ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

Archive for 7月 2011

ゴビンダ・マイナリ氏の再審・無罪判決を

「東電OL殺人事件」で無期懲役刑が確定し服役していたネパール人ゴビンダ・マイナリ氏の再審請求審において,現場遺留物の再鑑定の結果,別人のDNAが検出され,ゴビンダ氏を有罪とした最有力根拠の一つが崩れた。早急に再審を開始し,無罪判決を出すべきだ。(参照:Justice for Govinda Mainali jailed in Japan, Republica/毎日新聞) 以下,関連記事再掲

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ネパール人被告の即時釈放を求める

2000年9月28日

谷川昌幸

 3年前の東電OL殺人事件で逮捕、起訴され、この4月東京地裁で無罪判決を受けたネパール人被告ゴビンダ・マイナリ氏が、無罪判決後、検察上訴のため再勾留され、いまだ身柄拘束されている。不当な人権侵害といわざるをえない。

 そもそも憲法は「すでに無罪とされた行為については、刑事上の責任を問われない」(39条)と述べ、検察上訴を認めていない。有罪にするだけの証拠を法廷に提示できなかったのは検察側の責任だから、たとえ神の眼には有罪だったとしても、裁判でいったん無罪判決が下されたら、その時点で公平と人権の観点から被告の無罪が確定する、というのが憲法の精神である。

 マイナリ被告の場合、3年におよぶ東京地裁での慎重審査の結果、無罪が言い渡された。被告側によれば、別件逮捕され、取調中には暴行や自白強要もあったというし、弁護士接見妨害に対しては東京地裁が損害賠償を認めている。検察はそこまでしても結局、被告を有罪とするに足る証拠を提示できなかった。その責任は断じて被告にはない。検察は、違憲の責任転嫁上訴を取り下げ、直ちにマイナリ被告を釈放すべきだ。

 マイナリ氏再勾留は、たとえ仮に検察上訴を認めるにしても、違法であることに変わりはない。朝日社説(6月30日)がいうように「被告が日本人であれば、無罪判決後の身柄拘束など到底考えられない」のであり、再勾留決定は被告が外国人で、釈放するとネパールへ強制送還され、控訴審にとって都合が悪いからである。しかし、こうした超法規的理由による勾留は、外国人被告に対する「法の不備」の責任を被告に転嫁し、国家の都合を人権に優先させるものだ。それは、適正手続きを保障する憲法31条や同趣旨の国際人権法の諸規定に違反する。手続きの適正は、刑事裁判では真相解明に優先する。マイナリ被告は、その適正手続きを拒否され、人権を著しく侵害されているのだ。

 これは、日本がもし法治国だとするなら、憂慮すべき事態である。政府は、ネパールが日本の巨額のODA援助を受ける弱小国だから、多少強引なことをしてもネパール政府は黙認するだろうと高をくくっているのかもしれない。たしかに、これまでの経過を見ると、日本政府の読みは当たっているようだ。しかし、日本政府は、そうした大国主義的態度がいかに深くネパールを傷つけるかを理解すべきだ。

 わが国とネパールは、民間を中心とした長年の誠実な努力の結果、きわめて良好な友好関係を築き上げてきた。ネパールにとって日本は近代化のモデルであり、どこに行っても「日本に学べ」という言葉が聞かれるほどだ。法制度についてもそうであって、1990年の「ネパール憲法」制定の際も日本国憲法が大いに参考にされた。彼ら、とくに知識人や学生は日本国憲法のことをかなりよく知っており、近代的法治国としての日本を尊敬している。また少なくとも都市部では一般庶民も毎日のようにマスコミで報道される憲法論議に接し、日本人以上に法学的思考に慣れている。そのようなネパール人の眼にマイナリ裁判はどう映るであろうか。おそらく直ちに知識人は理論的に、庶民は直感的に、その不当性を理解するであろう。いや、もうすでに、マイナリ裁判はネパール国会で論議され新聞でも報道されたので、彼らはよく理解しているはずだ。にもかかわらず、恩義に厚い彼らはまだ日本の法治主義に望みをつなぎ、表立った日本批判を控えている。

