ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

ロイ『民主主義の後に生き残るものは』(3)

3.資本主義――ある幽霊の話

(1)墓穴を掘る資本主義
本書第3章は,マルクスの言葉で始め,マルクスの言葉で締め括っている。

▼“資本主義は,とマルクスは言っていた,「まさに巨大な生産と交換の手段をひねりだす,それはまるで自分の呪文で呼び出した闇世界の力をもはや統制できなくなった魔術師のようなものである」。”(46頁)

▼“マルクスは言っていた,「ブルジョアが生み出すのは何よりもまず自らの墓掘人である。その没落とプロレタリアの勝利は避けられない」。”(87頁)

資本主義はすべてを商品化する。自然も人間も文化も商品化し消費し尽くし,ついには自ら墓穴を掘る。ロイは,その資本主義の末期症状を,卓抜な比喩と事例を縦横に駆使し,容赦なく剔出していく。

(2)富の独占とメディア支配
人口12億人のインドでは,現在,上位100人がGDPの1/4を独占している。中産階級は3億人というから,9億人が下層・貧困層ということになる。

このごく少数の富裕層が支配するのがRIL,タタ,ジンダル,ヴェダーンタ,ミッタル,インフォシス,エッサールといった巨大企業であり,これらは商工業から報道,教育,福祉,医療まで,ありとあらゆる事業を傘下に収め活動している。

“たとえば夕夕だが、この企業は80カ国で100以上の会社を経営している。彼らはインドでもっとも古くもっとも大きなエネルギー会社として、鉱山、ガス田、鉄鋼業、電話とケーブルテレビとブロードバンドのネットワークを所有し、それにいくつかの場所では町全体を支配している。車やトラックの生産、タージ・ホテルチェーンとジャガー、ランドローバー、大宇、それにテトリー紅茶会社を所有、さらには出版社と本屋網とヨウ素塩の有名ブランド、化粧品の大会社ラクメの持ち主でもある。その広告標語が「我々なしであなたは生きていけない」となってもおかしくない。”(47頁)

これら巨大企業は,山や川や森あるいは土地といった,本来なら共有物かそこに住む人々のものを安価で払い下げさせ私有化により,住民を追い出し,巨利を得ている。そして,それに抵抗する者は,たとえば「マオイスト」とされ,「インドにおける最大の安全保障への脅威」として,あらゆる手段をもって徹底的に弾圧される。

“つい先ごろソニ・ソリという、バスタールで学校教員をしているアディヴァシの女性が警察につかまって拷問を受けた。石ころを膣に入れられ、毛沢東主義者たちの伝令であることを「自白」させられたという。世論が沸騰したので、彼女はコルカタの病院に送られて手当てを受け、そこでいくつも石ころが体の中から出てきたのだ。最近あった最高裁の聴聞会で、活動家たちがこの石ころをビニール袋に入れて提示した。その努力の結果がどうなったかというと、ソニ・ソリは投獄されたまま、他方で彼女の尋問を指揮したアンキット・ガルグという警察署長は、独立記念日に大統領から勇敢な警察官に与えられるメダルを授与されたのである。”(52-53頁)

どうしてこのような理不尽なことが許されるのか? その理由の一つが,大企業によるメディアの買収,あるいはメディア自身による多角企業経営である。メディアは,独立を放棄し,大企業の宣伝機関,世論操作機関となってしまった。

(3)企業の文化・社会事業
大企業は,ありとあらゆる文化・社会事業を行い,世論を操作している。ヴェダーンタの映画コンテスト,エッサールの「考えるフェスト」,タタ・スティールの文学フェスタなど。

“だが私たちのなかで最初の石を投げる罪人はだれなのか? 私ではない、なぜなら私も出版社からもらう印税で暮らしているからだ。私たちみながタタ・スカイを見て、タタ・フォトンでネットサーフィンをし、タタ・タクシーに乗って、タタ・ホテルに泊まり、タタのカップで夕夕紅茶を飲み、タタ・スチールでできたスプーンでかきまわす。タタ書店でタタ・ブックスの本を買う。「夕夕の塩を食べている」。我々は包囲されているのである。”(59頁)

