ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

「風立ちぬ」:ごちゃまぜ中途半端

連日の酷暑に参り,涼みに映画館へ。宮崎駿監督「風立ちぬ」を観てきた。126分の大作。

絵はきれいで,あれこれ考えさせられるところもある作品だが,一度見た限りでは,全体的に中途半端で,とくに三分の二位の部分はダレ気味で,間が持たない感じ。

ストーリーは,堀越二郎のゼロ戦設計に至る半生と堀辰夫『風立ちぬ』を合わせたもの。堀越のことは全く知らないし,『風立ちぬ』もほとんど忘れているが,この合わせ技がうまくいっていない。

企画書(宣伝パンフレット)には,「この映画は実在した堀越二郎と同時代に生きた文学者堀辰雄をごちゃまぜにして,ひとりの主人公“二郎”に仕立てている」と書かれている。いくらなんでも「ごちゃまぜ」はひどいと思ったが,観た後では,たしかに「ごちゃまぜ」という印象を払拭しきれなかった。正直な企画宣伝部員だ。(それとも,これは監督自身の本音か?)

130811a

「ごちゃまぜ」感を禁じ得ないのは,「菜穂子」と「ゼロ戦設計」が二兎追いとなり,どちらつかずとなっているから。「純愛」なら菜穂子を追うべきだが,追い切れない。宣伝文に「愛と青春を描いた一大感動作!!」と謳うが,ちょっと違うのではないか?

この映画のメインテーマは,やはり「ゼロ戦設計」の方であろう。「純愛」をウリとするのなら,戦闘機であれ何であれ「美しい飛行機」でさえあればよい,といった「純粋さ」を追い詰めるべきだった。ところが,二兎追いの結果,「純粋さ」は維持しきれず,随所に戦争批判が織り込まれる。観客はなめられている。中途半端な,平板な戦争批判が,申し訳のサッカリンのように「純粋さ」にまぶされている。観客のためではなく,制作者自身のために。

そもそも堀越二郎といった実在の人物や「風立ちぬ」といった既成作品を下敷きにしたのが,まずかったのではないか? フィクションに徹していたら,純粋に生きようとする人々が自他を傷つけ,あるいは悪に荷担せざるを得ない人生の不条理を,美しくも切なく,冷酷にして残酷に描けたのではないだろうか?

この映画では,「ピラミッドの無い世界より有る世界の方がよい」あるいは「(それにもかかわらず)生きねば」といったメッセージが,セリフや語りでくどくど説明されている。作品としての完成度が不十分と言わざるをえない。

[新聞記事:2013.8.21追加]
映画:賛否両論「風立ちぬ」「感動」×「違和感」キーワードは「ピラミッド」 (毎日新聞2013年08月21日東京夕刊)

私(記者)も見た。126分の上映時間が過ぎ、エンドマークが出る。沈黙。周囲の観客はささやきすら交わさず、おもむろに帰り支度を始める。そう、感想を言葉にしようにも、言葉にならないのだ。「宮崎監督は何を訴えたかったのだろう」。素朴な疑問がいつまでも消えない。

この記者の疑問は「素朴」ではない。やはり,できが悪いのだ。記事によれば,東浩紀,中森明夫,藤原帰一,渡辺真由子,大高宏雄といった人たちも厳しい評価をしているという。

[新聞記事:2013年9月28日追加]
沢木耕太郎氏が「風立ちぬ」を批評している。言葉使いは慎重だが,「大人のための作品」でも子供のための作品でもないとは,手厳しい。根本的な批判であり,要するに,失敗作という評価であろう。

沢木耕太郎「銀の街から:風立ちぬ」(朝日新聞,2013年9月27日)
「これは宮崎駿の作品ではない・・・・」
「(二郎の零戦と菜穂子の恋という)この二つの要素は,映画の中で,有機的な融合がなされていない。」
「二郎の前には,多少の風は吹き渡っていても凹凸のない平原があるだけだ。険しい山もなければ,深い谷もない。」
「この『バリアフリー』化に輪をかけたのが,主人公の声である。主人公の声に物語の起伏を生みだす力がなかったため,ますます『風立ちぬ』は平坦なものになってしまった。」
「もし,この『風立ちぬ』を見て,子供たちが退屈するとしたら,それは『大人のための作品』だったからではない。」
「これは新しいものを生みだした作品ではなく,かつてあったものが失われた映画だったからである。」

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2013/08/11 @ 11:00

カテゴリー: 平和, 文化

Tagged with , , , ,