ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

Archive for 1月 2015

交差点に見る前近代・近代・近代以後

ネパールの交差点は,文化の交差点であり,一目でネパール文化のありようが見て取れる。この写真は,ナラヤンヒティ王宮博物館前。左が交通警官,右下が信号機,そして右上がソーラーLED照明。
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これは,ニューバネスワル(制憲議会前)。左が交通警官,中央がソーラーLED照明,右が信号機。
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これらの交差点において,交通警官は,人々の動きを見て交通整理をしている。これは人の支配としての人治であり,したがって「前近代」。

これに対し,信号機は,定められた規則により合理的・機械的に交通整理。これは非人間的な合理的な規則による支配であり,法治(法の支配)であり,したがって「近代」。

そして,ソーラーLED照明は,人間が作ったものながら,設置後は自然光の恵みにより自動的に発電し交差点を照らす。その限りでは人為を超克しており,いわば「近代以後」。

カトマンズの交差点では,見た限りでは,信号機は全滅,まともに機能しているものは一つもない。点灯していても,点滅であり,実際の交通整理は,交通警官が手信号でやっている。つまり,近代原理の象徴たる信号機は,日本援助などで何回も導入が試みられてきたにもかかわらず,ネパール社会には受け入れられず,打ち捨てられ,埃まみれの立ち枯れ信号機の無残な姿をさらすことになっている。交差点において,「近代」は「前近代」に完全敗北したのだ。

では,ソーラーLED照明はどうか? うまく維持され機能すれば,「近代」を超克する「近代以後」の象徴となり,世界中の絶賛を浴びることになるだろう。「近代」なきネパールにおける「近代以後(ポストモダン)」の輝かしい勝利。さて,どうなるか? 興味深い。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2015/01/26 at 14:17

憲法制定期限切れ

中国南方航空便が天候不良欠航となり広州一泊,1日遅れの22日昼過ぎカトマンズについた。22日は憲法制定期限日,もめてバンダ乱闘かなと覚悟していたら,街はいたって平静,デモもなければ,旗もなし。拍子抜けした。

22日夜,国会生中継を見ると,だだっ広い巨大ホールで議員お歴々があちこちで口論,混乱が続いていたが,どうやらこれは議員特権集団内の内輪もめらしい。紛糾し,もめ続け,問題先送りすればするほど,自分たちの既得権益が守られるという構図。23日付各紙にも,ちらほら,そのような趣旨の記事が出ていた。

常識で考えれば,多数決以外での決着は難しい。包摂民主主義は,要するに少数決(少数派拒否権)。こんな判り切ったことを無視して,包摂民主主義原理主義をネパールに押しつけてきた西洋先進諸国の「民主主義産業」の責任は重大だ。自分たちですら満足に実行できもしないことを,ネパールに押しつけてはいけない。ネパールは,西洋政治のモルモットではない。ただし,包摂民主主義が少数派諸集団の解放,権利獲得に果たした役割は甚大で,そのことを無視するものではない。念のため。

今後の選択肢は,いくつかある:
 (1)1990年憲法への復古
 (2)現行暫定憲法の継続
 (3)暫定憲法から「暫定」を削除し,正式憲法とする
 (4)全党合意可能な骨格憲法の制定
 (5)新憲法の速やかな合意採択を目指すが,困難な場合は,票決方法に合意したうえで,票決により新憲法採択

蛮勇をふるってズバリ結論をいうならば,これらのいずれでもかまわない。憲法といっても,成文規定は,広義の憲法の一部に過ぎない。どの国でも,成文憲法は,様々な解釈や慣行によって肉付けされている。憲法は運用により良くも悪くもなる。成文憲法が重要なことは言うまでもないが,いくら重要であっても,不磨の大典ではない。各勢力がこれからつくる成文憲法を過度に絶対視し,自分たちの要求をすべて最初から新憲法に書き込ませようとすれば,新憲法の制定はいつまでたっても無理だ。そこそこのところで妥協して新憲法をつくり,あとは議会内外の政治闘争により民主的に要求を実現していく戦略をとるべきだろう。ネパールでは,これまでにも成文憲法は比較的容易に何回も改正されてきたのだから。

ネパール庶民は,すでに憲法問題にしらけ始めている。23日付各紙も熱気なし。退却的・消極的ニヒリズムの広がりが感じられる。もう少し様子を見ないとはっきりしないが,このままだと,ある意味では独裁よりも危険な権威崩壊としてのニヒリズムに陥りかねない。

▼過激派男子の拠点,トリチャンドラ校(後方)。閑散としている。対照的に,並びのモスク(前方)は人があふれていた。信者がまた増えたようだ。
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▼過激派女子の拠点,パドマカンヤ校。立看もビラもなし。代わりに業者が韓国語学校のビラを校門横に張っていた。憲法より個人実益。
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谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2015/01/24 at 13:48

