ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

Archive for 9月 2012

IE8からChromeへ

WinXPパソコンでIE8を使用してきたが、ネットサイトがIE9対応に移行し、IE8は使用しづらくなってきた。そこでIE9に切り替えようとしたら、XPでは使えないとのこと。XPパソコンは問題なく使用できているのに、なぜIE9をXPに対応させないのだろうか?

そこでIE8をあきらめ、Chromeを見ると、こちらはちゃんとXPにも対応している。IE8ではアクセスできなくなったネットサイトも問題なく閲覧できる。しかも無駄がなく軽快。

これはマイクロソフトとグーグルの戦略の差であろう。グーグルには、あらゆる情報をかき集め、蓄積し、利用する凄さと恐ろしさがある。Chromeでも、どうやらブックマークなどの個人情報をグーグル側に保存する設定になっているらしい(選択は可能かもしれないが)。

IE9をWinXPに対応させることなど簡単なはずなのに、マイクロソフトはそれをせずXP使用者を切り捨てる。これじゃ、グーグルに負けるのもしかたあるまい。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/09/30 at 17:40

カテゴリー: 情報 IT

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人民解放軍解体,9月末完了

The Himalayan Times(27 Sep)によれば,マオイスト人民解放軍の解体手続きがほぼ完了し,9月末までには全国28駐屯地のすべてが国軍または武装警察隊への引き渡し,あるいは閉鎖とされることになった。

人民解放軍は,停戦当初は32,250人が登録され,各地の駐屯地に収容されたが,UNMIN審査の結果,19,602人が有資格戦闘員として認定された(2007年5月)。未成年者,後年参加者などの無資格者は2010年初までに駐屯地から退去。

駐屯地収容戦闘員の実数は,収容長期化とともに減少し,2012年初には17,076人となっていた。

この17,076人のうち,国軍統合委員会の審査により有資格と判定されたのは,最終的に,3,123人となった。残りの13,922人は給付一時金付き任意除隊,6人が社会復帰プログラム選択。(総計が合わないが,詳細不明。)

これで名実ともに,ネパール共産党毛沢東主義派(旧CPN-M)の人民戦争は終了する。今後,注視すべきは,プラチャンダ=バブラム派マオイストから,その本来の党名CPN-Mを継承したバイダ派マオイストが,人民戦争路線をも継承するかどうか,ということ。

戦闘経験豊富な人民解放軍兵士多数が帰郷し,生活苦に陥り,バイダ派マオイストに合流し,新人民戦争を開始することは十分に考えられる。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/09/29 at 11:01

文化と「表現の自由」:インド映画禁止運動

1.CPN-Mのインド映画禁止運動
マオイスト左派のCPN-M[バイダ派マオイスト]が,9月26日,「下劣なインド映画」とインド車両の全面禁止を宣言した。すでにCPN-Mは,影響下の自称「タムサリン州」の10郡(チトワン,マクワンプル,ダディン,シンドパルチョーク,カブレなど)において,インド車両の通行を実力阻止し,インド映画・インド音楽の上映や放送を禁止している。26日の発表は,このインド映画・インド車両排除運動の全国への拡大宣言である。

この決定のうち,インド車両の禁止は,分からないわけではない。インド登録車両がどの程度ネパール国内に入り使用されているか正確には分からないが,相当数使用されていると思われ,もしそうなら独立国家ネパールの政治と経済にとって,これはゆゆしき問題であり,何らかの規制は当然といえよう。

2.CPN-Mはアナクロ全体主義か?
これに対し,インド映画禁止は,「知る権利」や「表現の自由」の真っ向からの制限であり,賛否が分かれる。CPN-Mのパンパ・ブサル報道担当は,こう述べている。

「インド映画はネパール国家とネパール人民を侮蔑し,卑猥を助長し,文化汚染を広めるものだ。それゆえ,わが党は,インド映画を禁止することにした。」(nepalnews.com, 26 Sep)