(4)資本主義の手先としての財団
資本主義は,世論操作の巧妙な方法として,財団を使う。カーネギー財団,ロックフェラー財団,フォード財団など。たとえば国連,CIA,CFR(外交問題評議会),ニューヨーク近代美術館などは,ロックフェラー財団の援助を受けたか,現に受けている。

“膨大な資金とほぼ無制限の権限を持ちながら、税金を支払う必要のない法人が、会計説明責任もなくまったく不透明なままでいられる――経済的な富を政治的、社会的、文化的な資本に拡張し、お金を権力に変えるのにこれ以上うまい方法があるだろうか? 高利貸が自らの利益のごく一部を使って世界を支配するのに、これほど優れた方法があるか?”(63頁)

耳が痛い話しだ。日本でも,これは「企業」設立とはいえないが,例の「日本財団」が様々な文化・社会活動を活発に繰り広げている。特に最近では,平和研究・平和構築関係への浸透がめざましい。

私もかつてアスペン協会の行事に参加したことがある。いかにもお金がありそうな雰囲気で,貧乏人の私には居心地が悪く,1,2回出席しただけで,以後まったく参加していない。

(5)グラミン銀行批判
財団は,NGOにも注目し,貧困からさえも収奪し始めた。米国では,クレジット・ユニオンを支援し,労働者に過剰貸し付け,彼らを底なしの借金地獄に落とした。

そしてグラミン銀行。私も,この事業については,本当に大丈夫かと,いぶかしく感じていた。そもそも貧しくて借金もできない下層階層の人々に,連帯保証――相互監視――を条件に金を貸し付け,事業を始めさせる。周りは資本主義社会である。なかにはうまくいく人もいるであろうが,常識から考えて,大半は素人であり失敗するにちがいない。貧乏人が借金を背負い,返済できなくなったら,どうするのか?

“それから何年もたってから、この考え[クレジット・ユニオン]はバングラデシュの貧しい田舎へと流れつき、ムハマド・ユヌスとグラミン銀行が少額のクレジットを飢えた貧しい農民たちに与えることで壊滅的な結果をもたらす。インド亜大陸の貧しい人びとは、それまでも常に地元の村の高利貸バニヤの無慈悲な支配下で借金を負わされてきた。しかし少額貸付はそれさえも企業化してしまったのだ。インドにおける少額貸付会社は何百という自殺――アンドラ・プラデシュ州では2010年だけで200人が自殺した――の原因となっている。近ごろ日刊全国紙に掲載された18歳の女性の遺書には、自分の学費であった最後の150ルピーを少額貸付会社の執拗な従業員に手渡すことを強要されたとある。そこにはこう書かれている、「一生懸命働いてお金を稼ぐこと。借金をしてはいけない」。貧しさを使って儲けることもできれば、ノーベル賞をもらうこともできるのだ。”(68頁)

これは厳しい。ユヌスのグラミン銀行や他の善意の小規模金融事業に対し,これほど容赦ない批判がこれまであっただろうか? ロイの面目躍如といったところである。

(6)買収されるNGO
このように,資本主義が私有化,市場化を進め,政府支出を削減させればさせるほど,救貧や教育,福祉,医療など,本来なら政府の担うべき公的活動がNGOやNPOに委ねられることになる。

“すべてを私有化すること,それはすべてをNGOに任せることと同義である。仕事も食べ物もなくなれば,NGOが雇用の重要な提供主とならざるをえない。たとえその内実がわかってはいても。”(74頁)

“膨大な資金で守られながらこれらのNGOは世界を闊歩し、革命家の卵をサラリーマン活動家に変え、芸術家や知識人や映像作家に金を与えることで彼ら彼女らを激しい闘争の場面からやさしく遠ざけ、多文化主義やジェンダーやコミュニティの発展といった、アイデンティティ・ポリティクスと人権に包まれた言説のなかへと導き入れていくのだ。”(75頁)

