ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

紹介:『ナラク ゴビンダ・マイナリ獄中日記』(1)

いわゆる「東電OL殺人事件(1997年3月)」の犯人として投獄され,15年後,再審無罪となったゴビンダ・マイナリ氏の獄中日記。大学ノート18冊のネパール語日記を,東豊久・蓮見順子両氏が翻訳し,今井恭平氏が編集・整理した。収録は,上告棄却・無期懲役刑確定後の2003年6月14日から,再審無罪判決をうけ出国する前日の2012年6月14日までの日記が中心。

ゴビンダ・マイナリ著,今井恭平編・解説『ナラク ゴビンダ・マイナリ獄中日記』希の樹出版,255頁,2013年,1800円

130705 ■表紙カバー

1.事件の概要
1997年03月08日 東電女性社員,渋谷区のアパートで殺害。
---03月19日 殺害遺体発見。
---03月23日 ゴビンダ・マイナリ氏,入管難民法違反(オーバーステイ,不法残留)容疑で逮捕。
---05月20日 入管難民法違反で東京地裁,執行猶予判決。判決後,強盗殺人容疑で再逮捕。
---06月10日 強盗殺人罪で東京地裁に起訴。
2000年04月14日 東京地裁(大渕裁判長),無罪判決。
---04月18日 東京地検,控訴し再勾留要請。
---04月19日 東京地裁,再勾留要請却下。東京高検,東京高裁第5特別部に再勾留要請。
---04月20日 東京高裁第5特別部,再勾留要請却下。
---05月01日 東京高検,東京高裁第4刑事部(高木部長)に再勾留要請。
---05月08日 東京高裁第4刑事部(高木部長),再勾留許可。
---12月22日 東京高裁(高木裁判長),無期懲役の有罪判決
2003年10月20日 最高裁,上告棄却。無期懲役の有罪確定。
2005年03月24日 東京高裁へ再審請求。
2012年06月07日 東京高裁,再審開始を決定し,刑の執行停止。入管移送。
---06月15日 マイナリ氏,日本出国。
---11月07日 東京高裁,控訴棄却(無罪判決)。検察上告せず,無罪確定。
2013年02月06日 東京地裁,マイナリ氏刑事補償金6840万円,決定。

2.事件の特異性:陰湿な癒やしの多層構造
「東電OL殺人事件」は,特異なショッキングな事件であった。殺されたのは,東京電力の「美人エリートOL(39歳)」。平日昼間は東電管理職として働き,退社後や土曜は,連日,客を取り売春をしていた。そして,殺した犯人として逮捕されたのは,インド料理店で働いていた出稼ぎ外国人で不法滞在(オーバーステイ)のネパール人,ゴビンダ・マイナリ氏(30歳)。

世間は,被害者女性の昼と夜のあまりの落差に驚き,また被害者と犯人の間の境遇の相違とある種の類似性の併存に興味をそそられた。人もうらやむ超一流企業の有能な美人エリート女性社員が,退社後,街娼となり,客の不法滞在ネパール人に殺された。いったいなぜ彼女はそのような二重生活に陥り,あげくは見るも無惨な姿で殺されねばならなかったのか? あるいは,不法滞在ネパール人は,路上で彼女を買い,安アパートの空き部屋で性交渉をしたあと,なぜ彼女を殺してしまったのか?

事件は,人びとの興味を異様にそそるものであり,連日,新聞,テレビ,雑誌などが被害者と犯人の経歴,行動,人間関係,あるいは彼らの心理や動機などについて,あれこれ書き立てた。それらの中には,殺された当の被害者とその家族であることを忘れたかのような暴露記事や,いわゆる「ドキュメンタリー」も少なくなかった。

この事件は,こうした特異な多層構造をもつが故に,日本人が多かれ少なかれ抱く屈折した劣等感を,隠微にして淫靡に癒やしてくれた。あの東電OLに比べれば,自分は・・・・,あの出稼ぎネパール人に比べれば,日本人は・・・・といった陰湿なノゾキの快楽であり,また代償的アジア蔑視の国民的自慰である。

3.裁判の特異性:違憲の検察上訴と再勾留
「東電OL殺人事件」は,裁判としても特異で異常なものであった。

ゴビンダ・マイナリ氏は,殺された東電女性社員の売春客であったことを認め,彼女との性交渉を示す遺留証拠もあったが,殺害は一貫して否認した。

(1)再勾留の違憲性
一審の東京地裁(大渕裁判長)は,検察側の主張を退け,マイナリ氏を有罪とするだけの十分な証拠はないとして,無罪の判決を下した。マイナリ氏は,すでに入管難民法違反で懲役1年執行猶予3年の有罪判決が確定していたので,本来なら,この地裁無罪判決後,身柄を入管に移され,強制国外退去処分とされるはずであった。法もそう規定している。

