ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

アイデンティティ政治の観念性と現実性

いまネパールで猛威を振るっているアイデンティティ政治は、それ自体は観念的だが、いったん始まると、その否定が観念的となり、そこに参加することこそが現実的となる。まったくもって、やっかい。

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たとえば、「民族州」要求。それぞれのカースト、ジャーティ、先住民族などが、自らの州や自治区を構成し、民族自治をやる。そんなことは不可能であり観念論に過ぎないことは明白であり、民族州を要求している人々自身にもそれはよくわかっているはずである。

しかし、他のカーストやジャーティが民族自決や民族の権利を要求しているのに、自分たちがそれをしないのは、権利の放棄であり自殺行為である。他の集団が集団としての自治や権利を要求したら、すかさず、それ以上の力をもって同様の要求をするのが、現実的である。こうして、アイデンティティ政治は、いったん火がつくと燃え広がる一方で、消しようがない。

このアイデンティティ政治においては、自己のアイデンティティ、つまり集団としての結束が強ければ強いほど、多くの権益を獲得できる。個々人が普遍的な「正義」や「人権」に訴え権利主張しても、ほとんど無意味。正義や人権も、アイデンティティにより集団化されてしまっているからだ。

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たとえば、イスラム教徒。彼らは「全国イスラム闘争同盟(NMSA)」を結成し、イスラム共同体としての権利要求を突き付け、5月20日、政府にその要求をほぼのませた(Republica, May21)。

・新憲法に「イスラム共同体アイデンティティ」を明記。イスラムは、独立した集団としての存在と権利を持つ。
・「憲法設置機関として「イスラム委員会」を設置。
・「マドラサ教育委員会」設置。
・常設「ハジ委員会」設置。
・国家全機関に人口比に応じたイスラム職員枠設定。
・イスラム家族法の承認。
・憲法人権規定に「イスラムの権利」を明記。
・タライの州には、イスラム・アイデンティティを表現する名称を付ける。

たしかに、ネパールのイスラム教徒は、長らく差別されてきた。したがって彼らがイスラム教徒として、あるいはイスラム共同体として、権利要求をするのは当然とはいえる。彼らの権利は、このような方法でしか、実際には獲得されないであろう。その意味で、「イスラム共同体」としての権利要求は現実的であり、現に、先の対政府交渉において、満額回答に近い回答を勝ち取ったのだ。

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しかし、そのことはよくわかるのだが、その一方、こうした集団の権利要求を他の集団も始めたらどうなるか、あるいは「イスラム州」内の他集団はどうなるのか、と心配せざるを得ない。

「全国イスラム闘争同盟」のザキル・フセイン氏は、こう述べている。「もし本日の合意が実行されなければ、断固たる運動を全国で展開する。」

アイデンティティ政治においては、このような「断固たる運動」が取れない集団は敗退する。結局、「各集団の各集団に対する闘争状態」となる。闘うのが集団のため、ホッブズ個人主義の「万人の万人に対する戦争状態」よりもたちが悪い。

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この集団アイデンティティ戦争からどう抜け出すか? 時代遅れを承知で言えば、やはり「普遍」への回帰しかない。「平等な個人」の権利を、国家ないし世界社会が普遍的正義としての法により保障する。ホッブズ復興だ。

今のネパール政治に必要なのは、西洋NGO押し売りの、グロテスクなポストモダンではなく、「近代復興」ではないのだろうか。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/05/22 @ 09:40