ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

Archive for 11月 2012

ゴミのネパール

ネパールのゴミ問題はさんざん議論されてきたが、改善どころか、悪化する一方だ。カトマンズもひどいが、むしろ郊外や村の方が悲惨だ。ネパールへは、ゴミ見学に行く覚悟なくして、旅行はできない。ヒマラヤや寺院より先に、まずゴミだ。

ネパールのゴミ問題は、廃棄物の質の変化によるところが大きい。かつてのゴミは、丹後のわが村でもそうだったが、大部分が自然素材であり、空き地や川に投棄しても、しばらくすると自然に分解され、土に戻った。むしろゴミ捨て場の方が土地が肥えていて植物はよく育ち、またミミズもたくさんいたので、魚釣り用のミミズはたいていゴミ捨て場で採っていたものだ。だからネパールでも、投棄物が自然素材である限り、ゴミはたいして問題にはならなかった。

ところが近代化とともに、いつまでも分解しない人造物が激増し、ネパールのゴミ問題は一気に深刻化した。とにかくゴミ、ゴミ、ゴミ。ヒマラヤも寺院も、街も村もゴミだらけ。

特にかわいそうなのが、聖牛。いたるところでビニール・ゴミを食べている。あの聖牛たちはどうなるのだろう。天寿を全うするとは、とうてい思えない。聖牛にビニール・ゴミを食わせるとは、なんたるバチ当たり。いずれ天罰が下るに違いない。

とにかくネパールには、悪臭ただようなか、腐敗物とともにビニール袋を食べる悲惨な聖牛を見ても失神しない強心臓の人以外は、来るべきではない。あるいは、ゴミの山を前景にヒマラヤを望み、ビニール・ゴミをかき分け花々を愛で、ゴミとともに神仏に祈る――そう達観した人だけが、ネパールを存分に楽しむことができる。さすが仏陀生誕地、まるで沼の蓮花のような国ではないか。

121130a ■キルティプール西方峡谷のゴミ

121130b 121130c   
 ■バルクー川のゴミと聖牛(1)/同左(2)

121130d 121130e
 ■カランキのゴミ(1)/同左(2)

121130g 121130f
 ■バグマティ河原のゴミと高層住宅/バグマティ河原のゴミとカラス

【参照】
世界遺産を流れる川がゴミ処理場状態
ゴミと糞尿のポストモダン都市カトマンズ
ゴミと聖牛
火に入る聖牛の捨身救世

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/11/30 at 19:09

カテゴリー: 社会, 経済

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伝統的性文化健在、キルティプール付近

1.伝統的性文化
ネパールは、いうまでもなく性の天国。かつては、カトマンズ盆地のどこに行っても、男根や女陰や男女合体像など、性が氾濫していた。歩けば男根につまづき、女陰にはまるといった有様。

民俗学的には様々な説明が可能だろうが、要するに、家族子孫の繁栄と、家畜や五穀の豊穣を願う、健康でマジメなものであったことはいうまでもない。

 ■チョバール山麓路傍の男根(リンガ)

2.原罪処罰としての性:キリスト教
ところが、性を原罪への処罰と信じ込まされている西洋キリスト教徒の多くは、そのような健康な見方をすることができない。淫らだとか、猥褻だとか、不道徳だとか、野蛮だとか――要するに、抑圧され歪になった、イジケた思い込みにとりつかれているのだ。

キリスト教は、何とも罪つくりな宗教である。というか、見方によれば、キリスト教は罪をつくることによって成立し、罪の脅しによって存立している宗教だといっても過言ではない(異端説ではあろうが)。

キリスト教にとって、性器はイチジクの葉で隠さなければならないほど恥ずかしい身体の一部だし、性行為は原罪への処罰だから、それらを彫刻や絵画で開けっぴろげに開陳し礼拝することなど想像もできないことだ。彼らにとって、それらは、せいぜい必要悪、したがって厳に隠されてあらねばなぬものなのである。

3.性抑圧西洋文化の影
この性抑圧西洋文化が、ネパールにも暗い影を落とし始めたように見える。かつていたるところにあった男根や女陰や男女合体像の中には、意図的か偶然かはわからないが、壊れたり、ゴミためとなってしまったりしているものも少なくない。