カテゴリー: 議会, 憲法

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中国の経済発展とマルクス主義と伝統文化

「地球時報(Global Times)」(1月21日)の方には,Liu Sha「中国に必要なイデオロギー教育」が掲載され,金儲け万歳紙面に花を添えていた。

記事によると,中国の大学に必要なのは,イデオロギー教育の強化であり,マルクス主義・社会主義・伝統文化そして「中国の夢」の擁護推進者たることである。

これはもちろん,習近平主席が語ったとされる,大学をマルクス主義研究の拠点とするという方針に沿った記事である。マルクス主義・社会主義と伝統文化を結合した「中国型社会主義」の研究推進拠点。

ところが,記事によると,大学教員の多くは,西側の価値観に心酔し,マルクス主義は小ばかにしている。学生の80%が,そのような教員に教わったことがあるという。

なかなか興味深い。マルクス主義・社会主義と「中国の夢」と伝統文化(traditional values,traditional culture)が,少なくとも表面上は何の留保もなく,何の批判もなく,そのまま擁護推進すべきものとして並べて掲げられている。どう読み解くべきか? 大学教員は,マルクス主義を小ばかにすることなく中国の現状を学問的にどう分析評価すべきなのだろうか?

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■広州空港。大言壮語スローガンはほとんどない。近代化・合理化と資本主義化が進み,共産主義・社会主義の残り香は,空港や航空会社の職員の態度からほのかに感じられるくらい。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2015/01/23 at 14:05

中国紙の面白さ

中国南方航空に乗ったら,1月21日の「China Daily(中国日報)」と「Global Times(地球時報)」があったので,暇つぶしに見ていたら,これがなかなか興味深い。仏風刺画事件や日本人拘束事件のさ中だが,さすがエコノミック昇竜・中国,経済記事が圧倒的に多い。しかも,イケイケどんどん,威勢の良い話ばかりだ。

「中国日報」で目に付いたのが,Zhang Zhao「成都GDP3兆元」。成都がシルクロード経済圏ないしユーラシア経済圏の中核都市として目覚ましい経済発展を遂げているという景気の良い記事だ。

これはまんざらウソでも誇張でもなさそうだ。全世界のコンピュータの20%,ノートパソコン・チップの半分,iPadの三分の二が,ここでつくられている。さらに最先端のIT部品やソフトウェア,自動車などへの投資も続々行われている。「技術の日本」も顔色なし。

成都は2013年,2系統の鉄路で西欧と結ばれた。所要日数13日。中国からは工業製品,西欧からはワインなどが運ばれる。工業製品輸出,農産品輸入! 攻守逆転。この新シルクロード経済圏には,30億の人々が住む。

空路もすでに78都市と結ばれており,東南アジアへは4時間,中東やヨーロッパへは10時間以内。成都はすでにビザなし滞在可能だ。成都は観光都市としても発展している。

このように,これは成都万歳記事だが,成長発展の雰囲気はよく表しているように見える。極東の老化島国・日本とは対照的だ。大局的にみるならば,経済活動の中心は,地の利のある「シルクロード経済圏」に移っていくのではないだろうか?
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谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2015/01/22 at 23:25

カテゴリー: 経済, 中国

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京都の米軍基地(64):兵器と兵員のプレゼンス強化

1.兵器プレゼンスの強化
B・マクガリー「日本におけるミサイル防衛プレゼンスの強化」によれば,経ケ岬は米軍にとって理想的な位置にある。なぜなら――

「ハワイやグアムを標的とする北朝鮮の短距離・中距離ミサイルは,この地域の上を飛ぶであろうからだ。」

京丹後へのXバンドレーダ(TPY-2)配備の目的が,ハワイ・グアム防衛であることは常識だが,こうあっけらかんと説明されると,拍子抜けしてしまう。まちがいなくハワイ・グアム以前に,某国ミサイルは,ミサイル防衛プレゼンスを強化された京丹後に降り注ぐ。が,そんなことは,米軍は眼中にはない。

2.兵員プレゼンスの強化
レーダー配備が兵器プレゼンス強化の手段だとすれば,米軍人・軍属配備は,人的プレゼンス強化のためだ。地元・京丹後は,プレゼント付きのプレゼンスは大歓迎,官民あげて,米軍人・軍属のプレゼンス強化に協力している。

これもまた,北の某国に向けたプレゼンテーションであることは,いうまでもない。プレゼント付きのプレゼンスのプレゼンテーション! 見るも微笑ましい光景だ。ささいな物損事故の二つや三つ,プレゼンなしでも,どうということはない。めでたし,めでたし。