 いまマイナリ裁判で日本の法治主義が試されている。検察上訴を認め、マイナリ被告を勾留し続ければ、いずれネパール市民は声を上げ、それは多くの国々に支持されるだろう。これは営々と友好関係を築き上げてきた日ネ両国民にとって不幸なことだし、日本政府にとっても決して得策ではない。アムネスティはすでに抗議声明を発表したし、歴史と実績を誇る日本ネパール協会も世界に向けて抗議声明を発表し、即時釈放運動を始めた。
 検察は、手遅れにならないうちに、マイナリ氏に対する違憲の上訴を取り下げるか、さもなければ少なくとも違法な勾留継続は断念すべきだ。

(谷川昌幸、2000.9.28)

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ネパール人、ゴビンダ・プラサド・マイナリ氏の即時釈放を求める声明

  

2000年6月27日

【社】日本ネパール協会

会長 山本 英治

私達、日本ネパール協会は、民間の立場から、様々な分野での日本、ネパール両国国民間の理解を深め、友好・親善に寄与することを目的として設立された団体です。

 日本ネパール協会は、6月16日理事会の決定に基づき、1997年5月に電力会社女性社員強盗殺人事件の被告とされ、三年に及ぶ裁判の結果、今年4月14日に東京地裁で「無罪判決」を得たのちに、検察の控訴とともになされた勾留請求を受けて、5月8日に高裁の職権により再勾留され、2ヶ月たった今なお拘置されているネパール人、ゴビンダ・プラサド・マイナリ氏に対し、世界人権宣言、自由権規約および日本国憲法の趣旨に則り、公正かつ適正な措置がとられ、即時釈放されることを求め声明を出すものです。

 ゴビンダ氏が一審で、無罪になったにもかかわらず、控訴審以前に再勾留されたことについては、国際的な人権団体のアムネスティ・インターナショナルが「日本の刑事訴訟法に違反しており、彼の身体の自由への権利を侵害している」旨の声明を出しているほか、ネパールのマスコミも大きく取り上げるなど国際的な批判があがっています。

 私達は、この事件の三年にわたる審理の結果出された東京地裁の「無罪判決」は、十分に尊重されなくてはならないと信じます。地裁、高裁の二度にわたる勾留請求棄却のあと、東京高裁が「罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由がある」と判断していることは、とても納得いくものではありません。

 私達は、ゴビンダ氏の再勾留の決定は、彼が外国人であることによる差別であり、様々な場面で我が国の国際交流や国際協力に携わっている官民の広範な努力に水をさすものだと感じます。また国際化時代の日本の役割に期待する、ネパールをはじめとする諸外国からの友好のまなざしを裏切るものと考えます。このような立場から、私達はこの事件の推移に大きな関心をもって臨むとともに、法律的に極めて異常な状況にある現状をできるだけ早期に解消し、ゴビンダ・プラサド・マイナリ氏の人権が回復されることを求めます。
                                        

(日本ネパール協会HPより)

The Statement to Request Immediate Release of Mr. Govinda Prasad Mainali

June 28, 2000

The Japan Nepal Society

President, Eiji Yamamoto

The Japan Nepal Society was established with the objective of deepening understanding between Nepal and Japan, thus, contributing to the promotion of goodwill and friendship between the two countries.

Mr. Govinda Prasad Mainali , a citizen of Nepal, was charged with the murder of a female electric company employee in May, 1997. He remained in detention for the duration of the trial; a period of more than 3 years. On April 14, 2000, Mr. Mainali was acquitted by the Tokyo District Court ; the judge citing lack of decisive evidence for its ruling. The Tokyo District Public Prosecutors’ Office filed an appeal with the Tokyo High Court requesting a reversal of the District Court decision and recommending Mr. Mainali’s detention during the appeal process. The court complied to the prosecutors’ request , and on May 8, 2000, Mr. Mainali was again detained and remains in detention after 2 months.

We, the Japan Nepal Society, based on the decision of the Board of Directors meeting held on June 16, 2000, issue this statement to demand that, fair and appropriate measures be taken according to the spirit of international human rights law ( the International Covenant of Civil and Political Rights), and as required by the Constitution of Japan , and that Mr. Govinda Prasad Mainali. be released immediately.