あるいは、旧王宮など、いたるところの寺にあったリアルな男女性器や男女合体像の彫刻は、多くが放置され、もはや原型が見分けられないほど劣化してしまっている。

あるいはまた、タメル入口の寺のように、最近修理されはしたものの、以前のようなリアルな性表現ではなく、肝心の部分がぼかされているものが多い。キリスト教的西洋道徳による直接的あるいは間接的な検閲ではないかと疑われる。

そもそも見たくない人は、来なければよいのだ。頼みもしないのに押しかけて来て、やれ未開で不道徳だの、淫らだのと勝手なことをいい、伝統文化を自分好みに改変してしまう。見たくなければ、動物供儀にも性礼拝の場にも来るべきではない。

4.村の健康な性文化
と、そんな嘆かわしい今日この頃だが、わがキルティプール付近の村は頑張っている。先日、キルティプールとチョバールの丘の谷間を流れる小川のほとりに行ったら、そこの小さな寺院を修理していた。修理費寄進者一覧らしきものが掲げられ、その横の部屋では男性たちが屋根支柱の彫刻、下の庭では女性たちがレンガ粉つくり(?)をしていた。村総出の修理であろう。

そうして修理された新しい屋根支柱を見上げると、実に見事、古き良き時代と全く同様の、リアルな男女性器や男女合体像が浮き彫りにされている。日本だと猥褻物陳列罪は間違いない。つまり、この近辺の人々は、テレビで西洋堕落番組を見ているはずなのに、文化の基底にある性文化は伝統をそのまま継承しているのだ。

5.余計なお世話は控えよ
まじめに、敬虔に男女性器や男女合体図像を造っている村人たちに、「そんな未開人のような淫らなことをしてはいけません」などと、知ったかぶりをしていうのは、敬虔な動物供儀を残酷だと非難するのと同様、お門違いの余計なお世話だ。抑圧され歪んでしまったヒガミ根性で、村人たちの健康な願いをぶち壊し不幸の道連れにしてはならない。

「悔い改めよ」――余計なお世話だ!

 
 ■寺院屋根修理/女性も修理参加

 
 ■寄進者表とその横の作業部屋/屋根支柱制作

 
 ■レンガ粉つくり(?)/新しい屋根支柱(道路側)

[補足]悔い改めるべきはセックス商売
インターネットには、科学偽装男女性器写真(ウィキペディアなど)や、祈りなき即物的性行為動画がいくらでもあるが、それらは似てまったく非なるもの。悔い改めるべきは、西洋発・日本発のそうした神をないがしろにするセックス商売である。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/11/29 at 12:45

信号機、ほぼ全滅(4):カランキ交差点(付:タタの威厳)

11月25日、キルティプールの西の対岸の新興住宅を見たあと、バルクー川沿いを歩いてカランキ交差点の見学に行った。

カランキ交差点は、幹線道路の大きな交差点。一方のリングロードは、ネパール基準で片道3~4車線、他方のカトマンズ市内カリマティ方面とタンコット・ポカラ方面とを結ぶ道路が片側2~3車線。日本援助のシンズリ道路が完成し、通行量が減ったとはいえ、主要道路の大交差点であることに変わりはない。

この交差点にも、どこかの援助(日本?)で信号機が設置されていた。当然だろう。ところが、行ってみると、信号機は跡形もなく消えている。そして、その代わり、歩行者用陸橋と陸橋の橋脚を利用したロータリーが設置されていた。いたく感動し、2時間あまり、観察していた。

ロータリーには、交通警官が一人いて、交通整理をしている。しかし、ここを通過するトラック、バス、乗用車、タクシー、耕耘機、バイク、犬(牛は道端で寝ころんでいた)はすべて、基本的には、相互の動きを見ながら自主的に判断し通行しているのだ。見事というほかない。

この交差点の設計・施工は、絶対、日本ではない。日本はこんな交差点は絶対に造らない。杓子定規というか、どうしても日本基準に合わせてしまう。かつて長崎の離島に行って感動したことがある。狭い島で、港の反対側の海岸沿いは車はあまり通らず、歩行者もほとんどいないのに、なんと、両側にガードレール付きの立派な歩道が造られていた。タヌキ用歩道? これが日本式だ。

