時間の豊かさ
いつものことだが,ネパールの伝統的集落,たとえばここキルティプルを歩いていると,前資本主義社会の豊かさに圧倒される。
キルティプルの丘の上の集落は,本当に不思議な社会だ。あちこちで人々が手で糸を紡ぎ,手織りで布を織っている。絨毯の手組もやっている。そうかと思えば,いつ売れるのか,売る気があるのか見当もつかないような彫刻置物屋さんもある。そして,商店。狭い丘の上の小さな路地裏にまで,いたるところにある。いったい何人を相手に商売をしているのだろう? 1日に客が何人来るのだろう?
キルティプルの丘の上の商工業は,資本主義の観点からすれば,およそ不合理,経済合理性がまるでない。もし誰かが「資本主義の精神」に目覚め,利潤の合理的追求を始めるなら,これらの商店や家内手工業は,あっという間に淘汰され,消えてしまうだろう。
が,そうはならない。いつまでも同じ。時はカネに変換されることなく,丘の上にふんだんにあふれかえっている。とにかく,みな暇そうだ。あちこちにたむろし,ボケーとしたり,おしゃべりしたり。無為の時間ほど,人生にとって贅沢で豊かなものはない。
■豊かな時間の中の人々/野の花。牛も山羊も食わないらしく,いたるところ生い茂っている。無用の美。
谷川昌幸(C)
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