ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

Anand Aditya ed., Civil Society-State Interface in Nepal

11月末、本書の出版披露の会に招かれたが、風邪気味のため欠席してしまった。日本語ではあるが、ここで紹介し、ご招待のお礼に代えたい。

▼Anand Aditya ed., The Civil Society-State Interface in Nepal: Renegotiating the Role between the Private and the Political,Sanepa, Nepal: Pragya Foundation and Friedrich Ebert Foundation, 2011.

FOREWORD
PREFACE
FROM SUBJECTS TO CITIZENS: Civic Transformation in a Captive State –Anand Aditya
THE ENLIGHTENMENT TRADITION OF NEPAL: Can the Civil Society Grasp It? — Dev Raj Dahal
ROLE OF CIVIL SOCIETY IN THE PEACE PROCESS IN NEPAL — Anjoo Sharan Upadhyaya and Hemraj Subedee
THE CIVIL SOCIETY-STATE INTERFACE — C. D. Bhatta
PEACE POLITICS AND CIVIL SOCIETY IN NEPAL: The Space to Mediate the Fault-Lines — Tika P. Dhaka!
MULTI-TRACK APPROACHES TO PEACEBUILDING IN NEPAL: Public Morality as an Issue in the Future Civil State — Tone Bleie
CHALLENGES OF CITIZENSHIP BUILDING IN NEPAL — Yubaraj Ghimire, journalist
CHALLENGES TO TRANSITIONAL JUSTICE IN NEPAL: The Role of Civil Society — Julius Engel
REIEECTIONS ON CIVIL SOCIETY — Shambhu Ram Simkhada
RESULTS OF OPINION POLL ON CIVIL SOCIETY IN NEPAL: 2011 — Pramod R. Mishra

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ネパールでは、王制→立憲君主制(1990-2007)→民主共和制(2007-)という体制移行が20年余の短期間に行われたため、民主共和制の基盤となるはずの市民社会の形成がそれについて行けなかった。

この事態を憂慮したのが西洋諸国の援助関係者である。彼らはネパール側に強く働きかけ、様々な援助やセミナーを通して市民社会(Civil Society)を育成しようとした。

その結果、たとえば市民社会の中心となるNGO(非政府組織)は、本書によれば、下図のように激増した。これは1999年までの統計だが、その後もNGOは増加しており、いまやネパールは世界有数のNGO大国といってもよいであろう。

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 ■ネパールの公認NGO数(8頁)

しかし、問題がないわけではない。市民社会は、編者アディチャによれば、「公的(public)」なものであり、「市民個々人の私的領域と政府の政治的領域の間のギャップを架橋すること」(序文)を任務としている。換言すれば、それは、私的・個人的でもなく、政治的・国家的でもないものである。

問題はここにある。1990年民主革命以前のネパールは、まだ近代以前であり、そこには明確な私的領域も明確な政治的領域もなかった。それは公私未分化の封建社会といってよいだろう。この社会は、公私未分化であるから、その限りでは、一見「市民社会」のようでもある。

したがって、もしそうであるならば、この公私未分化の伝統的社会関係を「市民社会」の中に滑り込ませることもできるのではないか? あるいは、換言するなら、西洋諸国の現代の市民社会論は近代市民革命を経て成立したものだが、それを棚上げし、ネパールに現代市民社会論をそのまま持ち込むと、それは、前近代的なネパールの人間関係や社会関係に「市民社会」という新しい衣を着せ、それらを温存することになるのではないか? 

先述のように、ネパールはNGO天国であり、おびただしい数のNGO、PPT(Public Private Partnership)、Cooperativeなどがあるが、運営の実態をみると、多くが前近代的なものといわざるをえない。ネパールの市民社会論は、西洋諸国の市民社会論者が何を言おうとも、まずはこの自らの組織の現実を直視することから始めるべきであろう。

この観点から見ると、本書の議論もやや物足りないが、それでもいくつか注目すべき議論は現れ始めている。たとえば、Tone Bleieはこう述べている。

「個人の権利と集団の権利のバランスが大切である。」(158頁)
「内面化された個人の良心こそが公的道徳を育成する。」(161頁)
「近代以前にはカーストが社会集団とアイデンティティの基礎であったが、これがいま、原初的民族アイデンティティや民族ナショナリズム・アイデンティティに置き換えられつつある。」(166頁)

つまり、前近代的カーストを既存の民族や他の社会集団によって置き換えてみても、何ら問題の解決にはならないということである。

ネパールには、公式統計によれば、カースト/ジャーティが100以上ある。それぞれが多かれ少なかれ独自のアイデンティティを持つ社会集団である。そうした状況の下で、もし個人の主体性、個人の内面化された独立の良心、個人の固有の権利といったものが棚上げされ、個人と国家の中間の「公的領域」とか「市民社会」を主張すれば、既存のカースト/ジャーティなどがNGO、PPT、Cooperativeなどといったものに衣替えし、実態はあまり変わらないまま存続するであろうことは明白である。

ネパールの市民社会論は、近代市民革命の理念を軽々と飛び越え「超克」するのではなく、そこに愚直に立ち返り十分に「内面化」した上で、それを基礎に自らを再構築していくべきであろう。迂遠かもしれないが、市民社会の成熟にはそれしか道はあるまい。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2012/12/28 @ 21:07

カテゴリー: 政治,

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