これに対し,統一共産党(CPN-UML)は,「幼児的敵対行為」と批判し,コングレス党(NC)やマデシ諸党派も同様の理由により強く反発している。

たしかに,「表現の自由」や「知る権利」の世界的常識からみると,CPN-Mのインド映画禁止運動は非常識であり,時代錯誤の極左全体主義といわざるをえない。CPN-Mは,各方面からの激しい非難を受け,すべてのインド映画が反ネパール的というわけではないので,「反ネパール的映画か否かを判定する独立機関を設置する」(Republica, 27 Sep)ことにより,有害でないインド映画は上映を許可するようにしたいと説明しているが,これとて権力による「検閲」であり,見方によれば,全面禁止よりも危険といわざるをえない。

こうしたことは今日では自明のことであり,人権論の初歩である。CPN-Mは,そんなことも知らないアナクロ全体主義政党なのだろうか?

 ネパールの映画館

3.権利の形式的保障の弱点
西洋諸国や日本の人々の多くは誤解しているが,ネパール・マオイストは人権論や民主主義論の最新の動向をよく知っており,したがって「表現の自由」や「知る権利」についても十分な知識を持っている。CPN-Mは,そんなことはわかった上でインド映画全面禁止を決定,実力をもってそれを全国実施させようとしているのである。なぜか?

それは,CPN-Mが,自由や権利の形式的保障は強者ないし多数派の側に有利であり,実際には弱者や少数派にとっては何の権利保障にもならないことをよく知っているからである。

CPN-Mの支持基盤はジャナジャーティ(少数派民族諸集団)である。これらの民族諸集団は,それぞれ独自の言語や文化をもっているが,それらは1990年革命が成功し自由民主主義体制になっても,多数派言語・文化との自由競争にさらされるばかりで,実際には保護されることなく衰退一方であった。

そして,自分たちの言語や文化の衰退は,その社会での民族としての存在の希薄化と表裏一体であるから,少数派諸民族は1990年憲法体制のもとで実際には民族としての自律性をも喪失していくことになった。言語や文化の自由競争,すなわち「表現には表現をもって」とか「言論には言論をもって」といった自由や権利の形式的保障こそが,少数派民族の危機をもたらしているのである。

4.民族の権利の実質的保障
だからこそ,CPN-Mは,民族の言語や文化,自由や権利は,実質的に保障されなければならないと考えるのである。

たとえば,1990年憲法(第18条)でも2007年暫定憲法(第17条)でも,母語による初等教育が保障されているが,自由な選択と競争に任せておけば,少数派言語を学んでも社会ではほとんど役に立たないから,親たちは,結局は,多数派言語のネパール語か,あるいは可能ならば「世界共通語」の英語を選択することになり,少数民族の言語や文化は衰退してしまう。形式的保障では,少数民族の自由や権利は守られないのだ。

CPN-Mが,ネパール文化を守るためインド映画を禁止する決定をしたことには,したがって十分な根拠がある。自由競争にゆだねると,大国インドの映画やTV番組が弱小国ネパールを席巻してしまい,ネパール語文化や諸民族語文化の衰退は免れないからだ。

CPN-Mは,断じてアナクロではない。むしろ,日本などより先行しているくらいだ。もし少数派諸集団の言語や文化,自由や権利を本気で守ろうとするなら,多数派有利の「表現の自由」や「知る権利」は制限されなければならない。

5.近代市民社会の常識と現代多文化社会
しかし,こう言ったからといって,「表現の自由」や「知る権利」が,民主主義や人格形成にとって必要不可欠の権利であることまで否定するわけではない。権力や多数派の側の情報のウソや偏向を暴き,人権を守り民主主義を前進させるためにも,また個々人の人格形成や文化発展を図るためにも,「表現の自由」や「知る権利」は最大限保障されなければならない。言論・映像・音楽など,あらゆる「表現」については,表現をもって応答し,権力や暴力で黙らせるといったことは許されるべきではない。近代市民社会では,これは常識であって,こんなことを言うのは蛇足にすぎない。