The fact that Mr. Mainali was detained again prior to a hearing of intermediate appeal, and after he was acquitted at the first trial, has raised harsh international criticism. The international human rights organization, Amnesty International, has issued a statement saying that “Mr. Mainali’s detention is in contravention of his rights under Japanese law (the Code of Criminal Procedure).” This case has also been widely reported by the mass communication media in Nepal.

We, the Japan Nepal Society , believe that the “not guilty” verdict handed down by the Tokyo District Court after 3 years at trial must be fully respected. We find it unconscionable to accept the Tokyo High Court’s decision ordering Mr. Mainali’s renewed detention on the grounds that ” a reasonable suspicion exists that he committed a crime,” when earlier requests from the prosecutors were rejected by both the District Court and the High Court

We the Japan Nepal Society, believe that the High Court ‘s re-detention of Mr. Mainali represents discrimination against foreign nationals in its most severe form. Further, we believe that the Court’s action negatively impacts the wide range efforts of both the government and the people who are participating in international communication and assistance activities in various fields. We also feel that this decision might be interpreted as a betrayal of the friendship and expectations shown by nations such as Nepal, that place importance on the role of Japan in this age of increased globalization. With this in mind, we, the Japan Nepal Society, regard the outcome of this case with grave interest, and, at the same time, request this extremely abnormal judiciary condition be normalized as soon as possible and that Mr. Govinda Prasad Mainali`s human rights be recovered without further delay.

(The Japan Nepal Society, Home Page)

Written by Tanigawa

2011/07/23 at 12:11

カテゴリー: 人権

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マオイストの憲法案(26)

第4編 国家の指導原則と政策および責任(1)

マオイスト憲法案の第4編(第54~58条)は「国家の指導原則と政策および責任(Directive Principles and Policies and Responsibilities of the State)」を規定している。

この「国家の指導原則」は,1937年アイルランド憲法や1931年スペイン憲法の考え方を継承したインド憲法第4編の「国家の指導原則」に習ったものであり,その基本的特質は,裁判強制規範ではなく,立法ないし統治のための基本原則(いわゆるプログラム規定)というところにある。インド憲法は次のように規定している。

インド憲法第4編 国家政策の指導原則
第37条 この編の規定は,裁判所による強制が保障されるものではないが,ここで定める原則は国の統治にとって基本的なものであり,立法にあたってこれらの原則を適用することは国の義務である。(『アジア憲法集』pp218–9)

この「国家の指導原則」の考え方は,ネパール憲法にも早くから取り入れられていた。

1962年ネパール憲法 第4編 パンチャヤト制の指導原則
第18条(原則の適用) 本編の原則は一般指針であり,どの裁判所でも強制されない。

1990年ネパール王国憲法 第4編 国家の指導原則と政策
第24条(指導原則と政策の適用) 本編の原則および政策は,どの裁判所においても強制されない。

2007年暫定憲法 第4編 国家の責任,指導原則および政策
第36条(法廷提訴の禁止) (1)本編規定の施行については,どの裁判所にも提訴できない。 

憲法に,裁判強制規範と裁判非強制規範の二つを定め,前者を司法に,後者を立法ないし行政に担当させる,というのは,特に途上国における権利保障としては,現実的な,興味深い方法である。インド憲法も,それを継承したネパール諸憲法も,裁判非強制規範ということを十分意識して,「国家の指導原則」を憲法に規定しているのである。

ところが,マオイスト憲法案は「国家の指導原則」を規定しながら,管見の限りでは,それを裁判非強制規範とする規定はみあたらない(どこかにそのような規定があれば,この部分は訂正します)。したがって,マオイスト案では,立法や行政を「国家の指導原則」違反として裁判所に提訴することも出来ることになる。立法や行政は,「国家の指導原則」に関して,主権者人民に対する政治責任ばかりか,裁判所で裁かれる法的責任をも負わされることになるのである。

マオイストは,人民に対する国家の義務を憲法でより明確化に規定することを意図したのであろうが,これは民主主義の観点からは妥当とはいえないのではないか。たとえば,第3編の権利保障と,この第4編の権利保障は,どこがどう違うのか? あるいは,このような規定では,立法・行政と司法の関係が曖昧になり,むしろ議会制民主主義の原理に反するのではないか? 主権者人民(の代表たる議会)が決定すべき政治問題までも,いちいち裁判所が介入し司法的に決定しようとして,安定した民主的統治が困難になる恐れがある。

