ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

Archive for 7月 2012

マオイスト、多民族連邦制へ

プラチャンダUCPN議長が、YCL集会において、単民族(single identity)連邦制ではなく多民族(multi-identity)連邦制を採る方針を明らかにした(Nepali Times, 29 Jul)。

バイダCPN-M議長――UCPNから分離独立――が、訪問先の中国で、中国高官らに連邦制は危険だと警告されたことを受けた発言であろう。やはり中国はプラチャンダ議長の味方らしい。

そもそも、各帰属集団アイデンティティごとに、あるいは各民族ごとに、自治州を作り自決権を与える、という民族連邦制が無茶苦茶。そんなことはできるはずがない。

むろん、被抑圧カースト/民族にとって、自治権/自決権の要求は切実であり、その強硬な要求によって初めて一定の集団的権利が獲得できたことは事実である。これは正当に評価しなければならない。しかし、だからといって、帰属集団アイデンティティごとに州を作るとか、政治的・社会的権利を認めるといったことそれ自体は、非現実的であり危険である。特に問題となるのがタライ。

プラチャンダ議長が多民族連邦制の方針を示したことで、制憲議会選挙のためのNC,UMLとの妥協がなるかもしれないが、一方、タライがこれに反発するのは明白であり、対立の構図が「タライ+ジャナジャーティ(タライ諸党+CPN-M)」vs「体制派(UCP+NC+UML)」へと大きく変化するかもしれない。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/07/31 at 10:33

ゴルカパトラ、ただいま改装中

ゴルカパトラ=ライジングネパールが、7月中旬から全く更新されず、どうしたのかな、政変の前兆かな、と不審に思っていたら、やはり例のごとく改装中であった。

他の国であれば、ホームページの改変の際は、必ず旧ページにその旨の案内を出し、新ページへとリンクする。わが零細HPですら、そうしている。

ところが、ゴルカパトラに限らず、ネパールではそんな利用者への配慮など、全く眼中にない。自分たちで勝手に新ページを作り、バクだらけ、穴ぼこだらけであろうが、平気でアップロードしていく。見たければ探せ、変だと思っても直るまで待て。

顧客本位の正反対、お役所仕事が社会全体にあまねく浸透している。見事というほかない。国の経済規模は小さいが、顧客神様主義の日本サービス業が本気で進出すれば、成功間違いなしだ。脱サラに、ネパールで一旗揚げてみるのはいかがであろうか?

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/07/30 at 12:00

制憲議会選挙に国際支援はあるか?

政府は,27日,制憲議会選挙関係法令を閣議決定し,大統領の認証を得ることにした。具体的な内容は不明。

この制憲議会選挙法の方は,ヤダブ大統領の認証を得れば,政令(ordinance)の形で通すことは可能だ。大統領は与野党合意がなければ認証できないといっているが,議院内閣制の下,大統領が内閣の助言を拒否するとすれば,これはこれで別の問題が生じる。

しかし,暫定憲法の改正は,そうはいかない。先述のように,憲法改正権限をもつ議会が存在しないからだ。いったい,どうするつもりだろうか? 切り札,ジョーカーたる第158条の「憲法上の困難を除去する権限」を使うつもりだろうか? 使えば,ますます非民主的となり,国王親政と変わらなくなる。

もちろん,主権は「人民」にあり,憲法制定権力は「人民」のものだ。しかし,その「人民」は,どこに存在するのか? 与党(UCPN+マデシ戦線)と野党(NC,UML,CPN-M等)の合意といっても,選挙はすでに4年以上も前のこと,しかも状況は当時とは大きく変化している。与野党合意がなっても,到底,現在の「人民」の総意とは言いがたい。既得権益の「談合」以上のものではない。

最近,訪ネしていないので,実情は正確には分からないが,ネットなどで見る限り,国際社会の関心も大きく低下している。既得権益のための談合選挙のようなものに,国際社会の支援が得られるだろうか? はなはだ疑問である。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/07/29 at 22:00

