ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

棄権か死票か?

明日は投票日。テレビ・新聞は声を揃えて、「投票に行こう!」と、お説教をしている。しかし、今回の選挙での投票に、どのような意味があるのか? この根源的な問いが、少なくとも、もっと議論はされてしかるべきであろう。

そもそも、この選挙自体が、「違憲状態」つまり違憲なのだ。違憲と判っていて、投票するのか? 投票すれば、どの党に入れようが、選挙の正統性を認めたことになる。憲法は最高法規である。憲法を守るなら、棄権こそが国民の義務となる。

あるいは、今回の選挙のように、大局的に大勢がほぼ見えているように思われる場合、多数派への反対意思を表明するため、落選確実と見られている候補(政党)へ投票すること、つまり死票に、どのような意味があるのか? 死票も、投票には参加するわけだから、多数派追認のための違憲選挙の根本的否定にはならない。これは、白票でも同じことである。死票も白票も、投票という形で選挙の正統性、そして選挙で形式的に選出される既成多数派の根源的正統性を保証する。

死票も白票も政治的には「無」ではなく、既成の体制を、その根底において正統化する役割を果たす。

棄権はいずれとも違う。棄権は選挙に参加せず、したがって政治的には既成の体制そのものの拒否となる。棄権はラディカルであり、死票や白票よりも強力だ。棄権は危険である。

これに対しテレビ・新聞は基本的に体制擁護だから、この危険な棄権をとにかくなくそうと、声を揃えて「投票に行こう!」と、大合唱を繰り返している。原発安全神話と同種の「選挙神話」である。専門的には「選挙民主主義(electoral democracy」。

マスコミは、たとえベストがなくてもベターな選択はある。とにかく選挙には行くべきだ。それが、あなたのため、国民のため、と強弁する。これはウソだ。あるいは、より正確には、どのような場合にも妥当する自明の真理ではない。これは、原発神話とは別種の、だが同程度に危険な「神話」だ。われわれは、選挙に行く前に、少なくとも一度はこの選挙神話をも疑ってみるべきだ。異論なき議論はお説教であり、たいていまやかしだ。

「棄権」は、決して、非国民的国家反逆行為ではない。日本の現状を深く憂うが故に、熟考の上、あえてもっとも過激な「棄権」を選択する。これも立派な政治的態度だ。もし自覚的棄権が増加し、投票率が50%を下回る、あるいは40%を切るような事態になれば、政治への根本的反省が始まるはずだ。

かつて共産主義国では投票率98%とか99%も決して珍しくはなかった。わが村でも投票率はつねに80%以上だ。これをもって政治意識が高いとか民主的とかいえるであろうか?

ゆめゆめ大政翼賛会的な、「選挙に行こう!」大合唱に洗脳されてはならない。選挙神話は、少なくとも棄権と同程度に危険だ。投票と棄権の政治的意味をよく比較し、熟考し、投票するか棄権するかを冷静に判断すべきだろう。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/12/15 @ 23:50

カテゴリー: 選挙

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