しかしながら,世界社会における少数派,多文化国家における少数派の実情を見ると,「言論には言論をもって」とか「表現には表現をもって」といった市民社会の常識が,深刻な反省を迫られているという感じがしてならない。ネパールでは,多くの少数派言語,少数派文化が,言語・言論・表現の形式的保障による自由競争のもとで衰退し,消滅しつつある。

これは余所事,他人事ではない。たとえば,日本語。以前,水村美苗『日本語のために』の紹介(下記参照)でも述べたが,このままでは日本語は「世界共通語」としての英語との自由競争に敗れ,衰退は免れない。親は日本語よりも世界に通用する英語を学ばせようとし,企業はグローバル競争に勝ち抜くため,英語を企業公用語にしてしまう。こうなると,日本社会において,一流言語=英語,二流言語=標準日本語,三流言語=他の諸言語,といった言語カースト制が成立する。これは魂=精神のカースト制であり,日本社会には深い亀裂が入り,修復は困難となるであろう。

言語・文化の自由市場競争による淘汰は,日本ではまだ緩慢にしか進行せず,激しい自覚症状は現れていないが,日本の100年の変化を数年で経験しているネパールでは,言語も文化も形式的権利保障だけで自由市場競争に投げ出されたため,相対的少数派の言語・文化から次々と衰退し消滅していっている。そして,こうした言語や文化の衰退は,その言語や文化をもつ民族の実質的な社会的地位の没落でもあるのだ。

6.ポストモダンのマオイスト
この少数派諸民族にとって酷な現実を見て,実力をもって多数派の言語や文化と対抗しようとしたのがプラチャンダの旧マオイストであり,旧マオイストの体制内化後は,現在のCPN-Mである。

CPN-Mのインド映画禁止運動は,乱暴ではあるが,多数派が見ようとはしない「表現の自由」や「知る権利」の多文化社会における問題点を鋭く突くものであることは間違いない。時代錯誤のアナクロ極左全体主義と冷笑して済ますことはできようはずがない。マオイストこそ,ポストモダンの前衛なのだ。

[参考資料]
・”CPN-Maoist declares nationwide ban on Hindi movies, Indian plate vehicles,” nepalnews.com, 26 Sep.
・”CPN-Maoist’s anti-India rant earns severe criticism,” The Himalayan Times, 26 Sep.
・”CPN-Maoist bans Hindi movies, Indian plate vehicles,” Republica, 27 Sep.
書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(8), 2009/06/16
書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(7), 2009/06/15
書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(6), 2009/06/14
書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(5), 2009/06/13
書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(4), 2009/06/12
書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(3), 2009/06/11
書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(2), 2009/06/10
書評:水村美苗『日本語が亡びるとき』(1). 2009/06/09

谷川昌幸(C)

宗教と「表現の自由」:ヒンドゥー教冒涜事件

1.信仰と「表現の自由」
世界ヒンドゥー協会(WHF)のネパール急進派・ヘムバハドール・カルキ(Hem Bahadur Karki)派が,9月11日カトマンズ市内の画廊に押しかけ,ヒンドゥーの神々を冒涜したとして,画家マニシュ・ハリジャン(Manish Harijan)を殺すと脅迫した。

「表現の自由」は世界的に確立された権利であり,ネパール暫定憲法第15条でも明確に保障されている。カルキ派によるハリジャン脅迫は,「表現の自由」への暴力による攻撃であり,それ自体,許されるべきものではないが,一方,「表現の自由」も無制限ではなく,他の自由や権利を侵害しないための規制ないし権利間の調整が避けては通れないこともまた事実である。