カテゴリー: 選挙, 憲法

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民族連邦制と国家の生体解剖

1.連邦制に中国が警告
連邦制原理主義のバイダCPN-M議長が,訪問先の中国で,中国高官らから,連邦制は国家の統合と独立を危うくする,と警告された(Republica, 27 Jul)。

中国は,ネパールが連邦制になると,タライがインドに接近し,いずれシッキム化し,インド支配下に入ることを恐れているのだろう。

この中国の,中国国益に基づく警告について,バイダ議長は,帰国後、こうコメントした。

われらは,アイデンティティに基づく連邦制を主張している。国家統合を害するような連邦制をわれらも望んではいない」(nepalnews.com, 26 Jul)。

このバイダ議長のコメントは,大甘である。中国は,宗教,言語,人種など,要するに民族アイデンティティを唱えることが国家統合にとっていかに危険かを,いやというほど経験してきたからである。むろん,だからといってチベット弾圧が許されるわけではないが,少なくとも,そうした背景をもつ中国のアイデンティティ連邦制への警告が,経験に裏付けられた重い忠告であることはいうまでもあるまい。

2.アイデンティティ政治の知的稚拙さと政治的危険性:A・セン

アイデンティティ政治の危険性は明白であるにもかかわらず,バイダ議長を始めとする多くの優れた指導者たちが,易々とその罠にはまってしまうのは,なぜか? この問いに,アマルティア・セン『アイデンティティと暴力』(勁草書房,2011)は,次のように答えている。

「人がもつ多様なアイデンティティから一つだけをとりあげて,その観点からのみその人を見ることは,知的な行為としてはたしかにひどく稚拙なものだ。それでも,その効果のほどから判断すると,単一基準というつくりだされた妄想をやすやすと擁護し推進できるのは明らかだ。」(242-3頁)。

知的に稚拙だから簡単に手を出せ,しかもその効果は絶大だから,政治家はついその誘惑に駆られてしまう,というわけだ。

3.ガンディーのアイデンティティ政治批判
アイデンティティ政治批判について,A.センが共感を持って言及するのが,ガンディーである。

「一つの国を共同体の連合として見なし,個人は国に属する以前に,そうした共同体に属すると考えることの基本的な難点は,[インドとイギリスの]どちらの場合にも見られるのだ。ガンディーは,そのような共同体中心の単一的な帰属化を助長し,優先させることを,国民の『生体解剖』と呼んだ。そのような派閥化を政治的に憂慮すべきなのは当然である。」(250頁)

4.「国民」の生体解剖
ガンディーは,イギリスがインド国民をカースト別あるいは宗教別・民族別に区分し、相互対立を煽り、これにより分割統治してきたことを厳しく批判した。

全国民が生体解剖され、バラバラにされるところを想像してください。そこからどうやって一つの国をつくりあげられるでしょうか?」(ガンディー,同書233頁)

センは,このガンジーの立場を,「国を宗教と共同体の連合として見なすことを拒否する慧眼」(234頁)と,高く評価している。

5.アイデンティティの多様性と選択の自由
センは,集団帰属やアイデンティティ意識の重要性は決して否定しない。批判されるべきは,一人の人であってもアイデンティティは本来多様なはずなのに,その中の一つだけにより人や社会を見る見方,あるいは「夜間に航行する船のように,互いにすれ違うだけの文化の多様性が存在する」複数単一文化主義(217頁)である。

われわれが多様多元的なアイデンティティをもつことは明白であり,したがって大切なのは,その多様性を保持しつつ,それらの中の優先順位や比重を自ら決定できる自由である。

「人には多くの異なった帰属関係があり,お互い実に様々な方法で交流しうることを明確に認識しなければならない。われわれには自らの優先事項を決める余地があるのだ。」(5頁)

このアイデンティティ選択の自由を保障するのが国家である。したがって、国家は「隔離された部分の寄せ集め」(228頁)ではなく、それ以上の属性と機能をもつものである。

「国家国民(a nation)を隔離された部分の寄せ集めと見なすことは、とてもできない。国民(citizens)は、あらかじめ定められた区分のどこかに位置づけられ固定されているわけではない。」(228頁、ただしこの部分は拙訳)

