ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

紹介:『ナラク ゴビンダ・マイナリ獄中日記』(2)

4.獄中日記:日常化した非日常の記録
(1)日常化した獄中生活の記録
ゴビンダ・マイナリ氏の獄中日記『ナラク』は,この事件と裁判の異常性・特異性とは対照的に,記述それ自体はごく日常的であり,「平板」とすらいってもよい文章である。

むろん拘置所や刑務所は特異な世界だが,そこでの生活それ自体はあまり変化がなく,それをそのまま描いているという意味では『ナラク』は日常生活の備忘録的な記録に他ならない。警察・検察や裁判所への怒りや批判,刑務所生活への不満などは随所に述べられているが,一歩踏み込んだ状況の分析や省察は,ほとんど見られない。

130707 ■表紙カバー裏面

(2)読者を想定した日記
この『ナラク』も日記だが,一般に日記には,もっぱら自分自身のために書く場合と,そうではなく,後日何らかのかたちで他人に見せることを想定して書く場合がある。では,『ナラク』はいずれであろうか?

大学ノート18冊の原文から取捨選択・編集されているので断定はできないが,全体を通してみる限り,他人に読まれたくないはずの自慰の記述(150頁)などもあるにはあるが,そうした部分はごくわずかであり,やはり誰かに読まれること,つまり読者を想定し,読者に何かを訴えることを意識して書かれた日記という印象を受ける。

しかし,もしそうだとするなら,『ナラク』はなぜこのような「平板」とも感じられるような記述となっているのだろうか? 読者の関心を喚起し共感を得ようとする特段の工夫や努力は,少なくとも文章からは,あまり見て取れない。なぜなのか?

(3)ネパールの記述スタイル
それは,マイナリ氏に読者に訴え共感を得たいという意識がなかったからではなく,おそらく,ネパール特有の記述スタイルによるところが大きいのではないかと思われる。マイナリ氏は,冒頭で,こう述べている。

「今日から、日々の獄中生活をこのノートに書くことにする。私は読み書きが特に得意という訳でもなく、ましてや詩人や作家でもない。しかし、自分の日常の言葉で、日々の出来事、経験などをあるがままに書いてみたいと思う。」(20頁)

自分は詩人や作家ではないといっているが,この文章を見ただけでも,マイナリ氏が相当の筆力を持っていることは明らかである。「自分の日常の言葉で、日々の出来事、経験などをあるがままに書」くといったことは,誰にでもそう簡単に出来ることではない。

マイナリ氏は,東部ネパールの豊かなブラーマン(バラモン)家庭生まれであり,ネパールで学校教育(高校まで?)を受けているし,もともと進取の気性に富み,読書も好きであったという(Govinda Mainali’s 15 Years of Isolation in Book Now, ekantipur, May 23, 2013)。彼は,学校教育や読書を通して,ネパールの学習方法や記述スタイルを体得していたのである。

ネパールの教育の特徴は,丸暗記である。自分であれこれ考え,思い悩むことなく,与えられた課題やお手本を丸暗記し,問われたら,覚えたことをそのまま答える。これは,ネパール社会の精神的基盤であるヒンドゥー教や仏教の教義学習方法と同じである(マイナリ氏はヒンドゥー教ブラーマン)。丸暗記は,ネパール文化の基調をなしているといってよいであろう。

丸暗記は,出来事や経験をあるがままに(型どおり)観察し,あるがままに記述する,という観察・記述スタイルを育成する。ネパールの児童・生徒の作文や詩がそうだし,新聞・雑誌もそうだ。いや,そればかりか,おびただしい数の学術出版物も,たいていこの意味での型どおりの「対象に即した記述」となっている。

このネパール式記述は,個々人の主体的問題意識創造性を重視する教育を受けた日本人には,退屈で面白くない,と感じられる。どのような出来事や経験であれ,私たちは,自分独自の主体的問題意識(と信じているもの)から分析し,意味づけ,理解しようとする。味も素っ気もないただの素材に,きらびやかな解釈の厚化粧を施し,これによって理解できたと安心し,またそれを世間に示し,注目を集め,評価を得ようとする。私たちは,自意識過剰の近代病にとりつかれているのだ。

