ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

ガルトゥング提案の観念性と危険性

訪ネ中のガルトゥング教授のインタビュー記事を「ヒマラヤン・タイムズ」(2月14日)が掲載している。教授は平和学の権威であり,国際社会の平和政策にも絶大な影響力をお持ちだが,もし記事が教授の発言を正しく伝えているとするなら,教授のネパール政治分析と政策提案には落胆せざるをえない。いやそれどころか,ネパールにこれまで深く関与されてきたことを考えると,教授の諸提案はいささか無責任なような印象さえ禁じ得ない。

1.政党利己支配(partyocracy)
ガルトゥング教授によれば,ネパール政治は,マオイストの国政参加後も「政党利己支配(partyocracy)」の強化を除けば,他は何も変わっていない。

「一国家,二軍隊,王制と[国王の]直接専制支配はもはや存在しない。しかし,事態は以前と同じだ。憲法制定の見込みはなく,議会もなく,選挙された政府もなく,和平プロセスを担う機関もなく,不平等の改善もない。民主主義はなく,あるのは政党利己支配(少数の政党が議会制民主主義の諸制度を危険に陥れる政治的疾病)のみだ。」

この現状認識は,一般に広く共有されている。常識といってもよい。

2.アイデンティティ連邦制
そこで次に,少し具体的な話になる。まず連邦制だが,ガルトゥング教授は,以前からアイデンティティ(カースト/民族)による州区画を説かれていた。

教授は,そのアイデンティティ連邦制がいまも望ましいといいつつも,ここでは世界の25の連邦国家のうちアイデンティティ州区画をしているのは4カ国(印,マレーシア,ベルギー,スイス)だけだと認め,「ネパールにとって参考になる別のモデルは,マレーシアとインドの連邦制の組み合わせであろう」と提案されている。

意味不明。ひょっとすると,これは,インドもマレーシアも英植民地であったから,植民地時代の区画(スルタンやラージャの領地)を州区画とせよ,ということかもしれない。しかし,ネパールは,両国とちがい,有史以来独立国であり,植民地にはならなかった。あるいは,プリトビナラヤン・シャハ王の頃の小王国領を州区画にせよとでもいうのであろうか? まさか! よく分からない。

そもそも,マレーシアは立憲君主制のイスラム教国であり,中央権力が強い。また,インドもユニオン(連邦)権力が強く,単一制に近い連邦国家として知られている。ガルトゥング教授は,両国のどこがネパール連邦制のモデルになるといわれているのか,さっぱりわからない。

3.「カトマンズ・ゲーム」
中央政府権力の強いマレーシアやインドをモデルとせよと提案される一方,ガルトゥング教授は,カトマンズ中心主義(Kathmandu-game)を打破せよ,と主張される。

教授によれば,国王,ラナ家,封建領主らはみな,「カトマンズ・ゲーム」に明け暮れてきた。そしていま,政党が同じことをしている。制憲議会解散も憲法制定失敗も,カトマンズが地方を支配するための陰謀だ。「国王もラナ家も封建領主も一つのことではほぼ同じ考えだった――人民を搾取せよ。」

教授は,これは悪質なガンのようなものであり,直ちに治療しないと「新しい暴力」が始まるだろう,と警告される。

「もし治療するつもりなら,人民の三分の二の下層の人々を引き上げる必要がある。」

中央集権国家をモデルとせよといいつつも,カトマンズ中心主義がガンであり,治療しないと再び暴力紛争が始まると警告される。いったい,どうすればいいのだろうか?

そもそも人民の三分の二の生活を引き上げることができるのなら,誰も苦労はしない。ネパール人民の三分の二,つまり1800万もの人々の生活を,いったいどのような方法で向上させるのか? 強力な中央権力なしにそんなことができるのか? 教授からは,具体的な提案は何もない。

4.人民投票による連邦制
ガルトゥング教授の提案は,矛盾と観念論に留まらず,とんでもない危険へと人々を導いていく。つまり,政党は「草の根」に働きかけよ,と扇動されるのだ。

「どの政党も組織も政府も,草の根の人々とは結びついていなかった。」

連邦制は,少数の政党だけで決められるものではない。人民にはかり決めるべきだ。つまり「人民投票が方法としてはよいだろう」という。

しかし,これは変ではないか? 多数決では決められないから,あるいは決めてはいけないから,という理由でカースト/民族自治の連邦制を提案しておきながら,結局は,数で決めよ,というのだ。

