ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

ロイ『民主主義のあとに生き残るものは』(2)

2.「民主主義のあとに生き残るものは――2011年3月13日に予定されていた東京講演」

(1)

この予定講演において,ロイは,「民主主義と自由市場はいまや一つの搾取する有機体に統合され」(10頁)てしまったと述べ,資本主義の走狗となった民主主義を徹底的に批判している。

ロイによれば,人間は,現在だけを生きる動物でもなければ,未来を見通す預言者[神]でもない。「そのことが人間を,獣でも預言者でもないという,不可思議な中間の生き物にしている。」(11頁) 人間は,預言者たり得なくても,ある程度の「長期的な視野」は必要としているのである。

ところが,近代の民主主義は,「私たちの最大の愚かさ,つまり近視眼を反映している」(10-11頁)。「民主主義は,・・・・私たちの希望や祈りにすぐに応えてくれる聖なる解答,個人の自由を守り,私たちのきりのない夢を養ってくれるもの」であり,したがって今日の民主主義政府には人間にとって不可欠の「長期的な視野」は期待できないのである(10頁)。

かくて,近視眼の民主主義は,人びとの刹那的な物質的富への欲望のため地球を荒らし,「文明」を発展させてきた。「現在,『文明』が自らの経済を動かそうとする方法は資本主義であり,近代の強力で『文明化された』社会が自らの社会および政治を運営する方法が民主主義である。この二つこそは,近代の人間社会が究極の願望としてきたものと言えるだろう。」(11頁)

(2)

これをインドについて見るならば,近代の民主主義は,たしかに「封建主義とカースト制度の重荷で腐りつつある旧弊な社会」をかき混ぜ,古来の不平等のいくつかを破壊した。しかし,その結果生みだされたのは,「濃縮クリームの薄い層」と「たくさんの水」であった(26頁)。「クリーム層」は有産階級であり,彼らが形成するのが富裕な「インド市場」。「おおくの水」は,搾取され,見捨てられる周縁の人びと。

これが、インドの民主化であった。インド政府は,IMF,世界銀行,アジア開発銀行などの支援を受け,民主主義のための改革,つまり「構造調整」を進めた。水資源,電気,通信,医療,住宅,教育,交通といった基本インフラの市場開放,私有化が推進され,その結果,おおくの人びとが土地や資源を奪われ,絶望的な貧困へと追いやられていった。

たとえば,鉄1トンあたり,企業は政府に60セントを払って採掘権を取得し,110ドルの利益を得る。この利益の一部により,企業は票,政府高官,判事,新聞,テレビ,NGO、支援機関などを買収し,開発へのさらなる「民主主義的」支援を得るのである。

(3)

インドの民主主義にとって,進歩=改革=開発に抵抗する住民は,いまや民主主義の敵である。とくに武力闘争を続けるマオイストは「国内治安への脅威」であり,政府は治安部隊,警察,特殊部隊などを動員し,容赦ない掃討作戦を繰り広げている。アメリカは民主主義のためにイラク,アフガンなどで戦争し,インド政府は民主主義のために自国住民と戦争をしている。

かくして民主主義はいまや「空虚となり」,「意味を失ってしまった」。民主主義を支える諸機関は,住民にとって「危険なものに変化してしまった」(10頁)。もしそうだとするなら,その「民主主義のあとに生き残るもの」はいったい何なのか?

(4)

ロイによれば,「それは資本主義と帝国主義の覇権に協力した場所や人びとからではなく,それに抵抗したところから生まれてくる」(40-41頁)。

インドには,「消費の夢によってまだ完全には植民地化されていない人たちがいる。・・・・インドには,1億人ものアディヴァシ[森の先住民]の人たちがいまだに生存している」(41頁)。

「資本主義がそのただなかに非資本主義社会を認めざるをえなくなる日、資本主義が自らの支配には限度があると認める日、資本主義が自分の原料の供給には限りがあると認識する日、その日こそ変化の起きる日だ。もし世界になんらかの希望があるとすれば、それは気候変動を議論する会議の部屋でも高層ビルの建ち並ぶ都会にもない。希望が息づいているのは、地表の近く、自分たちを守るのが森や山や川であることを知っているからこそ、その森や山や川を守るために日ごとに戦いに出かける人びとと連帯して組む腕のなかである。」(41-42頁)

かつてジョン・ボールは,「アダムが耕しイブが紡ぐとき,いったい誰が領主であり紳士だったのか?」と問いかけた。ロイの市場民主主義批判は,ジョン・ボールの夢に連なるものである。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/09/04 @ 20:59