しかし,実際には,どのような対象であれ,紋切り型から一歩踏み込み,多少とも独創的な理解に達するのは,並大抵のことではない。それには相当の困難がともなう。そこで,たいていの人びとは,平凡な紋切り型の繰り返しにも,それを突破するための努力にも耐えきれず,すぐ挫折してしまう。そして,その結果,出来事や経験の観察そのものへの意欲を失い,それらの記述を放棄してしまうのである。

ところが,丸暗記型は,そうはならない。いったん課題が与えられたら,対象を観察し,それをあるがままに記述して飽きることがない。マイナリ氏が行ったのも,まさにそれであろう。彼は,逮捕・投獄の不当を訴えることを課題と定め,その一環として獄中での「日々の出来事」や「経験」を「あるがままに」ノートに書き留めていったのである。たとえばーー

「横浜刑務所に行くのは全部で5人、うち4人は日本人で、全員が手錠をされ腰縄に繋がれてマイクロバスで出発した。
 東京拘置所を出ると高速道路に上り、東側から千葉県方向の京葉道路を通り、お台場にあるフジテレビの高層ビルやレインボーブリッジを通過。12時ちょうどに横浜刑務所に着いた。
 12月28日から1月4日まで8日間は正月休みとなる。この休みを東京拘置所で過ごしたあとで、刑務所移送があるだろうと思っていたのだが、その前になってしまった。
 刑務所に着くと、刑務官がまず写真を撮り、荷物を検査して部屋に持ち込む物を仕分けた。昼の12時にパンとリンゴジュース(250ml)、豚肉人りのカレー、揚げ魚などの昼食があった。午後2時に、入浴のため別の建屋に連れて行かれた。。
 風呂につかり、ひげを剃った。全ての荷物を検査し、1号棟の1階105号房に入れられた。そこは雑居房で、ほかに日本人が6人いた。7年も独居房で暮らしてきたので、突然たくさんの人と一緒になり、また部屋にテレビがあるのを見て嬉しくなった。
 部屋の外に、民家やマンション、道路、空には飛行機、何でも見えるのも嬉しかった。
 ここの先輩受刑者は、作業を終えたあと舎房に帰る前に、強制的に全裸にされ、両手両足を高く上げ、性器も見せて刑務官の検査を受ける。初めて刑務所に着いた日、全裸の受刑者たちの踊るようなしぐさを見て衝撃を受け、恐ろしくなった。」(40-41頁)

「トイレに行くときは、まず左手を上げ、駈け足で刑務官の前へ進み、頭を下げて名前と番号を告げる。小便か大便かを言うと、トイレットペーパーをもらえる。プラグを渡され、それを持って真っすぐ列に並び、左、右、左、右と足を運ぶにつれて腕を振ってトイレに進む。プラグをスイッチに差し込むと、緑のランプがドアの上に点灯する。終わると、来た道をそのまま戻る。
 朝食は123号房でとる。ご飯と味噌汁。昼食は12時、第10工場でとらなければならない。今日の昼食は、手の平ほどのスパイス入り豚肉、ご飯、ヌードル、トマトと肉のサラダ、野菜スープ。うまいはずなのだが、食欲がなく、味もしなかった。夕食は5時に123号房で食べた。ご飯、茄子とミックスペジタブルのスープ煮。」(45頁)

ここには,獄中のことが「あるがままに」こまごまと書き連ねてある。そして,この記述スタイルは,内面的なことについても同じだ。たとえば,父の他界を告げられたときの日記――