これは,今回のような宗教との関係においては,特に難しい,やっかいな問題となる。人が熱心に,誠実に信仰すればするほど,信仰対象は神聖なものとなり,みだりに論評してはならないもの,タブーとなる。一方,表現は,様々な形で隠れているもの,隠されているものを顕わにすることをもって,その本質とする。したがって,宗教についても,信仰により信仰対象が神聖化されればされるほど,表現はそこに関心を持ち,秘密の暴露ないし顕在化への意欲をそそられることになる。

これは,本質的な対立である。不可知なもの,あるいは知るべきではないものへの心情的な「不合理な」信仰と,タブーをタブーであるからこそ暴こうとせざるをえない世俗的な「合理的な」表現の自由とは,結局は,両立しないと考えざるをえない。

2.イスラム教と「表現の自由」
現在,信仰と「表現の自由」が最も激しく対立しているのが,イスラム教に関してである。『悪魔の詩』(1988)事件では,著者ラシュディはホメイニ師により死刑宣告を下され,いまでも330万ドルの報奨金がかけられている。日本語版訳者の五十嵐筑波大学助教授は1991年,大学内で何者かに殺害されてしまった。

2005年には,デンマーク紙掲載のムハンマド風刺画がイスラム教冒涜とされ,デンマーク大使館などが襲撃された。

そして,この9月には,アメリカで制作されたムハンマド風刺映像がネットに掲載され,世界中で大問題になっている。中東,東南アジアを中心に世界各地で反米デモが拡大,リビアのベンガジでは米領事館が襲撃され,米大使が殺害された。戦争にすらなりかねない深刻な事態である。

そのさなか,フランスでもムハンマド風刺画が雑誌に掲載され,激しい反フランス・デモが世界各地で勃発,フランス政府は,在外公館や仏人学校の閉鎖に追い込まれている。

信仰と理性,聖なるものへの服従とタブーなき批判の自由――これら二者は,いずれも人間存在にとって不可欠のものであり,いずれがより根源的,より重要ともいえない。比重の置き方は人それぞれ,生き方の問題というしかない。イスラム教と「表現の自由」の対立は,その人間性の根源にある問題の現代における最もラジカルな顕在化であり,解決は容易ではないと覚悟せざるをえない。

3.ヒンドゥー教と「表現の自由」
この問題がやっかいなのは,火をつけやすいこと。すぐ火がつき,飛び火し,類焼する。ヒンドゥー教も例外ではなく,ネパールでは先述のハリジャン脅迫事件が起こった。きっかけは,彼の絵画展:

■マニシュ・ハリジャン「コラテラルの出現」 シッダルタ絵画ギャラリー(カトマンズ)8月22日~9月20日

(Siddhartha art gallery HP)

「コラテラル」とは難しい表現だが,何かに何かが加わり何かになる,何かが起こる,という意味だろう。展示作品のうち11作品が,ヒンドゥーの神々を西洋風に戯画化したもの。猿神ハヌマンが酒を持っている作品もある。

(Kathmandu Contemporary Arts Centre HP)

(Kathmandu Contemporary Arts Centre HP)

(The Radiant Star HP)

これらの作品は,たしかに,あまり上品とはいえないが,それほど過激ではない。正直,私には,これらの作品の良さがよく分からない。が,それは趣味の問題。ハリジャン自身は,これらの作品は「グローバル化の諸相を通して,東洋と西洋の文化を融合させること」を意図したものだと説明している。

ところが,WHFカルキ派は,これらの絵画をヒンドゥー教冒涜だと激しく非難し,ギャラリーに押しかけ,ハリジャンを殺すと脅し,展示責任者のサンギータ・タパ学芸員に対しても,絵画を焼却しあらゆるメディアを通して謝罪をせよと脅した。

騒ぎが大きくなったので,カトマンズ警察が派遣され,郡長官の命令によりギャラリーを閉鎖させ,ハリジャンとタパを呼びだし,事情聴取した。警察は,逮捕せよというカルキ派の要求までは容れなかったが,ハリジャンとギャラリーの「表現の自由」を守るという明確な態度もとらなかった。