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[参照]
Brendan McGarry,”U.S. Bolsters Missile-Defense Presence in Japan,” Dod Buzz Com, 2014-12-26
米軍交通事故を少なく公表 防衛省、京都のレーダー基地周辺」京都新聞1月20日

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2015/01/20 at 16:38

権威と風刺:ガイジャトラに学ぶ

風刺は権威に比例する。権威が強大であればあるほど,風刺も鋭さを増す。たとえば,ネパールのガイジャトラ(牛祭)における風刺。

1.権威的秩序としてのヒンドゥー教王国
ネパールがまだヒンドゥー教王国であったころ,社会は権威により秩序づけられていた。ヒンドゥー教は国教であり,国王はビシュヌ神の化身,つまりは現人神であった。

この聖俗二大最高権威の下に,王妃や王族,首相と大臣,役人,そして実業家や社会の様々な有力者らも,すべて階層的に秩序づけられていた。ヒンドゥー教王国は,権威の秩序であり,庶民には聖俗二大権威を疑うことは許されなかった。そこでは,近代的な個人の自由や権利は,原理的には認められていなかったのである。

2.ガイジャトラの風刺
ところが,年に一度,ガイジャトラ(牛祭)の数日間は,いわば無礼講,国王・王妃から,首相・大臣,政府高官,そして街の有力者らまで,ありとあらゆる権威が風刺の対象とされていた。上品な機知に富む洗練された風刺もあれば,下品なエログロ風刺まで,何でもあり。街中,風刺だらけ。大権威,小権威のお歴々は,恥ずかしくて,新聞・雑誌を開くことも,街に出ることもできないのでは,と心配するほどのすごさ。この有様を初めて見たときは,こんなことをしでかして本当に大丈夫なのか,とビックリ仰天したものだ。

しかし,少し考えればわかることだが,これは権威の側の自信と余裕のなせることに他ならない。日常生活において,人々は大小さまざまな権威に服従している。(権威については,なだ・いなだ『権威と権力』参照) しかし,それだけでは庶民の間に不満が鬱積していき,いずれ爆発し,権威が攻撃され,権威的秩序は崩壊してしまう。そこで権威の側は,日常生活で庶民が権威に服従する代わりに,非日常の時空を設定し,これをお祭りとし,その期間中は,ありとあらゆる権威を風刺してもよい,ということにしたのだ。しかも,権威の側からすれば,自由な風刺を通して,庶民の「本音」や日頃の不平不満を探ることもできる。一石二鳥。

ガイジャトラ風刺は,だから風刺をすらも許容するという権威の偉大さ,度量の大きさを示すものに他ならない。そして,庶民の側も,非日常的なガイジャトラ風刺の無礼講は,日常生活における礼の尊重=権威信従の代償であることを十二分にわきまえていたのである。

3.民主化による風刺衰退
ところが,ガイジャトラ風刺は,ネパールが世俗的な共和国になり,民主化が進むと,急速に衰退していった。今もあることはあるが,質量ともに,かつての風刺には,はるかに及ばない。

世俗化と民主化により,あらゆる権威が地に落ち,本気で風刺するに値するほどの権威がいなくなってしまった。風刺は非日常的なタブーやぶり。タブーなきところ,風刺もない。
  [参照] 国王隠棲とガイジャトラ漫画の低調

4.中心的権威の側からの「風刺の自由」擁護?
こうした観点からみると,フランスにおける反テロ運動には,どこか違和感を感じざるをえない。ムハンマド風刺画関係者殺害については,許されないことは言うまでもないことだから,言わない。

私が違和感を覚えるのは,現在のフランスの反テロ運動からは,「中心」ないし「権威」の側にいるという自覚ないし反省がほとんど感じられないからである。たとえば,フランス政府ホームページの「反テロ行進」記事(1月12日)には,次のような写真が大きく掲示されている。
   
「世界の中心パリ」,あるいは「世界の首都パリ(The capital of the world)」(仏政府HP,1月12日)。自分たちこそが「中心」であり「権威」だと,世界に向かって誇示しているように見える。地理的あるいは社会的な「周縁」にいる人々には,「中心」からの非難攻撃と受け止められても仕方あるまい。こうした強者の側の自己中心主義こそが,テロを招く要因の一つとなっているのではないだろうか?
  [参照] 表現の自由と構造的暴力:ムハンマド風刺画事件

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2015/01/19 at 14:56

表現の自由と構造的暴力:ムハンマド風刺画事件

フランスのムハンマド風刺画掲載紙(シャルリー・エブド)襲撃事件(2015年1月7日)は,現代民主主義社会の根幹に関わる難しい問題である。「表現の自由は無限定だ」とか「言論には言論で」といった形式論理の「正論」で応えても,それは空論というよりはむしろ,より根源的な問題の隠蔽に他ならず,決して問題の真の解決にはならないであろう。
150117 ■仏政府HPより

現代社会においても,言論や表現は無制限どころか,実際には法的あるいは社会的規制が無数にある。名誉毀損,プライバシー侵害,危険行為煽動など,言論・表現の自由の乱用は許されない。これは常識だ。またヘイトスピーチやナチス賛美のような言論・表現も,多かれ少なかれ禁止している国が少なくない。では,もしそうであるなら,なぜ信者に耐えがたい苦痛を与えるようなムハンマド風刺は,許されなければならないのか?