カランキ交差点は、明らかにネパール交通文化にあわせて設計され、建設されている。だから、ちゃんと機能しているのだ。

そのかわり、造りは、きわめてチャチだ。いつ壊れても、いつ壊してもよいようにつくられている。歩道橋の上は薄い鉄板敷きでガタガタだし、コンクリート部分もせんべいのように薄い。手抜きは見え見えだ。そのくせ、歩道橋の下の空き空間は、寸分の余地なく商売用に利用されている。お見事! これがネパール式なのだ。

再び繰り返すが、いつかはわからないが、ネパールでもロータリーでは対応できないときがくる。信号機が設置され、警官がいなくても、信号(規則=法)に従い交通整理が行われるようになったとき、ネパール社会は大きく変わっているだろう。

 
 ■カランキ交差点北西側/交差点北東側

 
 ■タタをも恐れぬ歩行者/歩道橋と商店

 
 ■交差点横の子牛/消灯信号機と歩行者(バスターミナル前)

【付録】タタの威厳
ネパールでもっとも威厳のあるものの一つが、タタ・トラックだ。どんな悪路も平気。絶対に壊れず、壊れてもすぐ直せる(ように見える)。インドの威厳の象徴だ。たまに道路横の田んぼに仰向けになっているが、これは実に愛らしい。

タタや、その前を平気で横切る人や牛や犬を見るだけでも、ネパールに来る価値がある。タタ、万歳!

 
 ■タタの勇姿(1)/(2)

 
 ■タタの勇姿(3)/タタと張り合うスズキ

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/11/28 at 20:49

カトマンズ盆地の戸建住宅と高層住宅

1.戸建住宅
11月25日、キルティプールの西北を散策。仏教ゴンパの下の豪華改築キルティプール病院のところを下って川辺に出ると、左から右まで新興住宅の見事なパノラマが広がる。

カトマンズ、パタン、キルティプールなど、ネワールの古い住宅は中庭を囲むような構造であり、多くの家族がそこに共同で住んでいるが、キルティプールの西の対岸の丘の住宅は、ほぼ同じ構造の小さな戸建て、まるでマッチ箱を斜面のひな壇に並べたかのようだ。壮観といえば壮観、ネパール新興住宅文化を象徴するものの一つである。

仮説としては、新興住宅に移り住む人々は、様々な出自であり、伝統的な形の共同住宅=共同社会を形成できないからではないか。あるいは、戸建ての方が、しがらみが無く、財産として購入・売却しやすいからかもしれない。いずれにせよ、見知らぬ他人の市場社会には、バラバラのマッチ箱戸建てがよく似合う。


 ■キルティプール西方の丘の戸建住宅


 ■キルティプールの丘北方下の戸建住宅

2.高層住宅
これと対称的で対照的なのが、高層住宅。カトマンズ盆地の各地に、ニョキニョキ林立し始めた。これは現代の集合住宅だが、伝統的な中庭を囲むネワール住宅とは、原理的に異なるようだ。中まで入ったことがないので推測にすぎないが、これらは、多くの場合、居住するにせよ主な目的は投資であり、顔の見えないバラバラの個人や企業を相手にしているのではないか。

個人主義が資本主義をつくるのか、資本主義が個人主義を育てるのか? おそらく両側面があるのだろう。今後、ネパールは、住居形態の変化により、文化的にも大きく変わっていくのではないだろうか?