たかだか601人の議会で決められなかったことが,どうして膨大な数(2千万以上?)の有権者人民によって決められるのだろうか? 決められるとすれば,手品か奇跡だ。具体的な州区画も権限分配も決めずに,「連邦制に賛成・反対」といった観念論投票をやるのだろうか? やってやれないことはないが,実際には,このような投票は無意味なばかりか,限りなく白紙委任に近く,危険でもある。

5.マオイストは地域を変革せよ
ガルトゥング教授は,政党は「カトマンズ・ゲーム」ではなく「草の根」と結びつくべきだという考えから,マオイストに対しても「草の根」への働きかけを提案される。

「マオイストへの私の提案は,ネパールを全体として変えようとするな,地域社会に焦点を当てよ,ということにつきる。」

教授は,マオイストがこれまで村や町で何をしてきたか,よくご存じのはずである。地域の「草の根」の人々は,マオイストが中央政界に活動の重点を移してくれたので,やっと一息ついているところだ。

それなのに,教授は,そんな「カトマンズ・ゲーム」はやめ,村や町の「草の根」の人々の生活に介入し,変革せよ,と提案される。

「草の根」民主主義が,ノルウェーや欧米の国々,あるいはひょっとすると日本でも重要なのはよく分かる。しかし,状況を無視して理念を押しつけるのは,「原理主義」であり,危険である。かつて各地に設立された「人民政府」こそが,マオイストにとっては「草の根」民主主義ということになるのではないだろうか? その原点に立ち戻れということなのだろうか?

6.最高裁長官の首相任命に反対
ガルトゥング教授は,最高裁判所長官の暫定首相への任命にもまた,人民の直接表明した意思によらないとして,真っ向から反対される。それは,「専門家(エリート)支配(technocracy)への動き」であり,「政党利己支配への反発(reaction)」にすぎないというのである。

しかし,この議論も,現実を見ない観念論である。第一に,「草の根」から「人民意思」がどう形成されるのか,そして,現在のネパールでそれがどこまで可能か,といった基礎的な議論がない。まさか,選挙(投票)により「人民」の「意思」が表明されるなどといった楽観論はおとりではあるまい。

選挙がある程度有効に機能するには,多くの前提条件が満たされている必要がある。アメリカやその意を体する国連は,選挙すれば「人民意思」が発見され,それに基づく統治は民主政治だなどと無責任なことをいい,それを途上国に押しつけてきたが,これは根拠なき「選挙民主主義(electoral democracy)」である。選挙過信や「人民意思」の実体化ほど危険なことはない。ガルトゥング教授には,「草の根」民主主義と「選挙」民主主義の間の十分な架橋がないように思われる。

第二に,現在のネパールの三権のうち,正統性をかろうじて残しているのは,大統領と最高裁判所長官だけである。議会(立法権)はなく,政府(内閣,行政権)は次の政府へのつなぎ役にすぎない。政党はもちろん,2008年4月選挙に基づくものにすぎず,現在の人民の意思など代表してはいない。2012年5月末以来の無議会政治によりバタライ首相が正統性をあらかた失ってしまったことは,これまたいうまでもない。

この状況で,選挙をするとすれば,結局,大統領の下での選挙か,それができないのであれば,次善の策として,最高裁長官あるいはその選任する者を「破綻国家の管財人」のようなものとして選挙を実施するしか,選択肢はあるまい。しかしながら,最高裁長官の場合,司法権・行政権分離の原則からすると難しい問題もあるので,やはり国家元首としての大統領の下での選挙が最善であろう。民意を代表しない諸政党の談合首相任命よりも,大統領の下での選挙の方が,正統性と透明性ははるかに大きい。

ガルトゥング教授は「専門家(エリート)支配」と批判されるが,政治の場では,大統領委任独裁や,それに準ずるエリート統治が選挙民主主義よりもはるかに安全で効果的なことが決して少なくない。

議会はなく,政党も民意を代表していないとすれば,現行憲法で正統性を持つ大統領が選挙管理政府を率いらざるをえないのではないだろうか。

7.政官民有力者とのカトマンズ会談
ガルトゥング教授は,滞在中に,カトマンズで,大統領閣下をはじめとする政府高官,政党指導者,市民社会リーダー,専門職団体リーダーらと会談されるという。地方の村や町での「草の根」の人々との対話の有無については,記事には記載されていない。

――以上は,あくまでも「ヒマラヤン・タイムズ」のインタビュー記事に基づく批評である。おそらく,記事は,ガルトゥング教授の発言を正確には伝えていないのであろう。後日,大幅な訂正記事が出るにちがいない。もしそうなら,改めて,教授の正確なお考えを紹介することにする。

【参照】ガルトゥング教授関連記事

谷川昌幸(C)