センはネパールについては述べていないが,こうした議論からすれば,バイダ議長のような連邦制論については,おそらく批判的であろう。

ネパールの現在の連邦制論は,まさしく「複数単一文化主義」であり,「国家を隔離された部分の寄せ集め」とするものに他ならない。

(注)
国民の生体解剖 ”vivisection” of a nation
複数単一文化主義 plural monoculturalism
(国家を離れた)部分の寄せ集め a collection of sequestered segments

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/07/28 at 14:44

カテゴリー: 民族, 民主主義

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無議会政治における正統性の危機

プラチャンダ議長やバブラム首相が制憲議会選挙の先送りを唱え始めた。理由は金欠と法欠。

1.暫定予算
マオイストは,通年本格予算を目論んだが,結局,三分の一の暫定予算しか通せなかった。通常の行政経費と継続事業のみ。

制憲議会選挙の30億ルピー,PLA戦闘員給付金37億ルピー,国軍改編30億ルピー,そしてダリットや女性のための教育・社会事業費など,すべて断念せざるをえない。マオイスト政府は,大統領政令により強引に通年予算を通そうとしたが,さすがにこれは無理だった。暫定予算で金欠になると,国軍からばかりか身内のPLAや支持下層民からも非難攻撃される。

制憲議会選挙は,もちろん実施できない。国際社会はしらけきっており,今度は大して支援はしないだろう。日本だって,カネは出すまい。(前回,お祭り騒ぎで贈与したプラスチック投票箱,パソコン等々がどうなっているのか,ぜひ追跡調査し,写真付きで報告していただきたい。)

選挙民主主義なんか,イラク,アフガンを見れば分かるように,せいぜいこの程度のもの。欧米も,もはや選挙原理主義を押しつけはしないだろう。押しつければ,カネを出さざるをえなくなるから。

2.法の欠如
制憲議会選挙は,法的にも,困難だ。暫定憲法第83条によれば,制憲議会は立法議会としても機能する。制憲議会はキメラのようなものだ。

その制憲議会が,5月27日,あとのことは何も決めないまま,消滅してしまった。では,立法議会の方はどうなるのか? 消えていないという解釈もあろうが,両議会は一つの議会の両側面にすぎないから,やはり消えたと考えるべきだろう。その結果,ネパールはいま無議会状態となっているのである。

さてそこで,制憲議会選挙。最高裁命令によれば,制憲議会選挙には,憲法と関連法令の改正が必要である。憲法改正は,もちろん議会において行われる(第148条)。ところが,憲法を改正すべき議会は,すでに消滅してしまって,存在しない。つまり,憲法改正が必要な制憲議会選挙は,議会不在のため憲法改正ができず,法的に実施不可能だというわけである。

暫定憲法は,はしごを外され宙に浮いている。政府は身動きがとれない。どうにもならない。雪隠詰めだ。

もちろん,暫定憲法第158条には「困難を除去する権限」の規定がある。大統領が,内閣の助言に基づき,憲法上の困難を除去するという権限だ。しかし,これはかつて国王が乱用した大権的権限であり,もちろん非民主的で,極めて危険である。よほどのことがない限り,使用はできまい。

このように,制憲議会選挙は,予算だけでなく,法的にも,実施が極めて困難な状況にあるのである。

3.正統性の危機
無議会のネパール政治は,かつての王政危機のとき以上に深刻な,正統性の危機に瀕している。

そもそも首相は,暫定憲法第38条によれば,立法議会の議員でなければならないが,議会はすでにない。首相の正統性からして疑わしい。その首相が,議会の承認なしに政令で予算を組むのは,たとえ暫定とはいえ,正統性に欠ける。同意なき課税は,専制そのものである。

いまのネパールは,制憲議会選挙すらできない。統治の正統性そのものの危機といってよいであろう。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/07/26 at 15:57

カテゴリー: 選挙, 議会, 憲法, 民主主義

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マオイスト中央委解散,全党大会開催へ

マオイストは,第7回中央執行委員会において,全党大会を2013年2月中旬に開催することを決定した。現在の中央執行委員会は解散し,全党大会組織委員会が大会を準備する。