 
 ■パタンの高層住宅/パタン南方の高層住宅

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/11/27 at 21:05

カテゴリー: 社会, 経済, 文化

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「白亜のゴンパ」と花のイチャング

1.「白亜のゴンパ」
11月24日、カトマンズ西方の丘の上にある「白亜のゴンパ(Druk Amitabha Mountain)」に行った。街からもよく見える巨大なゴンパであり、いったいどのようなものなのか気になっていた。

キルティプールからタクシーで環状道路のカランキ交差点の先、スワヤンブーの手前を左折、少し登ったところを右折し、イチャングに行く道にはいる。狭いでこぼこの田舎道を少し行き左折すると、「白亜のゴンパ」への登山道路となる

この道路は完全舗装。いったん停車したら再発進できないのではと思うほどの急勾配。タクシーはおんぼろマルチスズキだったが、その急峻な登山道をエンストすることなく登り切った。スズキは、本当にエライ! どのような悪路でも平気でこなす。頑丈でメンテナンスが楽なのだろう。インド・ネパール向きだ。

2.城のようなゴンパ
丘の上に出ると、そこには巨大な「白亜のゴンパ」が、周囲を威圧するかのように、そびえ立っていた。チベット仏教のゴンパで、ダライ・ラマ系。

それは、まるで山城。あちこちに出城らしきものもあり、ネパール国軍が攻めてきても、容易に落城はしないだろう。中国人民解放軍であっても、手こずるに違いない。それほどすごいものだ。

  ■「白亜のゴンパ」と参拝者

3.レジャーランドとしてのゴンパ
「白亜のゴンパ」は、土曜日には一般開放されており、ものすごい数の善男善女が、ヒンドゥー教徒もマオイストも参詣に訪れていた。

外には巨大大仏と極彩色壁画。本堂内も極彩色で、ご本尊様はピカピカ電飾で飾られている。ワビサビの日本人の趣味には合わないが、これがたいへんな人気、ヒンドゥー教徒やマオイストも畏敬の念を禁じ得ない様子だった。

改宗は、憲法により強要を禁止されているが、極彩色諸仏の偉大を見せて、自発的改宗に導くのはおそらく違憲ではあるまい。

しかしながら、「白亜のゴンパ」は、罰当たり不信心者には、まるで「仏教レジャーランド」のようにみえる。老人ばかりの日本の寺とは異なり、無数の青年男女がバイクや徒歩で訪れ、デジカメで記念写真を撮りあっている。ここは、いまやネパール最大のパワースポットのひとつといってもよいだろう。「白亜のゴンパ」は、特に青年男女に、現世御利益を恵んでくださっているようだ。

■「白亜のゴンパ」入口

 
 ■大仏/極彩色諸仏

4.花の丘
「白亜のゴンパ」はともかくとして、この周辺は、驚くほど美しい。花いっぱいなのだ。

いたるところマリゴールドだらけ。おそらく出荷用に栽培しているのだろうが、そんな生やさしい数量ではない。とにかく、野山の雑草のごとく、マリゴールドが咲き乱れている。さらに感動的なのが、ラルパテ。ラルパテの赤い花々に埋もれてしまったかのような民家さえあった。

先日行ったコカナやブンガマティも美しかったが、花については、この「白亜のゴンパ」周辺の方がはるかにきれいである。

 ■ラルパテに囲まれた民家

 
 ■マリゴールド・麦・名称不詳の花々/マリゴールドの中の家

5.チャンを出されて
「白亜のゴンパ」を一通り見学したあと、丘の上をさらに西方まで散策した。民家が点々とあり、いかにもネパール的。十分楽しめる。一巡りして「白亜のゴンパ」にもどり、無数の善男善女とともに徒歩で急坂を下った。

途中で、珍しく柿の木のある茶店があったので、立ち寄り、一休みした。店のおやじさんにお茶(チャイ)を頼んだら、ヤカン半分くらいの容器に入った地酒チャンを持ってこられて、大あわて。周囲の善男善女の失笑を買ったが、日本人珍客だから仕方ないといった様子で、牛乳入り紅茶に換えてくれた。ポゴタ(?)2個とあわせ、25ルピー(23円)。

そこからさらに、躓いたら谷底まで転げ落ちそうな急坂を下り、タクシーで登った舗装道路に出た。

 
 ■柿・マリゴールド・ラルパテ/雛番の犬

6.イチャング
イチャングからの道と合流するところまで戻ると、イチャング方面からものすごい数の女性たちが歩いてくる。何事かと警官に尋ねると、今日はイチャング・ナラヤンの祭礼だという。