その結果,ハリジャンとタパは,展示2作品(どれかは不明)を撤去し,今後はそのようなヒンドゥー教冒涜絵画は展示しないという文書に署名してしまった。彼らは,ヒンドゥー右派とその意をくむ行政当局の圧力に屈服せざるをえなかったのである。

4.形式的「表現の自由」擁護論の限界
このハリジャン脅迫事件が起こると,ユネスコ・カトマンズ所長のアクセル・プラテ氏が「表現の自由」を尊重せよ,との声明を出した。芸術作品が,たとえ宗教や倫理の価値観に反することがあろうとも,それを理由に暴力をもって反撃することは絶対に許されない。解決は,「自由な議論」によるべきだ,というのだ。

ネパリタイムズ社説(#623, Sep21-27)も同じ立場をとる。表現の自由は,他の自由や権利を侵害してはならないが,その限界は文化ごとに異なる。考慮すべきは,国家の安全,社会の調和,名誉毀損,ポルノ規制などだが,いずれにせよ暴力による脅迫や検閲は認められない。

「マニシュ・ハリジャンに描く自由を認める一方,それにより感情を害されたと感じる人びとには非暴力で抗議する自由を認めなければならない。民主主義では,感情を害されたからといって,殺すと脅すことは許されない。国家は,暗殺脅迫者ではなく,芸術家をこそ守るべきである。」(Nepali Times,#623)

これよりもさらにハト派に徹しているのが,今日の朝日社説「宗教と暴動・扇動者を喜ばせない」(9月26日付)。社説は,「言論の自由があるといっても,特定の宗教に悪意をこめ,はやして喜ぶ商業主義は,品のいいものではない」といいつつも,「他者による批判を自らの尊厳への攻撃と受けとめ,宗教をたてに暴力に訴える。狭量な信徒が陥りがちな短絡が,今回の暴徒たちにもうかがえる」と述べ,言論の自由・表現の自由を寛容に認めている。

こうした「表現の自由」を守れという主張は至極もっともであり,非の打ち所のない正論である。特に,強者の側が弱者の「表現の自由」を力により制限しようとする場合には。しかし,問題は,こうした正論が現代においては多くの場合,形式論ないし高尚なお説教あるいは精神論にとどまり,ムハンマド冒涜の場合と同様,ヒンドゥー教冒涜の場合にも,それだけでは対立の解決にはあまり役立たないという点にある。

そもそも「表現の自由」を定めた世界人権規約第19条にも,ネパール暫定憲法第15条にも,多くの留保がつけられており,それらを利用すれば,「表現の自由」は必要な場合にはいつでも制限できる。ムハンマド冒涜やヒンドゥー教冒涜に抗議している人びとは,彼らの重要な自由や権利が侵害されているのに,国家や国際社会は,形式論理のきれい事を言うだけで,そうした留保条項を使って彼らの権利や自由を本気で守ろうとはしていないと考えて怒り,やむなく実力行使に出ている,といえなくもない。自由や権利の形式的な保障は,つねに社会的強者の側に有利である。

朝日社説は,この問題を脳天気に棚上げしている。社説は,表現者側に「品」や「心得」を求めるだけで,「表現」による被害の具体的な救済については何も語っていない。

しかし,「言論の暴力」というように,「表現」も暴力であり,また暴力には直接的暴力だけでなく間接的な構造的暴力も含まれることは,いまや常識である。構造的暴力としての「表現」暴力の規制を自主的な「品」や「心得」に丸投げしておきながら,一方的に,直接的暴力による自力救済を上から目線で声高に断罪してみても,説得力はない。

5.天皇冒涜に堪えられるか
日本人の多くは,朝日社説もそうだが,ムハンマド冒涜やヒンドゥー教冒涜に激昂し激怒する人びとを狂信的とか原理主義とかいって冷笑するが,それは事件が今のところ余所事,他人事だからにすぎない。

しかし,近時の情勢からして,天皇が風刺の対象とされるのもそう遠いことではあるまい。天皇・皇后や他の皇族が,不道徳に,エロチックに,あるいは下劣にカリカチュア化され,メディアで弄ばれるようになったら,日本人はどうするか? あくまでも冷静に表現には表現で,言論には言論で,などと高尚なことをいっていられるだろうか?