言論・表現の自由は,本来,弱者や少数派が強者や多数派に対して抵抗するための武器である。力は強者・多数派のものであり,弱者・少数派は力では勝ち目はない。だから,弱者や少数派には,言論・表現をもって強者や多数派に抵抗する自由や権利が認められているのである。他方,強者や多数派には,言論・表現の自由をことさら保障するに及ばない。彼らは,事実として,自分たちの考えや意見を押し通す優越した力をもっているからである。

このように,本来,主張され守られなければならないのは弱者・少数派の言論・表現の自由であるが,しかし,この自由は民主化とともにますます保障が困難になってきている。なぜなら,民主社会では,多数派が権力を握り,多数意見が「正義」「正論」とみなされているからである。

いや,そればかりか,「言論・表現の自由」という場合の「自由」の概念それ自体からして,現代社会では強者・多数派によって形づくられてしまっており,彼らはその自分たちの「自由」概念を使って弱者・少数派を抑圧支配するのである。

そのことは,強者・多数派には意見を形成し宣伝普及させるための様々な前提条件(教育・資金・メディア等々)が十分に整っているのに,弱者・少数派にとってはそうではない,という事実をみれば,一目瞭然である。

現代社会の強者・多数派が「言論・表現の自由」を大上段に振りかざし,「自由を守れ!」と叫ぶとき,それはたいてい社会の弱者・少数派を抑圧し黙らせるためである。トクヴィルやJ・S・ミルが警告した「世論の専制」「社会的専制」である。

もっとも,強者/弱者,多数派/少数派といっても,それはあくまでも相対的な区別である。社会や人間関係は多元的・複層的であり,ある人が同時に社会関係Aでは強者・多数派,社会関係Bでは弱者・少数派ということも少なくない。言論・表現の自由が守られなければならないのは,この相対的弱者・少数派に対してである。

では,今回のムハンマド風刺画事件は,どう見るべきであろうか? 問題は単純ではない。現代の世界社会全体から見ても,ヨーロッパ社会から見ても,掲載週刊紙は強者・多数派の側に立っているか,あるいはそちらに近いように思われる。しかし,もしイスラム教原理主義により抑圧されている人々の側に立っているといえるとするならば,掲載週刊紙は弱者・少数派を代弁しているということにもなる。

掲載週刊紙は,実際には,おそらくこれら両側面を併せ持っているのであろうが,これまでの報道を見ると,その限りでは,この週刊紙は現代世界の強者・多数派の側からムハンマド風刺画を掲載したという印象は否めない。先進国・日本の一市民たる私ですらそう感じるのだから,ましてや途上国や周縁化された地域のイスラム教徒たちがそう感じたとしても,それはやむをえないであろう。

言論を暴力で封じることは,もちろん許されない。が,その「暴力」とはなにか? 現代平和学の権威,ガルトゥング博士は,暴力には「直接的暴力」と「構造的暴力(間接的暴力)」があるといっている。暴力は許されない,という場合の「暴力」は,これら二つの暴力のいずれも許されないということである。そして,「平和」とは,この直接的暴力と構造的暴力のいずれもがない状態のことに他ならない。この平和概念,暴力概念は,いまでは国連でも西洋でも広く認められている。

もしそうだとするなら,言論・表現を「直接的暴力」で封じるのが許されないのと同様,それを「構造的暴力」で間接的に封じることもまた許されないはずである。ところが,先進諸国の「表現の自由」大合唱は,彼ら自身も認めている「構造的暴力」の問題にご都合主義的に目をふさぎ,もっぱら「直接的暴力」のみを非難攻撃しているように見えて仕方ない。直接的暴力は残虐だが,構造的暴力はそうではない,とでも強弁するつもりだろうか? 

[参照]
宗教と「表現の自由」:ヒンドゥー教冒涜事件
文化と「表現の自由」:インド映画禁止運動
前田朗,「私はシャルリではない。テロの挑発をやめよ」-2015年をどう闘うか(『関西共同行動』ニュース67号2015年1月31日)

谷川昌幸(C)