この点については,第4編の規定全体を概観したあとで,もう一度検討してみることにする。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/07/21 at 21:20

マオイストの憲法案(25)

4(19) 追放されない権利,基本的権利施行と憲法的救済に関する権利
マオイスト憲法案の第51条は追放されない権利,第52条は基本的権利施行と憲法的救済に関する権利を規定している。

第51条 追放されない権利
市民は追放されない。

第52条 基本的権利施行と憲法的救済に関する権利
 (1)本編規定の諸権利の効果的施行および救済への権利
 (2)権利施行のための法律と司法制度を6ヶ月以内に整備。
 (3)特別な権利や優先権を保障するため,人間開発指数に基づき,5年ごとに評価・見直しを実施。
 (4)本編規定の基本的権利を否定する法律は,無効。ただし,ネパールの主権,独立,領土,安全保障,諸権利,個人の尊厳,または公共の制度・健康・道徳を根拠とする場合は除く。

――この第52条に見られるように,マオイスト憲法案でも権利保障の実効性は意識されているが,実際には,これほど盛りだくさんの権利保障は,当分は無理である。

また,それ以上に問題なのが,ここでも基本的権利保障に,多くの但し書きが付されていること。これらを使えば,どのような権利であれ,否定することは難しくない。

4(20)基本的義務
マオイスト憲法案第3編の最後に,「(a)基本的義務」が置かれ,第53条で市民の義務を規定している。

第53条 市民の義務
 (1)市民はすべて以下の義務を負う。
 (a)国家への忠誠を誓い,ネパールの国民性・主権・統合を守ること。
 (b)敏感事項については,国家機密を守ること。
 (c)民主主義・人権・平和・開発進歩のため,憲法と法律を遵守すること。
 (d)国家の求める強制任務に参加すること。また,18歳以上の健康な市民は,国家防衛のための強制軍事訓練を受けること。
 (e)公共財産・国家財産の維持促進。
 (f)法に従い税を払うこと。
 (g)個人の自由や権利は,国家・社会・他の個人の権利を侵害することなく行使すること。
 (h)労働の尊重。
 (i)両親,子供,老人,女性,心身障害者および扶養者のない人々,ならびに人類社会に対し,配慮し敬意を払うこと。

――この義務規定は興味深い。国家への忠誠義務,18歳以上の男女に対する軍事訓練の強制,スパイ禁止(国家機密保持義務)などが明文規定されている。

マオイストらしいのは,労働尊重義務。上位カーストの根深い労働蔑視を,労働者・農民の側から根底的に否定するための規定とみてよいであろう。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/07/18 at 12:39

マオイストの憲法案(24)

4(18) 社会的正義に関する権利,社会保障に関する権利
マオイスト憲法案の第48条は社会的正義に関する権利,第49条は社会保障に関する権利を規定している。

第48条 社会的正義に関する権利
 (1)社会的に低開発の人々は,比例的包摂原理に基づき,国家諸組織に参加する権利を有する。社会的低開発の人々=女性,ダリット,マデシ,先住民族(アディバシ,ジャナジャーティ),少数派および周縁化された人々,ムスリム,性的少数派,心身障害者,青少年,後進階級,農民および労働者,被抑圧集団。

 (2)(1)に関しては,経済的貧窮市民が優先される。

 (3)貧窮階級,心身障害者,限界社会共同体の市民は,保護,育成,開発を図るため,教育,健康,住居,雇用,食料,社会保障において,特に優先される。

 (4)農民の権利=耕地への権利,伝統的に使用されてきた地域の種苗への権利,農産物の適正価格と市場アクセスへの権利。

 (5)アディバシ,ジャナジャーティの権利=アイデンティティへの権利,言語および文化の維持・発展への権利,開発における優先特権,自決権原則に基づく自治への権利。

 (6)少数者社会共同体は,自己のアイデンティティおよび自己の社会的文化的権利を享受する特権を有する。

 (7)マデシ社会共同体は,自決権原則に基づく自治権,経済的・社会的・文化的機会の平等配分権,ならびに共同体内の貧窮階級および女性の保護・開発への優先特権を有する。

