ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

職業としての外交:佐藤優「獄中記」

うつうつなるままに,佐藤優「獄中記」(岩波2006)をながら読みした。キリスト教リアリストの強靱さに,多少たじろぎつつも,感心しきり。

佐藤は,同志社大学神学部終了後,外務省に入り,在露大使館勤務を経て国際情報局主任分析官となったが,2005年5月鈴木宗男事件に絡む「支援委員会をめぐる背任」と「北方領土にからむ偽計業務妨害」の容疑で逮捕され,512日間拘留された。2009年7月,懲役2年6月執行猶予4年が確定。

本書は,その拘留中の獄中記。カバー・キャプションによれば――
 「接見禁止のカフカ的不条理のなか,外交官としての死を受け入れ,神との対話を続けながら世捨て人にならず,嫉妬もせず,裏切らず,責任転嫁をせず,転向もせず,人間としての尊厳を保ちながら,国家公務員として国益の最大化をはかるにはいかにすべきか? この難題に哲学的ともいうべき問いによって取り組んだ62冊の獄中ノートの精華。」
宣伝文だが,本書の要点をよくまとめている。

佐藤は,この事件は「国策捜査」だという。一般に捜査は,実行された犯罪事実(事件)を調べ,真実を解明し,処罰することを目的とするが,国策捜査はそれとは根本的に違う。国策捜査は,ある政治的思惑(政治目的)によりターゲットを決め,それにあわせて事件をつくり出し,捜査・訴追・断罪により,所期の政治目的を達成する。ただし,誤った捜査により無実の者を捕らえ,真犯人とし処罰する冤罪とは異なる。国策捜査は「政治ゲーム」であり,鈴木・佐藤逮捕もそうした国策捜査の一つであった。

鈴木・佐藤をターゲットとする国策捜査は,日本政治のパラダイム転換により要請されたものである。鈴木・佐藤は,ケインズ型公平分配/国際協調愛国主義に基づき対露外交を進めてきた。これに対し,日本政治はハイエク型自由主義/自民族中心ナショナリズムへとパラダイム転換していき,前者が邪魔になった。

そこで,政治的に必要とされたのが,この事件であった。旧パラダイムのなかの鈴木・佐藤がターゲットとして選ばれ,それにあわせて事件がつくられ,逮捕・起訴となったのである。

この国策捜査に対する佐藤の闘い方は,特異なものである。まず,国策捜査そのものを否定し体制外から闘うことは,しない。
 「体制の内部で,国策捜査の必要性を認めた上で,現在の日本国家のメカニズムが抱えている問題点をその構造にまで踏み込んで解明していくことです。」(85頁)
外在的批判ではなく,内在的批判。たしかに,批判としては内在的批判の方が本物だが,これは厳しく,難しい。それを佐藤は国策捜査についてやるというのだ。

佐藤の基本目標は,自らの供述調書を「歴史の検証に耐えうるもの」(66頁)とすること,外交・インテリジェンスの掟を守り自己の「正統性」(57頁)を論証すること,自己のプライドではなく「国益のために外務省で私が作ってきた『こと』と人材を保全」すること(501頁)である。

佐藤によれば,特にエリートは,逮捕・勾留されると,自己のプライドや保身を考え,内側から崩れていく。検察に,これを認めれば保釈するなどといわれ,いったん応じると,ズルズル検察ペースに引き込まれ,検察の描くストーリー通りの供述調書を作らせてしまう。

これに対し佐藤は,自らのプライド,保身ではなく,国益と外交・インテリジェンスの掟を拠り所として,自らの国策捜査を「歴史の検証に耐えうるもの」にしようとするのだ。

この観点に立つと,佐藤は鈴木・佐藤の対露外交は誤りではなかったと考える。国際協調愛国主義の方が自国中心ナショナリズムよりも,外交方針としては妥当だ。

しかし,これは国家の外交方針の選択の問題。それよりも,佐藤にとって直接的な問題は,そのときの国家の基本方針に従い外交・インテリジェンスを担当してきた者を,政策転換後,経済犯=破廉恥罪として国策捜査し断罪する一方,それにあわせて「歴史の書き換え」をすることの方だ。

国家の基本方針に従い,現場でときどきのリスクをとりつつ,国益のために誠実に行動してきた者を,基本方針(パラダイム)転換の都合のために,その行為を犯罪,しかも破廉恥罪として訴追するというような国策捜査。もしそのような国策捜査が認められるなら,外交官は自己保身を考え,リスクをとって行動しなくなり,日本外交は不作為体質に侵されてしまう。政治,特に外交においては,不作為は,多くの場合,国益を大きく損なうものだ。

佐藤は,自らの逮捕がパラダイム転換による国策捜査であり,したがってそれは「政治ゲーム」の一局面であること,また国策捜査であるから捜査は政治構造の根幹にまでは及びえないもの,つまり経済犯のような破廉恥罪として矮小化されざるをえないこと,そうしたことを十分理解した上で,その国策捜査と闘っている。わかった上で闘っているが,それゆえに,そこがちょっとわかりにくい。必要性を認めながら,なぜ闘うのか?

また,逮捕・勾留となれば,普通は,オタオタし,あれこれ迷い,悩むはずだが,佐藤にはそれは全くない。本書の魅力である反面,ちょっとついていけないなぁ,という感じもする。

この佐藤の強さはどこからくるのだろうか? 一つは,いうまでもなく,外交のプロとして,多くの修羅場をくぐり抜けてきた経験によるものだろう。政治,特に外交には,その時々の状況のなかで適切果敢に決断する能力が,不可欠だ。

しかし,その経験の底にあるのは,やはり信仰であろう。神への誠実が,修羅場での決断の勇気を支える。あとでどのような責任を問われることになるにせよ,つねに神が見ている――これは強い。

佐藤の「職業(Beruf)としての外交」への信念,「結果責任」への誠実さは,よくわかり高く評価するが,ちょっとついていけないなぁ,と感じるときがあるのは,おそらく私には神を信じるだけの強さがないからであろう。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/07/15 @ 14:26

カテゴリー: 外交, 宗教, 政治,

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