「思い返すと、私の人生は苦しみばかりで、涙に明け暮れる40年間だった。子供時代も楽ではなかったが、結婚して2年も経たないうちに妻や子供と別れ、日本に来てからの3年間も、働きづめだった。そして日本の刑事司法制度の、悪鬼のような仕打ちによって、偽りの犯人とされ、過酷な監獄暮らしが10年になる。
 実は、何か悪いことが起こる予感がしていた。父と言い争っている夢を見たのだ。ここを出て郷里に戻ったら、プラーナを行って功徳を積み、父の想いを成就させなければならない。
 夜、上級の刑務官が沈んでいる私の様子を見に来た。明日から5日間の連休なので、喪に服すには都合がいい。肉食を絶ち、わずかな米だけを食べ、『バガヴァッド・ギーター』を読誦することで父の霊魂を鎮め、清浄を保とう。刑務官には、そのことをお願いした。」(99頁)

獄中生活は規則づくめで変化に乏しい。たいていの人には,昨日の如く今日もまたあるような獄中生活の「日々の出来事」や「経験」を,毎日記述し続けるだけの根気と忍耐力はあるまい。そんなことを書いて何の意味があるのかと,日本人の多くは,書く前に書くことそれ自体を放棄してしまうであろう。

ところが,丸暗記式教育により課題と対象に即した記述という精神態度を体得していると思われるマイナリ氏は,獄中生活の日常をこまごまと記述して飽きることがない。そのかわり,踏み込んだ分析や意味づけは,ほとんど見られない。こうした記述は,むろん,主体的問題意識を重視する習性の日本人読者にとっては,あまり面白くはないであろう。買ってはみたものの,数ページ読んで,もう十分,わかった,わかったといって放り出すのが関の山だ。

しかし,これこそが本書の持ち味である。非日常が日常となったとき,日本人の多くは,変わることのない日常を描く退屈さに耐えられない。ところが,ネパール文化をバックとするマイナリ氏には,日常となった獄中の「日々の出来事」や「経験」を「あるがままに」書き続けることができたのである。

日記は大学ノート18冊にも及ぶというから,本書に訳出されたのは,その一部にすぎない。十数年の長きにわたって,日常と化した獄中生活を倦むことなく記述し続けてきたマイナリ氏の忍耐と,それを育成したネパール式教育に敬意を表したい。

130707c ■Paribandaka 15 Barsha, Pairavi Book, 2013

5.事件の異常性と『ナラク』の日常性
『ナラク』は,それだけ読めば,獄中の日常的出来事の繰り返しの多い記述にすぎず,あまり面白いとは言えない。その平板さは,この事件や裁判について書かれた日本の多くのドキュメンタリーや記事の面白さ――有り余るほどの主体的問題意識,解釈の独創性,意味付与の豊穣さ――の対極にあるといってもよいだろう。

しかし,『ナラク』の平板さは,マイナリ氏を非日常の日常へと陥れた事件や裁判の特異性あるいは異常性と対比されるとき,別の意味を持つものとして立ち現れてくる。

マイナリ氏に『ナラク』を書かせたのは,不正裁判(unjust-justice)への怒りであるが,裁判を不正に追い込んだのは,私たち自身である。外国人(日本人以外の非西洋人)蔑視と外国人労働者差別,人権無視報道とそれを喜び煽る多くの読者,その「世論」を背に強引な取り調べをする警察・検察と違憲裁判を続ける裁判所・・・・。

われわれは,多かれ少なかれマイナリ氏冤罪の共犯者であるとすれば,その結果の記録である『ナラク』を読む義務が,われわれにはある。おいしそうな解釈の果肉だけ食べ,真実の堅い事実には見向きもしないのであれば,食い逃げといわれても致し方あるまい。

130707b ■本書表紙

→→紹介:『ナラク ゴビンダ・マイナリ獄中日記』(1)

[参照]
ゴビンダ冤罪批判、カトマンズポスト社説
ゴビンダさんの冤罪と日本社会の責任
ゴビンダ・マイナリ氏の再審・無罪判決を
獄中のゴビンダ氏と「支える会」
紹介『東電OL事件:DNAが暴いた闇』
東電OL殺人事件,日弁連会長声明(転載)
東電OL殺人事件,再審決定
Justice for Govinda Mainali jailed in Japan

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2013/08/07 @ 15:05