敢な行動と,それに対する中国からの感謝と賞賛を紹介していた。東日本大震災では,このような本物の「勇気」や「自己犠牲」が多数みられたという。私は,日本人の一人として,彼らを心から尊敬し誇りに思う。

また,福島原発事故でも,被曝の危険を顧みず,現場に踏みとどまり,あるいは現場に入り,事故拡大防止のため懸命に努力されてきた多くの技術者・作業員の方々の「勇気」と「自己犠牲」にも心から感謝し,日本人として彼らを尊敬し誇りに思う。

人間が自分の家族や地域(近隣),あるいは祖国を愛するのは自然なことである。そして,それらが危機に陥れば,生命を賭しても救いたいと思うのが,人情である。右翼はもちろん,リベラルも左翼も、これは否定しない。家族愛,郷里愛,祖国愛の無い人は,生命を賭してわが子を守ろうとする野の小鳥にすら劣る。人間,いや動物ですらない。キリストやガンディーのように敵まで愛するのは難しいとしても,家族や同胞を愛せないような人は,人間失格である。

2.祖国愛の詐取
しかし,である。人間社会の難しさは,この家族・地域・祖国への自然な愛が,社会では巧妙に詐取されてしまうことが少なくない,という点にある。国家や企業には、危機対処の職責にある人々が選任されている。彼らは,危機の際,自ら決断し,行動し,その結果に対して責任を取らなければならない。ところが,社会で危機対処への無私の「勇気」や「自己犠牲」が賞賛され始めると,彼らはそれに便乗し,あるいは自ら積極的に煽り立て,そうすることによって,決断し行動するという自らの当然の職責をぼかし,責任を回避するようになる。「自己犠牲」は,崇高な無私の自発的行為から,社会的賞賛により陰湿に強制される擬似自発的行為へと成り下がってしまうのだ。

さらに恐ろしいことに,家族・地域・祖国のための「自己犠牲」は自然な愛による自発的行為だという賞賛が繰り返されると,「自己犠牲」を強制されている本人ですら,それを「強制」とは感じなくなり,自分の自発的行為と思い込んでしまう。為政者や企業幹部,あるいは社会多数派にとって,これほど都合のよい状況はない。

これに対し,もし,たとえば原発事故処理への出動を職責に基づき命令し強制すれば,命令権者には明確な責任が生じる。誰が,誰に,どのような条件で,原発事故処理作業をさせるのか? それが危険な作業であれば,命令権者は、当然,合理的で妥当な労働条件を明示し,同意(informed consent)を得た上で,作業を命令しなければならない。命令権者と労働者の権利義務は明確となる。

ところが,実際には,そうではないらしい。原発事故処理への出動を,勇敢な「自己犠牲」と賞賛することにより,命令権者は「命令」ないし「強制」の事実を隠微な形に希薄化していき,危険きわまる劣悪な労働条件での作業を技術者や作業員に「自発的に」引き受けさせることに成功したようだ。隠微・陰湿な命令権者は,たとえ技術者や作業員に被害が出ても,崇高な自発的「自己犠牲」を理由に,たいした補償もせず,責任を免れるにちがいない。

3.「無責任の体系」としての震災後日本
かつて丸山眞男は,天皇制国家を「無責任の体系」と呼んだ。それと,どこが違うのか? 天皇制国家は,家族への自然な愛を国家へと拡大し,国家のために死ぬことを賛美した。そして,国民もそれを信じたとき,為政者はそれを最大限利用し無数の国民を国家のために殺したのである。自発的愛国心により自らお国のために生命を捧げたのだから,為政者には責任はない。一億総懺悔!

福島原発処理では,そしてそれよりも分かりにくくはあるが震災・津波被害処理においても,原理的ないし構造的には同じ「無責任の体系」が出来つつあるのではないか?

4.「死ぬ」倫理と「殺す」論理
しかし,再び「にもかかわらず」といわざるをえない。家族・地域・祖国への愛は,国家や企業,あるいは社会多数派に詐取されがちだが,にもかかわらず,それがわれわれのうちに自然なものとして内在していること,そしてまたそれは決して無用・無価値であるわけではないこと,これは確かである。丸山眞男はこう喝破した。

「『国家のために死ぬ』というのは個人倫理の立場であり,政治は戦争においてそれを『国のために殺す』行為に転換させるのです。そうした『政治』の苛烈な法則,政治次元の独立性が一切容認された上で,なおわれわれはヨリ高次の意味で政治における倫理的契機について語らねばなりません。いかなる万能の政治権力もその前に頭を垂れなければならない客観的な倫理的価値があり,それを全く無視して存続することは不可能です。」(「政治学入門」244-5頁,強調原文)

政治家が市民に国家社会への貢献を要求しうるのは,政治家が責任倫理を自覚し,自らの判断と責任の下に,委ねられた権力を行使する場合のみである。それは「無責任の体系」の下での、隠微・陰湿な「自己犠牲」の強制とは,対極にあるものである。政治的には,それは合理的であり,市民には支配に服従する政治的義務がある。

しかしながら,それでもやはり政治においては「強制」の契機が払拭しきれず,権力による国家貢献命令は倫理的には正当化しきれない。それは,つねに家族・地域・祖国への自然な,純粋に自発的な愛の倫理により,批判されなければならない。

5.理念型としての隣人愛と祖国愛
父母には子への無私の愛がある。生命を賭してわが子を救ったという事例は枚挙にいとまない。近隣や祖国への愛は,それほど直接的ではないであろうが,理念型としては純粋な隣人愛や祖国愛はあり得る。イエスの隣人愛やガンディーの祖国愛はそうしたものであろう。もしそうした愛ですらすべて否定してしまえば,人間は野獣にも劣る悪魔的怪物になりはてる。問題は詐取であって,家族愛・隣人愛・祖国愛そのものではない。

「国のために死ぬ」と「国のために殺す」――この慄然たる深い宿命的葛藤を見ようともしないサンデル教授の震災特別講義は,政治哲学として、どう評価されるべきだろうか?

参照1:サンデル教授と震災後日本の「秩序と礼節」
参照2:「時代も事情も異なるが、東電本社と、未経験の危機と闘う現場に、「大本営と前線」の落差が重なる。きびしい使命にもかかわらず、伝え聞く作業従事者の処遇はずいぶん酷だ。・・・・現場と国民に対して欺瞞の大本営であるなかれ。東電だけではない。菅政権への気がかりは、より大である。」(天声人語,2011-4-22)

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/04/23 @ 12:53