すでに日が落ちかけていたが、せっかくなので、歩いてイチャング・ナラヤンまで行き、お参りの様子を見物してきた。仏様のあと、ヒンドゥーの神々にもお参りしたので、御利益は何倍にもなって返ってくるのではと期待している。

イチャングからは、来た道を引き返し、別の谷への道と合流し道が少し広くなったところでタクシーをひろい、キルティプールに戻った。

この日はほぼ一日中、歩き回ったことになるが、空気も花もきれいで、村にも風情があり、全く疲れなかった。

 
 ■イチャング・ナラヤン/花のイチャング

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/11/26 at 10:34

コカナとブンガマティ

1.コカナ
11月22日、カトマンズ南方のコカナ、ブンガマティ方面に散策に出かけた。キルティプールからタクシー(マルチスズキ)でバグマティ川沿いに下り、サイブバンジャング付近で橋を渡り、マガルガオンを経て、コカナ着。約30分。

コカナは古い村で、寺院や民家など趣はあるが、想像以上に新しいものが増え、村全体としては、今ひとつ調和がとれない感じがした。犬も文明化されており、裏道に入っても威嚇されない。

ここは、村中よりも周辺の田園風景がよい。丘の上からバグマティ川を挟んで向かいの山まで、広く一望できる。谷底の水田に点在する家々が、何ともいえない風情を醸し出している。

また、ヒマラヤはランタン、グルカルポリ(?)、ガネッシュの他に、マナスルやアンナプルナも見える。北方の小さなお椀のような丘の上にポツンと木が1本。これがなかなか風情があり、絵になる。ヒマラヤをバックに入れて写真を撮ると、少々、絵になりすぎる嫌いさえある。むろん桜も満開。(以下、写真キャプションの「-K」はコカナ、「-B」はブンガマティ)

 
 ■コカナと桜-K/籾干しと水田遠望-K

 
 ■籾干し(1)-K/籾干し(2)-K

 
 ■糸繰り-K/丘の木とヒマラヤ(1)-K


 ■丘の木とヒマラヤ(2)-K

2.ブンガマティ
コカナを堪能したあと、歩いてブンガマティに向かった。細い里道で、車やバイクはほとんど通らず、快適。時々、欧米人の集団と出会う。最近は、団体旅行は欧米人、個人旅行は日本人という傾向になってきた。日本はエライ! ついに欧米を追い抜いた。

ブンガマティは、古い建物がほとんど残っており、コカナ以上に趣がある。町中いたるる所で籾干し。まるで籾干し大会のようだ。

また、神仏の彫金や木彫、絨毯の手織りなどは、コカナでもやっていたが、ここでもあちこちでやっている。かなりの需要がありそうだが、宿の主人に聞くと、特に絨毯や布の手織り労働はきつく、賃金はわずかだそうだ。

  ■民家と洗濯物-B

 
 ■籾干し(3)-B/籾干し(4)-B

3.裸体女性の自然
驚いたのが、ブンガマティでは、女性が上半身裸で昼寝や籾干しをしていること。コカナでも見たが、ブンガマティの方が多い。さすがに若い女性ではなく、30代以降の女性たちのように見えた。

しかし、これは驚く方が変だ。西欧は寒いから服を着るのであり、南国は暑いから着ない――ただそれだけ。日本でも、農漁村では、1960年代頃までは、女性も平気で上半身裸で夏を過ごしていた。寒くて服を着ざるをえない西欧人が、その僻目から、衣類で身体を隠すことを文明的、道徳的という説をでっち上げ、暖かい国の人々に押しつけたにすぎない。

幕末、日本を旅した西欧人が、日本人は庭先で平気で行水したり、裸で歩き回っているといって、その「未開」「不道徳」を笑いものにしたが、まったくもって余計なお世話! 拘束着を文明的、道徳的と思い込み、不自由な生活をしている西欧人の方が変なのだ。

18,19世紀のコルセットで腰を異様なまでに締め付けた西洋女性と、上半身裸でくつろいでいる東洋女性を比較してみよ。自由で道徳的で高貴なのは、明らかに東洋女性だ。ゴーギャンに聞くまでもない。