たぶんダメだろう。日本人の多くが激昂し,天誅を下せなどと,わめき始めるに違いない。

ムハンマド冒涜事件もヒンドゥー教冒涜事件も,決して他人事ではない。言論には言論で,などといったわかりきった形式論理のオウム返しではなく,「表現の自由」が他の自由や権利と対立した場合,具体的にどうするかを,自分の問題としてもっと真剣に考え,取り組むべきであろう。

【参照資料】
Nepali Times, Sep.12 and Sep.21-27,2012
ekantipur, Sep.12, 2012
UCA News, Sep.13, 2012
The Radiant Star, Sep.15, 2012
Kathmandu Contemporary Arts Centre, http://www.kathmanduarts.org/Kathmandu_Arts/KCAC12-mann.html
Siddhartha art gallery, http://www.siddharthaartgallery.com/cms/index.php

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/09/26 at 20:47

出生前診断で女児中絶

ネパールでは,出生前診断で胎児が女児と判かった場合,親族の圧力により中絶させられることが少なくない。その数,年5万人に上るという(社説「女児胎児殺戮」Nepali Times, Sep14-20, 2012)。

1.悪魔の医術
医学の「進歩」により,出生前診断は日々高度化している。いまではNT法,MPS法,マイクロアレイ法などの出生前診断により,ダウン症,自閉症,血友病など,200以上の「異常」や疾病が判るという(朝日新聞2012-09-20)。

また,羊水検査ではなく,妊婦の血液を調べるだけで,胎児の遺伝子異常が99%の精度で判別できる簡便な検査方法も開発され,使用され始めている(朝日新聞2012-09-04)。

古来,「子は天からの授かりもの」とされ,出生は神の領域であった。キリスト教でも,子は親のものではなく,神の子供である。子の生命は,親のものではなく,神のものであった。

ところが,出生前診断は,この古来の生命観を根本から覆し,親や親族にとって好ましくない子は中絶し,その生命を奪うことができるようになった。生命は選別操作され,商品化され始めた。

出生前診断は,悪魔の医術である。知らなければ,判らなければ,天からの授かりものとして,わが子を産む。ところが,出生前診断により,早い段階で胎児の「異常」が判ってしまう。どうすべきか? 親,とくに母親の苦悩は計り知れない。本来なら神の領域の問題を,母親が引き受けなければならない事態になったのだ。生命選別の悪魔の技術としての医術!

2.男児選別出産
このように出生前診断は,日本でも深刻な問題となっているが,それよりもはるかにナマナマしく露骨なのが,ネパール。古来,男尊女卑で,食事,教育,医療など,あらゆる点で男児優先,女児後回しが慣行となっている。無事生長できても,娘への相続は忌避され,ダウリー殺人(結婚持参金回避殺害)ですら行われる。結婚は男児を得るためであり,嫁には男児出産が期待されてきたのだ。そのようなネパールで出生前診断が普及すれば,何が起こるか?