しかし,なぜいま解散なのか? マオイストは制憲議会選挙を最重要課題とし,選挙日は11月22日に予定されている。本来なら,中央執行委員会解散の余裕はないはずなのに,あえていま解散せざるを得なかったのは,おそらく党指導部批判が高まり,ガス抜きが避けられなくなったからであろう。

マオイスト党員の間では,革命食い逃げに余念のない幹部たちへの批判が高まってきた。いまやマオイストは最も豊かな金満政党であり,幹部たちは役得の積み上げに余念がない。

筆頭は,もちろんプラチャンダ議長。王様サイズ寝台に始まり,海外豪遊,豪邸(月10万ルピー),トヨタSUVなど,黄金まみれだ。

私自身は,プラチャンダはネアカ豪傑で嫌みがなく,まぁいいんじゃない,と思うが,上前をはねられた党員たちは,そう寛容にはなれなかったらしい。ケシカラン,自己批判せよ,ということになり,プラチャンダは,豪邸とトヨタSUVを返却し,他の個人財産も党に寄付することにした。えらい! さすがわれらがプラチャンダだ。

それではと,バブラム・バタライとNK・シュレスタ両副議長もプラチャンダに習い同じようにすることになったが,こちらは二番煎じ,かっこよくない。

しかし,よく考えると,党はプラチャンダのものだから,個人財産を党に寄付しても,自分への寄付であり,どうということはない。両副議長にしても同じようなことだろう。

これはしかし,問題の本質ではない。マオイストにとって,本当の問題は,議長・副議長らよりも,むしろ制憲議会議員や人民解放軍中間幹部らの役得にある。役得で甘い汁を吸い,平党員や兵卒の上前をはね,さんざん搾取した彼らの不当利得には,おそらく手はつけられないだろう。たとえプラチャンダ,バブラムらが失脚するとしても,マオイストの腐敗・搾取構造は不変だ。首のすげ替えに過ぎない。

マオイストは大政党だから,他の大きな組織と同じく,リーダーにはカリスマが不可欠だ。カリスマの基礎は実力だが,それだけでは弱い。実力には華やかな飾りがいる。

王様サイズ寝台も10万ルピー豪邸もトヨタSUVも,あるいは海外豪遊も,そうしたカリスマの飾りだ。いいではないか,その程度のこと。そのくらいのことでカリスマが引き立ち,統治がうまくいくのなら,安いものだ。

本当の問題は,そこにではなく,むしろ量的には搾取の圧倒的部分を占める中間幹部層の腐敗にある。これが組織を幹から腐らせている。マオイスト組織の官僚制をどう合理化していくか,マオイストの党としての課題はここにある。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/07/24 at 20:28

構造的暴力としての原発:堀江邦夫『原発ジプシー』

1.現場ルポ『原発ジプシー』
原子力発電所の保守作業は,想像を絶する過酷労働だ。私には,小中学生のころは農作業,16-18歳のころは工場労働の体験がある。田植えや収穫の農作業は苦しかったし,また工場では粉塵のなかで油と汗にまみれ,切り傷や火傷も絶えず,こちらも辛かった。しかし,堀江邦夫『原発ジプシー』(現代書館2011,初版1979)の描く原発保守作業は,そのような農作業や工場労働とは比較にならない,別次元の過酷さだ。

堀江氏は,孫請け,ひい孫請けの非正規労働者として原発保守作業に従事,そこで自ら体験したことを,本書において逐一詳細に記述している。その叙述は明快であり,自らをも対象化する冷静で客観的な,見事な現場体験ルポとなっている。

2.三原発で下請け労働
堀江氏は,1978-79年,原発下請け企業に雇用され,美浜(1978.9.28-12.2),福島第一(1978.12.19-1979.3.15),敦賀(1979.3.21-4.19)の三原発で,保守作業に従事した。

作業環境は極度に悪く,堀江氏もしばしば体調不良となり,福島第一ではマンホールに落下,肋骨骨折の重傷を負う。それでも,堀江氏はなおも作業員を継続,1979年3月には故障・事故続きの「悪名高き」敦賀原発に移り,劣悪な労働環境を身をもって体験した。