 
 ■寺院広場で沐浴-B/寺院で野菜干し-B

 
 ■籾干し(5)-B/マナスル-B

4.ネクタイで拘束されるネパール人
そこで嘆かわしいのが、東洋人の自尊心自己放棄。クソ暑いタイなどでも、クーラーをかけ、背広にネクタイ。不道徳の極みだ。

そして、わがネパール。まったくもって理解しがたいのは、私学が流行し始めると、各学校が競って生徒にネクタイを強制したこと。私の交流校の一つも、20年ほど前の創立時から、1年生から最上級生までの男女生徒にネクタイをさせている。

こちらは半袖、ノーネクタイだというのに、まったくもって西洋の猿まね、自尊心放棄であり、不道徳きわまりない。半裸女性の自立自尊に学ぶべきだ。

 
 ■脱穀機と籾-K/籾干し(5)-B

5.資本主義と英語帝国主義の走狗、私学
私学は、コカナ、ブンガマティ付近にも、驚くほどたくさんある。いずれも豪華な建物で、学費も高そうだ。そして、競って校舎に、SLC優秀者の顔写真付一覧表を掲げている。

大部分の私学が、もちろん洋式正装。おまけに母語使用は厳禁され、一日中、英語で生活させられる。保育園から始める私学もあるから、オーストラリアで厳しく批判された、アボリジニの子供を親から引き離し、白人英語文化で育て、「文明人」にする手法と同じだ。愚劣きわまりない。

こうした金儲け主義私学の生徒は、資本主義と英語帝国主義の奴隷にされた、かわいそうな子供たちだ。彼らには、自由も自律もない。根本的なところで、母語や自文化を軽蔑、放棄させられているからだ。

民族アイデンティティ主義者は、民族別連邦制などとくだらないことをいう前に、率先して自分の子供をこの種の私学に通わせることをやめるべきだ。自分の子供を母語と自文化の中で育てる努力を始めるなら、多少は言行一致、西洋迎合の表向きの主張にもある程度の説得力が得られるであろう。

子供を私学に通わせ、英語文化漬けにし、洋行をねらう「文明人」に比べ、ブンガマティの上半身裸で屈託無く昼寝や籾干しをしている女性たちは、はるかに自然で自由だ。彼女らを見て、ゆめゆめ「未開」だの「野蛮」だの「不道徳」などと、誤解してはならない。不自由で不道徳なのは、拘束着を着ている西洋人や、それ以上に、西洋人の目を持たされてしまった卑屈な日本人自身なのだから。

 
 ■ザルとトウモロコシ-B/籾干し(6)-B

6.文明化しない犬
ブンガマティは、よい村だが、その分、犬も文明化していない。表通りを外れ、少し裏道に入ろうとすると、犬がうなり声を上げ、よそ者「文明人」を威嚇してくる。犬は、感情に素直であり、自然が命じるままに、自分たちの文化にとって危険な堕落した「文明人」を排除しようとするのだ。

これは恐ろしい。犬は本気だ。こういう場合、かつて西洋人は軍隊を派遣し撃ち殺したが、私は平和主義者、犬の守る彼らの聖域には立ち入らないことにした。

というわけで、犬たちに追い返され、やむなくブンガマティ周辺の立ち入った散策はあきらめ、コカナに引き返した。

 
 ■窓と花-K/寺院の鐘と籾干し

7.バイセパティ
コカナからは、バス道をパタンに向けて歩いた。車やバイクが多く、面白い道ではない。パタンまで半分くらいきたところのバイセパティであきらめ、タクシーでキルティプールに戻った。

 ■民家(?)とヒマラヤ(バニヤガオン付近)

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/11/24 at 13:36

キルティプールのガート:自然に包まれて

1.仏教ゴンパと援助ロープウェー残骸オブジェ
11月21日、キルティプールの西方へ散策に出かけた。丘の西北端、インドラヤニのすぐ下に、援助ロープウェーの巨大な残骸があり、それにブーゲンビリアの大木がからみつき、巧まずして見事なオブジェとなっている。