前掲ネパリタイムズ社説「女児胎児殺戮」によれば,ネパールでは,5年前,中絶が合法化された。中絶非合法のときは,密かに中絶した嫁を悪意で訴えたり,無理な出産で母親が死亡したりすることが少なくなかった。中絶合法化は,そのような女性にとっては救いであったが,他方では,中絶が容易となり激増した。

特に問題なのは,出生前診断で女児と判ると,夫や親族により中絶を強要されること。拒否すれば,虐待され,ときには殺されたりする。社説によれば,たとえば次のような事例があった――

▼女児出産の妻に,夫が石油をかけ火をつけた。

▼2人の女児出産後,3人目を妊娠し5ヶ月となる妻が,教師の夫に殴られ流産。夫は別の女性を妻とした。

▼カトマンズの裕福な家庭出身でオーストラリア留学後結婚した妻は,2女児出産後虐待され,その後妊娠のたびに出生前診断を受けさせられ,女児と判ると4回中絶させられ,離婚。

▼2女児出産後,3人目を妊娠した妻は,出生前診断後中絶させられたが,実際には、その胎児は男児であった。病院は10万ルピーを払い口止め。医師は中絶料稼ぎのため,男児なのに女児と嘘をつくこともある。

3.性の脱神秘化の非人間性
ネパールでは,このような神をも怖れぬ,恐ろしいことが日常茶飯事となりつつあるという。社説は,その原因を男尊女卑の父権主義と指摘している。

たしかにその通りだが,出生前診断の根本的問題は,子供選別出産そのものにある。前述のように,出生前診断技術の「進歩」により,早い段階で胎児の遺伝特性が判別できるようになった。男児選別出産の次は,優秀児選別出産((優生学)に向かうことは,火を見るよりも明らかだ。このバチ当たりな涜神行為をどう抑止するか?

繰り返しになるが,生死はもともと神の領域。そもそも性のタブーを破り,性を脱神秘化したところから,性と生死の資本主義化が始まった。人間性にとって,不可視の不合理の闇は不可欠ではないか? 性行為を覗き胎児を覗くことは神を冒涜することであり,生命を商品化し操作する結果とならざるをえない。それは,人間にとって本当に幸福なことであろうか?

【追加2012/09/24】出生前、血液で父子判定 精度99%、1年で150件
   (朝日デジタル2012年9月24日)

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/09/23 at 23:49

ゴビンダさんの冤罪と日本社会の責任

谷川昌幸(ネパール学術研究開発センター顧問,長崎大学元教授)

「東電OL 殺人事件」の再審が6月7日東京高裁で認められ,ゴビンダ・マイナリさんは逮捕後15 年を経てようやく釈放され,ネパールに帰国した。この高裁決定には検察が異議を申し立てているが,決定理由をみると,再審開始,無罪判決となることはほぼ間違いない。冤罪である。

この冤罪には,警察・検察・裁判所だけでなく,日本社会そのものも深く関与しており,道義的責任は免れない。

事件は1997 年3月発生。東京電力女性エリート社員が渋谷区円山のアパートで殺され,現場近くに住み面識もあったゴビンダさんが逮捕された。強引な捜査・取り調べにもかかわらず,ゴビンダさんは一貫して否認し,また犯行を裏付ける直接証拠は何一つえられなかったが,検察は状況証拠だけで十分立証されるとして同年6月,強盗殺人罪で起訴した。審理は東京地裁で行われ,2000 年4月,無罪判決が言い渡された。

この裁判は,本来なら,ここで終わり,ゴビンダさんはオーバーステイで国外退去となり,ネパールに戻っているはずであった。ところが,検察は東京高裁に控訴する一方,ゴビンダさんの再勾留を請求した。再勾留要請地裁提出→地裁棄却→再勾留要請高裁提出①→高裁・木谷裁判長,要請棄却→再勾留要請高裁提出②→高裁・高木裁判長,再勾留決定→弁護側最高裁特別抗告→最高裁3対2で特別抗告棄却。この経緯からも,無罪判決後の再勾留がいかに強引であったかは明白である。それは,刑事裁判の常識にすら反する違憲の国家行為であった。