“1980年代末、つまりインド市場が世界に開かれた時点までに、インドのリベラルなフェミニスト運動は過度にNGO化されてしまった。・・・・さまざまな財団が資金の提供を通じて、どんな「政治的」活動が適当かの範囲を決めることに成功してきた。いまやNGOの会計報告によって、何が女性の「課題」であり何がそうでないかが決められているのである。”(77頁)

(7)キング牧師もネルソン・マンデラも
資本主義は,キング牧師やネルソン・マンデラの偉業さえも巧妙に買収し取り込んでしまう。

ロイによれば,「マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが行ったのは,資本主義と帝国主義と人種主義とベトナム戦争を結びつけて一緒に批判するという,いわば禁じ手だった」。そこで,フォード自動車,GM,モービル,P&G,USスチール,モンサントなどが出資し,「非暴力による社会変革のためのマーティン・ルーサー・キング・ジュニア・センター」を設立した。そのプログラムの中には,「アメリカ合州国国防総省,軍隊の牧師理事会ほかと密に協力する」プログラムもあるという(80-81頁)。

ネルソン・マンデラについても,ロックフェラー財団などが介入し,結局,ワシントン・コンセンサスを受け入れさせた。(ワシントン・コンセンサス=新古典派経済学の理論を共通の基盤として、米政府やIMF、世界銀行などの国際機関が発展途上国へ勧告する政策の総称[知恵蔵])

“ANC[アフリカ民族会議]の目的からは社会主義が消え,称賛された南アフリカの偉大なる「平和な政権交代」には,土地改革も補償要求も鉱山の国有化も含まれてはいなかったのだ。その代わりに導入されたのが私有化と構造調整である。マンデラは南アフリカで市民に与えられる最高の栄誉「喜望峰勲章」を古き友人にして支持者であったスハルト将軍,つまりインドネシアで共産主義者を殺戮した者に与えた。今日南アフリカでは,かつての急進派や労働組合の幹部たちがベンツを乗り回して国を支配している”(81-82頁)

インドでは,やはりフォード財団などの介入により,ダリット運動は「ダリット資本主義」に向かっている。

“「ダリット株式会社、カースト制度打破ビジネスに準備完了」というのが、昨年12月の『インディアン・エクスプレス』紙の見出しだ。そこにはダリット・インド商工会議所の指導者の次のような発言が引用されている。「ダリットの集会に首相に来てもらうのは我々にとってむずかしいことではない。しかしながらダリットの企業家たちにとっての大望は、タタやゴドレジと昼食やお茶を共にして一緒に写真に収まることだ。実際に彼らが来たことの証拠となるからである」。・・・・これではいまだに100万人が頭に人糞を乗せて運び、肉体を酷使して他人のおこぼれを頂戴しているダリットたちの現状を救うことにはならないだろう。」(82-83頁)

(8)グローバル資本主義の終焉
しかし,それにもかかわらず,ロイは資本主義にはもはや未来はない,と断言する。いくら弾圧されても資本主義への抵抗は執拗に続いている。マルクスが言うように,資本主義は「自分の呪文で呼び出した闇世界の力をもはや統制できなくなった」のであり,自ら墓穴を掘っているのである。

“そう,おそらく私たちが夜を取りもどす時が来ているのだ。”(89頁)

この最後の結びの言葉は,意味深だ。資本主義への勝利は,「夜」の回復なのか? ロイにとって,そして私たちにとって,その「夜」とはいったいどのようなものなのだろうか? 

資本主義システムの外に暮らす人々は,所有せざる人々であり,いわば森に住む「自然の人々」である。森では夜は夜である。資本主義の否定は,夜を昼のようにすることの否定であり,森に戻ることである。ロイの議論は,ルソーの「自然に帰れ」に一脈通ずるところがあるように思われる。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/09/18 @ 20:10