その左横奥には、大きな美しい仏教ゴンパがある。誰でも入れ、花々が咲き乱れるヒマラヤ展望の名所である。本堂内ではネパール語・英語使用の法話を聴くこともできる。

 
 ■インドラヤニからのヒマラヤ/ゴンパからのヒマラヤ

 
 ■ロープウェー残骸オブジェ/ガート公園と残骸ロープウェー(上方)

2.ガート公園(仮称)
そのゴンパの隣に小学校があり、その横の小道を下りていくと、谷底の小川の側に小さな寺院インドラヤニ・サムサンがあり、その川岸がどうやらこの付近のガート(火葬場)となっているようだ。一昨日近くを通ったとき葬儀参列者が集まっていたし、今日も30人ほど集まり火葬の準備をしていた。かなりの人が、ここで荼毘に付されるのだろう。

この谷は、キルティプールの丘と西向かいの丘の狭間で、垂直に近い角度で切れ込んでいる。上からのぞくと足がすくむほどだ。キルティプール側は、公園として整備されているらしく、斜面には桜が植えられ、小道も造られ、あちこちに鉄製ベンチが置いてある。

このガート公園(仮称)は放牧が認められているらしく、牛や羊があちこちで草をはんだり、寝そべったりしている。ガート側の小川では、女性たちが洗濯し、洗った布を周辺の草地に広げ干している。その側では子供たちが遊び回り、近くの田では刈り取り・脱穀後の稲藁を広げて干したり束ねて運んだりしている。小春日和の、のどかな田園風景である。

このいつもと変わらない自然な風景の中で、この地方の荼毘は執り行われているようだ。

ネパールの火葬場としては、パシュパティナートが有名だ。寺院は立派だし、川岸の火葬施設も整備されている。しかし、その反面、寺院は制度としてのヒンドゥー教の権威の具現であり、良く言えば荘厳、逆に言えばケバケバしいこけおどし。ここでの葬儀は、死者と縁者のためというよりは、権威と見栄のためのよう思えてならない。

 
 ■公園の桜と羊/寺院と葬儀参列者(左上)

 
 ■ガートと牛/ガートで洗濯

2.日本の葬式産業
このことは、日本の葬式について、特に強く感じる。葬式はますます形式化し、寺と業者の商売となり、とんでもない金がかかるようになった。特に悲惨なのが、地方。

いま日本の地方では、高齢化が進み、当然、結婚や誕生は少なく、葬式が多くなる。その結果、驚くべきことに、田舎では、葬儀業者がアンテナを張り巡らせ、誰かが死ぬと、いち早くキャッチし、競って新聞チラシに死亡情報を掲載する。次の顧客――死亡待機者――を獲得するためである。いま田舎の朝は、新聞を広げ、死亡広告チラシを見るのが、日課となっている。

おかげで、田舎の「死の商人」は景気がよい。大きて立派な建物は、有料老人ホームか葬儀催事場と見て、まず間違いない。

私は、こんな葬儀はいやだな。自分の死を寺や僧侶や葬儀社の金儲けの種にされたくない。死は本来自然なものだ。死とともに、自然の中に自然に帰っていくのが理想だ。

3.死して自然に帰る
自然に帰るという点では、このキルティプール・ガートでの荼毘は理想に近い。伝統社会の葬儀は、一般に多くの儀礼に縛られるから、キルティプールでも死後の儀礼は多数あるであろうが、少なくともこの火葬場での荼毘に限れば、ごく自然だといってよい。参列者の多くは平服であったり、ごく質素な喪服だし、ケバケバしい飾り物があるわけではない。

荼毘そのものは見ていないが、ここでの火葬は、花々が咲き、牛や羊が草をはみ、女たちが洗濯し、子供たちが遊び、農民が稲藁集めをする、その自然な風景の中で、自然に執り行われるものであるに違いない。近親者の悲しみは、遠くからでも、よく感じ取れる。それすらも、自然は優しく受け入れ、自然のうちにいやしてくれているようだ。

私の葬儀も、このような自然に抱き包まれるような、自然なものであることを願っている。

  
 ■対岸のチョータラとヒマラヤ/峡谷と新興住宅街

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/11/23 at 15:43

カテゴリー: 社会, 文化

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