 (8)被抑圧地域は,保護,開発および基本的必要充足への優先特権を有する。

 (9)心身障害者は,その個性を尊重され尊厳を持って生きる権利および社会生活への権利を有する。

 (10)青少年の権利=教育,健康および雇用において優先される権利,人間開発への権利,国家開発全般へ貢献する機会の権利。

 (11)人民運動,人民戦争およびマデシ運動における犠牲者,行方不明者および負傷者の家族は,すべての国家組織に参加する権利,ならびに公共サービス特別措置,教育,健康,雇用,居住,社会保障,救済および年金への権利を有する。

 (12)アディバシ,ジャナジャーティおよび地域共同体は,土地と自然資源への優先権を有する。

第49条 社会保障に関する権利
次の人々は法の定めにより社会保障の権利を有する。貧窮階級,扶養者のいない心身障害者,扶養者のいない独身女性,心身障害者,子供,老人,自活できない人々,限界民族。

――マオイスト憲法案の最大の特徴の一つは,弱者への配慮である。その際,弱者は属性ごとの集団として把握される。つまり,自由や権利の多くは,各個人に個人の自由や権利として保障されるのではなく,集団の一員の権利として保障される。

近代の人権論からいえば,個々人に自由と権利を最大限保障するのが国家の目標となるはずだが,共産主義+多文化主義のネパール・マオイストは,集団の権利をすべてに優先させるのである。

集団の権利は,欧米でもたとえば積極的格差是正措置(affirmative action)などにおいて認められているが,これはあくまでも人権保障の例外である。欧米や日本の人権保障の原則は,あくまでも個人の権利保障である。

ところが,ネパールでは積極的に格差是正すべき集団が無数に存在する。集団の権利を例外扱いするわけには行かない。誰もが、何らかの集団アイデンティティを申し立て,「集団の権利」として自己の権利を主張する。いわばアイデンティティ集団人権の主張だ。

したがって,ネパールにおいて「集団の権利」が主張されざるをえない状況は十二分に理解できる。が,しかし,それは近代民主主義における文化否定の逆の危険をもたらす恐れがあることを忘れてはならない。

一つは,アイデンティティ政治の激化。あらゆる権利が集団化され,集団間の紛争が激化する。

そして,その一方,集団内では,個人の自由や権利が抑圧される。たとえば,集団の母語教育権を主張すればするほど,集団内の個人の言語選択権は直接的または間接的に制限されることになる。

しかも,この「集団の権利」を次々に認めていくと,権利保障が際限もなく複雑化し,理解不能のものになってしまう。たとえば,性的少数者の権利。ゲイ,レズ,バイ,第三の性,第四の性・・・・・。きりがない。こんなことをやっていってよいのだろうか?

何度も繰り返すように,権利と自由を手当たり次第書き込んでも,実効性が担保されなければ,無意味である。いや,単に無意味というより,憲法そのものへの信任が失われ,立憲政治が根底から瓦解してしまうだろう。

[参照]
第三の性,公認
ネパール秘義政治とインド性治学

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/07/17 at 21:05

カテゴリー: マオイスト, 憲法, 人権

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日ネ首相の権力欲

ネパールのカナル首相と日本の菅首相が,ますますあい似通い,政治家らしくなってきた。

[1]

カナル首相(UML)は,党内基盤が弱く,最大政党マオイストの要求を丸呑みして支持を取り付け首相に選出された。当初は,マオイストの操り人形と酷評され,短命と見られていた。5月28日の制憲議会(CA)任期切れに際しても,「挙国政府のめどがついたら」辞任すると約束し,かろうじて任期を3ヶ月延長することが出来たにすぎない。

カナル政権はもともと弱体であり,辞任まで約束したので,与党UMLも野党コングレス党(NC)もカナルはすぐ辞めるだろうと期待していた。ところが,どっこい,カナル首相は「挙国政府のめど」を口実に,いつまでも辞めない。どうして彼は権力をいつまでも維持し続けることが出来るのか?