東京高裁での控訴審は,実質的審理もほとんどすることなく,半年後の2000 年12 月結審,高木裁判長は逆転有罪の無期懲役刑を言い渡した。弁護側は直ちに最高裁に上告したが, 2003 年10 月最高裁は上告を棄却,ゴビンダさんの無期懲役刑が確定した。最高裁は,「疑わしきは被告人の利益に」の刑事裁判大原則にも無罪判決後再勾留の違憲性にも目をふさぎ,検察と東京高裁(高木裁判長)の無謀無法な暴走をただ追認してしまったのである。

どうしてこのような理不尽なことが起こってしまったのか? 直接的には警察・検察と裁判所に責任があることはいうまでもないが,彼らをしてそうさせたのは歪な日本社会とその政治からの様々な圧力である。

事件が発生すると,昼は東電女性エリート社員,夜は街娼という被害女性の二面性にメディアは飛びつき,人権無視の暴露報道を際限なくエスカレートさせ,捜査の行方への関心を異様なまでに高めていった。一方,この頃,世間では世紀末的閉塞状況を背景に,外国人の不法就労や凶悪犯罪がヒステリックなまでに非難攻撃されていた。そこに,ゴビンダさんが容疑者として浮上し,警察は彼を真犯人と見込み,逮捕した。世間の期待する犯人像にぴったりであり,たとえ自白や直接証拠がえられなくても,もはや警察・検察には,いや裁判所にすら,後戻りする勇気はなかった。

世界最貧国ネパールからの出稼ぎ不法滞在者・不法就労者は,日本国民の鬱屈した不満と,それを恐れつつ密かに操作しようとする日本政治の暗黙のスケープゴートにされてしまったのである。

ゴビンダ裁判は,大きくは,いわば日本社会の「政治裁判」の側面をもつ。日本国家にはむろんのこと,日本国民にもこの冤罪への責任がある。誠実な国家賠償と,冤罪への心からの謝罪・反省である。いまさら15年の歳月は取り戻しようもないが,せめてもの救いとしては,ゴビンダさんの無実の訴えを信じ,十数年もの長きにわたって支援してきた日本人が少なからずいたことだ。彼らの物心両面に渡る支援がなければ,再審・釈放はあり得なかったであろう。             

(ネパールの視覚障害者を支える会「会報」第33号,2012年8月,5-6頁[2012年7月寄稿])

Written by Tanigawa

2012/09/21 at 13:56

東西丘陵横断道路も中国へ

マオイスト政府の中国傾斜――中国のネパール浸出――に拍車がかかっている。訪中したナラヤンカジ・シュレスタ副首相兼外相が,今度は,東西丘陵横断道路建設への援助を要請し,中国側もこれに好意的な回答をしたのだ。430億ルピー也。

ネパールと中国は,この外相会談において,貿易,インフラ建設,観光,投資,社会・経済開発の5分野における協力強化に合意した。たとえば,中国援助中の西セティ水力発電事業,ポカラ空港事業,経済特区建設事業などの推進。こうした中国側の好意に対し,シュレスタ副首相兼外相が,「一つの中国政策堅持」の確認をもって応えたことはいうまでもない(ekantipur, 2012-09-19)。

いまのネパールには,正式憲法もなければ議会もない。正式の政府すらない。暫定首相が暫定的政令(ordinance)と暫定予算でとりあえず統治しているに過ぎない。近代的な意味での権力の正統性はまったくない。

しかし,すごいのは,このような状態であってもネパール社会は平気であり,統治破綻に陥ることがないということ。暫定政府の暫定大臣が大国中国と堂々と交渉し,破格の援助を引き出している。立派な憲法と議会と政府がそろっている日本が,対中外交でオタオタしているのと雲泥の差だ。

ネパールには,もはや憲法も議会も必要ないのではないか? またぞろ,制憲議会選挙をやることになったそうだが,選挙民主主義原理主義国を除けば,諸外国も日本も,今度はたいした選挙援助はしないだろう。

こんな舶来の異物さえなければ,有力者間のあうんの呼吸(エリート統治)で,ネパールは,うまくやっていけるのではないだろうか?

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/09/20 at 09:59