このようにして,堀江氏は体力の限界寸前まで現場労働者として働き,1979年4月中旬,実地調査を終了した。そして,その現場体験をまとめ,1979年9月出版したのが,本書である。

3.構造的暴力としての原発
本書は,30年以上前の出版であるが,2011年の福島原発事故以来,連日報道されるようになった原発の諸問題の多くについて,すでに具体的に詳しく説明し,その危険性を鋭く指摘している。たとえば,保守点検を考慮しない設計上の欠陥,劣悪な作業環境,電力会社-関連大企業-下請け-孫請け-ひい孫請けといった不健全な上下関係,原発への地元依存など。

本書の記述は,すべて著者自身が身を挺して収集した具体的な事例に基づいており,十分な説得力を持つ。しかも,ばらばらの個別事例の羅列ではなく,それらを通して根底にある原発問題の構造を浮き彫りにすることによって,問題の本質そのものを鋭く摘出している。著者自身の言葉ではないが,それは,いわば「構造的暴力としての原発」の告発である。本質を突いているという点で,本書は間違いなくジャーナリズムの古典である。

4.朝日「被爆線量偽装」報道の浅薄さ
これに対し,朝日新聞の被爆線量偽装報道は浅薄である。7月21日,朝日は,福島原発における被曝線量偽装を,1面,2面などで大々的に報道した。下請け企業が,作業員に命令し,線量計に鉛カバーをつけさせ,被曝線量を少なく見せかける偽装工作をしていたというのである。

しかし,堀江氏の『原発ジプシー』を読めば,この種の被爆線量偽装がどの原発でも日常的に行われてきたことは明白だ。

それは,原発関係者の身分差別構造に組み込まれている。被曝線量は,電力本社員が最小で,一次下請け,二次下請けと増加していき,末端はどうやら外国人労働者ということらしい。許容被曝線量は形式的には定められていても,作業現場に近づくほど,つまり「原発階層制」の下位に行くほど,実際にはそれを守ることは不可能であり,したがってそこでは線量偽装が行われる。

本書には,そのような被曝線量偽装の具体例が無数に出てくる。特権階級たる電力本社員がそれを知らないはずはない。制限線量内では作業はできないことを知りながら,作業を命令する。そして,現場作業員が,命令された作業をするためやむなく線量偽装をしても,それを見て見ぬふりをする。つまり,被曝線量偽装は,電力本社が暗黙のうちに命令しているのであり,真の責任は下請け企業や現場作業員ではなく,電力本社にある。

5.ジャーナリズム偽装の朝日
一方,朝日新聞をはじめとする大手ジャーナリズムは,被曝線量偽装が構造的であり,日常的に行われてきたことをよく知っていながら,巨大広告主たる電力会社を恐れ,報道してこなかった。

世間が騒ぎ始めた今頃になって,現場では常識となっていることを,あたかも新発見の特ダネであるかのように見せかけて報道し,小銭を稼ごうとする。なぜもっと早くから報道しなかったのか。報道しないよりはマシではあるが,こんなものは,到底,本物のジャーナリズムとはいえない。

6.プロとしてのジャーナリズム
原発は,日本の構造的暴力の一つである。都市-地方,電力本社-関連大企業-一次下請け-二次下請け-三次下請け・・・・。この上下階層構造において,収入は上方に行くほど大きくなり,被曝線量は下方に行くほど大きくなる。賃金の上前ハネは常識であり,被曝線量偽装も常識である。

その常識をいち早く,事実に基づき客観的に叙述し,原発ビジネスの構造的問題にまで切り込んだのが,堀江氏の本書。常識であるにもかかわらず,多くの人が知らないことにしていること,あるいは見れば見えるのに,見ようとしないこと,そうしたことを知らせ,見せるのが,本物のジャーナリズムだ。

世間の尻馬に乗り,わかりきったことを,大げさに,センセーショナルに,はした金のために報道するのは偽ジャーナリズムである。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/07/23 at 00:00

カテゴリー: 社会, 文化,

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