一つには,カナル首相がマオイストの本音を鋭く見抜いているということ。CA解散・選挙になれば,マオイストは,現有議席からの大幅減は避けられない。苦しい人民戦争を戦い,ようやく手にした議員の地位と諸特権がすべて失われてしまう――これがマオイスト議員たちの偽らざる本音であろう。

カナル首相は,マオイスト議員たちのこの保身心理を見透かし,マオイストに対する自分の立場を徐々に強化しつつあるように思われる。もはや,操り人形とはいえない。

また他方では,最大野党のNCも,口だけは勇ましいが,実際には党内派閥抗争で政権打倒どころではない。抜きんでた有力な首相候補も見あたらない。

カナル首相は,与野党のこのような実情を見抜き,巧妙に政権を維持し強化してきた。なかなか,したたか。政治家らしくなってきた。

[2]

このカナル首相とよく似てきたのが,菅首相。こちらも,辞任をほのめかしながら,一向に辞めようとはしない。

菅首相は,民主党が解散を何よりも怖れていることをよく知っている。解散・総選挙になれば,民主党議員の相当数が再選されず,おいしい議員諸特権を失ってしまう。保身が先に立ち,解散が怖くて,菅首相を辞めさせられないのだ。

一方,野党自民党も内輪もめばかりで,これといった有力首相候補はいない。ちまたでは,小泉純一郎氏か,小泉ジュニアかなどといったジョーク半分,本気半分の床屋政談が流布する有様だ。

菅首相は,民主党や自民党のこの内実を見抜き,政権維持を図っている。

しかも,菅首相には,脱原発の風が吹き始めた。この風をうまくとらえることが出来れば,政権は再浮上,菅首相の人気もうなぎ登りとなり,21世紀初期の名宰相として歴史に名を残すことさえ夢ではなくなってきた。

[3]

政治家にとって,権力欲は本性だ。菅首相が本物の政治家なら,「政権に恋々」とか「権力にしがみつく」とかいって攻撃されても,蛙の面に水,まったくこたえないだろう。いやそれどころか,むしろ内心では「よくぞいってくれた」と奮い立ち,さらに権力欲を募らせることにさえなるだろう。

政治家にとって権力欲は本性だから,菅首相が権力に恋々としようが,政権にしがみつこうが,それは問題ではない。われわれ人民にとって,いま冷静に考えるべきは,菅首相を辞めさせれば,それは原発維持を願う政財界体制派の思うつぼ,決して現在および未来の人民の利益にはならないということである。

[4]

要するに,いまの「世論」は人々の自然な意見ではないということ。実際には,政財官学エスタブリッシュメントがメディアを総動員して世論をねつ造し,菅おろしを図っているのだ。玄海原発やらせメール事件では,「九電が組織ぐるみで世論を操作していた実態」が明らかになった(毎日7月15日)。しかし,これはあまりにも稚拙,小規模だったため発覚したにすぎない。菅おろし世論はスケールがちがう。いまの「菅おろし」世論は,日本中の政官財学があうんの呼吸で一体となってメディアを使い,合唱させ,巧妙に創り上げたものである。人民は,その空気の中にいてその空気を吸っているので,それが人為的・意図的に創られたものであることに気づかないのだ。

われわれ人民は,たとえば仮にドイツの空気の中に立ってみて,自分たちがいまどのような空気を吸っているかを反省してみるべきだ。そうすれば,いま菅首相を辞めさせるよりも,むしろ菅首相をおだて,もっともっと「政権にしがみつかせ」,その権力欲を利用して,脱原発の大事業を達成させてやるほうが,人民の利益になることが分かるであろう。

そして,もしめでたく脱原発への方向転換が実現されたあかつきには,菅首相には大勲位の名誉を授与する。政治家のもう一つの本性は名誉欲だから。大勲位が始めた原発に,大勲位が幕を引く。これこそ,歴史の弁証法的発展である。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/07/15 at 12:56

カテゴリー: 政治

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マオイストの憲法案(23)

4(17) ダリットの権利,家族に関する権利
マオイスト憲法案第46条はダリットの権利,第47条は家族の権利を規定している。

第46条 ダリット共同体の権利
 (1)いかなる場所,いかなる人にたいしても,カースト,所属共同体,家系,職業を理由とした不可触民扱い,差別,侮辱を行ってはならない。違反は処罰され,被害は賠償される。
 (2)政府,政府系組織,政府系企業の雇用は,人口構成比に応じた比率とする。
 (3)伝統的にダリットの仕事とされてきた職業の近代化。どの職業に就くかはダリットの選択による。
 (4)土地なしダリットへの国家による土地配分
 (5)家のないダリットへの国家による救難所提供
 (6)初等教育から高等教育まで,無償教育および奨学金をダリット生徒・学生に提供。高等技術教育の特別保障
 (7)教育,保健,雇用におけるダリット特恵。所得向上支援
 (8)連邦,州,地域,地区におけるダリットの比例的代表
 (9)公務員,軍,警察へのダリットの比例的雇用と参加
 (10)ダリット集住地区におけるダリットの政治的優遇権。この優遇権は2期で消滅
 (11)丘陵ダリット,マデシ・ダリット,ダリット女性は,それぞれダリット共同体の諸権利を比例的に配分される。