憲法第34条 何人も,正当な理由がなければ,拘禁されず・・・・
刑事訴訟法第345条 無罪・・・・の裁判の告知があったときは,勾留状は,その効力を失う。

ところが検察は,憲法も刑事訴訟法も無視(都合よく解釈)し,身柄確保のため再勾留を要請した。再勾留要請→東京地裁却下→東京高裁第5特別部却下→東京高裁第4刑事部(高木部長)許可。この経過を見ただけでも,検察の再勾留要請がいかに強引であったかは,明白だ。無罪判決後の再勾留は,憲法違反であり,外国人差別であり,国際人権法違反である。

検察は,この強引な再勾留で身柄を確保しつつ,東京高裁(高木裁判長)に控訴,以後,裁判は検察ペースで進み,2000年12月,東京高裁(高木裁判長)で無期懲役の有罪判決が下され,この判決が2003年10月,最高裁上告棄却により確定したのである。

(2)検察上訴の違憲性
この「東電OL殺人事件」の捜査・裁判過程には,別件逮捕,通訳なしなどの強引な取り調べ,犯行と矛盾する証拠の無視,重要証拠の非開示など,様々な問題があるが,最も根本的な問題は,再勾留の根拠ともされている検察上訴そのものである。憲法は次のように定めている。

憲法第39条 何人も,・・・・すでに無罪とされた行為については,刑事上の責任を問はれない。

ここでいう「無罪」は,一審であれ二審であれ,裁判所の下した「無罪」判決である。ところが,最高裁も検察も,これを勝手に「確定裁判による無罪」と読み替え,無罪判決を不服とする検察上訴を続けてきた。

この検察上訴が違憲であることは,いうまでもない。常識(common sense)で考えても,それが正義(justice)に反することは明白だ。「justice」は「裁判」であり「裁判官」でもあるから,検察上訴を容認する裁判所や裁判官は,「正義」の常識を持たない非常識なニセ裁判所,ニセ裁判官ということになる。憲法はこうも定めている。

憲法第37条 すべて刑事事件においては,被告人は,公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。

そもそも刑事裁判の被告と検察・裁判所は,ほとんどの点で対等ではない。被告は限られた人生を生き,証拠収集のための能力や資金力もごく限られている。これに対し,検察や裁判所は,機関・組織であり,それら自体は,無限に存続する(と想定されている)。証拠収集のための権限や経費も,被告側とは比較にならないほど大きい。

被告にとって時は金であり取り返しのつかない人生そのものだが,機関・組織としての検察や裁判所にとっては,時間などまったく問題にならない。必要なら100年かけても千年かけても,かまわないわけだ。

この明白な差違も憲法の迅速裁判規定も無視し,あたかも被告と検察官が公平な裁判官の前で裁きを受け,敗訴の場合は,被告側と同様,検察側にも上訴の権利があるなどと強弁するのは,いかに法技術的に洗練(sophisticate)されていようが,三百代言の詭弁(sophism)であり,偽善(hypocrisy)であり,そして,もちろん違憲である。

いうまでもないことだが,一審無罪判決は,警察・検察が強大な捜査権限を行使して捜査したにもかかわらず,有罪にするだけの証拠を法廷に提出できなかった結果に他ならない。無罪判決には,被告側の責任は全くない。検察上訴は,結果に対してまったく責任のない被告側を,全責任を負うべき側が訴えることであり,明らかに正義に反する。現代の三百代言ソフィストならいざ知らず,健全な常識を持つ人であれば誰でも,検察上訴裁判を正義=裁判(justice)とは認めないだろう。

(3)真実解明よりも有罪優先
日本の検察は,真実(真の犯罪事実)の解明よりも,被告を有罪にすることを優先させている。そのためマイナリ裁判でも,検察は捜査で収集した証拠のうち,検察に不利なものは開示しなかった。

常識では,これは正義(justice)に反する。だから不都合な真実を隠して行われた裁判は,本当の裁判(justice)ではなかった。15年後の段階になってようやく,検察が隠していた証拠が弁護団の粘り強い努力により開示され,それらの鑑定により明らかとなった真実(真の犯罪事実)により,マイナリ氏は無罪となった。

この間の15年は,検察にとっても裁判所にとっても,屁のようなもので,痛くも痒くもない。しかしマイナリ氏にとって,1997年(30歳)から2012年(45歳)までの15年間は,本来なら最も充実した壮年期のはず。だが,もはや取り戻しようもない。このような結果は,断じて正義=裁判(justice)ではない。(未完)

→→紹介:『ナラク ゴビンダ・マイナリ獄中日記』(2)

[参照]
ゴビンダ冤罪批判、カトマンズポスト社説
ゴビンダさんの冤罪と日本社会の責任
ゴビンダ・マイナリ氏の再審・無罪判決を
獄中のゴビンダ氏と「支える会」
紹介『東電OL事件:DNAが暴いた闇』
東電OL殺人事件,日弁連会長声明(転載)
東電OL殺人事件,再審決定
Justice for Govinda Mainali jailed in Japan

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2013/08/05 @ 19:13