――ダリット(Dalit)は不可触民として差別されてきた人々。「制憲議会選挙法(2007)」では,ダリットには13%(男6.5%,女6.5%)の候補者枠が割り当てられているので,現在の人口比はほぼこれと同じと考えられる。

マオイストは,ダリットを有力な支持基盤の一つとし,その蛮勇によって,彼らの境遇を大幅に改善した。しかし,ダリット差別は社会的に根深く,それゆえ憲法にもこのように詳細に規定せざるをえなかったのであろう。

第47条 家族の権利
 (1)配偶者は1人
 (2)結婚,離婚の自由
 (3)当事者の同意なき結婚の禁止
 (4)家族財産および家族の事柄に関する権利は,両配偶者にある
 (5)育児,教育は両親共同の権利義務。両親を敬い養育するのはすべての子供の共同の権利義務
 (6)(1)(3)の違反は処罰される
 (7)家庭裁判所を各レベルに設置

――家族については,一夫多妻,幼児婚,妻虐待,男児優遇の根深い因襲を念頭に置いた規定となっている。この家族の分野でも,女性,妻,女児の権利向上はマオイストの蛮勇によるところが大きい。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/07/10 at 15:46

カテゴリー: 憲法, 人権

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ビートルズの毒と無法ネットの解毒作用

国民の健全育成を目的とするわが政治学ゼミなのに,学生の1人がビートルズ研究を始めた。ケシカラン!

ケシカランが,民主主義者の私としては,学生の選択の自由と権利は,ゼミの権威と格式を犠牲にしても尊重せざるをえない。

というわけで,ビートルズとはいったい何者か? とネットを見たら,あるはあるは,無数にある。

完全オープンのユーチューブだけでも,60年代のお宝動画から,最新リマスター版まで,よりどりみどり。映像画質はいまいちだが,音質はかつての自宅ステレオ再生EP盤,LP盤よりもはるかによい。アクセス数は数百万回,1千万回にも及んでいる。もはや市販DVDやCDなど,買う必要はない。

ビートルズのような不良音楽を研究する学生もケシカランが,それ以上に,著作権完全無視のネット無法社会はもっとケシカラン。

知も美も万人に開かれてあるべきだが,それは誰でもいつでも安易にタダで入手できるべきだということではない。知も美も,安物はタダでよいが,本物は,入手にはそれなりの敬意を払い,手間とコストをかけるべきものだ。安易垂れ流しネットや、映像・音楽ソフト貸し出し公共図書館は,現代における最大の文化破壊装置といってよいだろう。

で,ビートルズは? ネット垂れ流しのせいで一万分の一以下に希薄化されているが,それでもビートルズは有害有毒のケシカラン不良集団だということがよくわかった。

こんな不良音楽集団が,英国紳士・淑女の顰蹙を買い,米国のF*IやらC*Aに危険集団として警戒されたのは,当然だ。わが日本国でも,公安筋が要注意集団としてマークし,警察は徹底的に国民から隔離した。そして少国民の健全育成を任とする文部省も,全国の学校にビートルズを禁止させた。当時,わが高校でもビートルズをまねた生徒が懲戒処分となった。

そんな危険な不良集団,ビートルズを,国民の健全育成を旨とする由緒正しきわが政治学ゼミで卒業研究として取り上げるのは,まことにもってケシカランことだ。

学生顧客主義を標榜するわが大学では,たとえ学生が不良になろうと,学生自身の選択の自由は尊重せざるをえない。こんなことでは,健全な国民の育成は期待できない。嘆かわしい。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2011/07/09 at 19:45

カテゴリー: 音楽, 情報 IT, 教育, 文化

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