ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

キリスト教とネパール政治(10)

1.「キリスト教徒急増」問題の複雑さと危険性
2.キリスト教系政党と2017年5月地方選挙
3.キリスト教会と2017年連邦・州ダブル選挙
 (1)キリスト教の急拡大
 (2)布教の法的規制
 (3)布教規制撤廃の働きかけ
 (4)キリスト教系政党の政界進出
4.改宗の理由
5.タマンのキリスト教改宗
 (1)民族/カースト別キリスト教改宗率
 (2)タマンの改宗:M・ジョンソンの分析
 (3)タマンの改宗:T・フリックの分析
 (A)調査地:ティムリン村[以上,前述]

5.タマンのキリスト教改宗
(3)タマンの改宗:T・フリックの分析
(B)村民ドルジェの改宗
フリックが聞き取り調査したのは,ティムリン村の初の改宗者ドルジェ・ガーレ。娘の病気をきっかけに1990年,彼が36歳のとき,妻とともにキリスト教に改宗した。

キリスト教は,ドルジェ改宗(1990年)以前の1980年代には,すでに近くのジャーラン(Jhalang)村やラブドゥン(Labdung)村には布教されており,信者がいた。ジャーラン村にはドルジェの友人がいたし,ラブドゥン村には妻の実家があった。

1990年改宗以前のある日(年月日不明),ドルジェの娘マヤワティが病気になった。父ドルジェは,慣習に従い,ヤギや羊などを犠牲にささげ,ボンボやラマに繰り返し祈祷してもらった。しかし,伝統的方法をいくら続けても,娘はよくならなかった。

困り果てていると,ラブドゥン村の義父(妻の父)が,自分の村にはクリスチャンがいるので,呼んできて回復を祈ってもらおうと提案した。

義父がラブドゥン村のS・タパのところに頼みに行くと,彼をはじめ約30人の信者がやってきて,娘の回復を祈ってくれた。すると,すぐ娘はよくなりはじめ,やがて全快した。費用のかかる犠牲や儀式は不要だった。

これをきっかけに,ドルジェは古いダルマを捨て,新しいダルマ,キリスト教を信じるようになった。

では,このドルジェのキリスト教改宗をどう解釈すべきか?

(C)改宗の西洋的解釈の不十分さ
ネパールにおけるキリスト教改宗の理由ないし動機については,西洋的な観点から,政治,経済,教育,病気治療など様々な実利と結び付け,あるいは布教活動の成果として,外在的に解釈される場合が多いが,いずれもそれらだけでは改宗理由の説明としては十分とは言えない。

ティムリン村の生活が,1980年代後半から大きく変わり始めたことは,事実である。賃労働が増え,職場も当初は近くの道路工事や鉱山だったが,やがてカトマンズや湾岸諸国への出稼ぎとなった。

1990年にはじまるティムリン村の改宗は,そうした生活環境の変化の下で行われた。しかし,この変化を改宗理由とすることは無理である。村人のうち新しい仕事に関係していた人々は改宗に消極的であり,改宗したのはむしろ伝統的な仕事をしている人々だったからである。

一方,ティムリン村の改宗と,1990年以降の民主化,開発,布教とは,かなり密接な関係がある。

「ティムリンの改宗は1990年以降の動きの一部である。それ以前に,おそらく1980年頃,南側のジャーランで多くのタマンが改宗した。そこの政治権力者や警察は彼らを殴りつけ投獄した。こうした『地下』生活にもかかわらず,1990年以前に,ジャーランのクリスチャンが何人かティムリンを訪れていた。布教に来たのだが,まったくの門前払いだった。改宗は違法,これが要するに布教活動への対応であった。このような態度は,1990年以降,民主化運動が始まり,キリスト教がそれと関係づけられ始めると,変化した。

この政治と改宗との結びつきは,1990年以後の初の選挙に見て取れる。旧秩序を代表するのはティムリンのラマたちと緊密な関係にある人物であり,これに対抗するのがいまや合法となったコングレス党の党員であった。そのコングレス党の政治家は,自らクリスチャンであると実際に明言することは決してなかったが,そのような噂の流布は容認していた。というのも,そのような噂が彼と新秩序との結びつきを様々なレベルで強化してくれたからである――[旧秩序と闘う]野党の一員であり,西洋的『近代』を代表する者であり,そして,キリスト教諸教会との結びつきにより得られると多くの人々が考え期待した多くの金や物との仲介者である,と。さらに,[改宗と]開発との結びつきが,ティムリンで周知の呼び方で広まりさえした。たいていの人が,キリスト教のダルマを農民のダルマ(kisan dharma)と呼び変えた。そして,この農業と西洋との結び付けが,開発(bikas)との結び付けを容易とした。というのも,新しい農業技術を持ち込む来訪者たちが開発をもっぱら目的にしていることを,つねに見聞きしていたからである。」(p.2-3)

「ティムリンの人々は,カトマンズに出て俗人牧師教育を受け始めると,クリスチャンとの付き合いが深まり,彼らが獲得した新たなダルマには異なった宗派的な解釈があることを知った。さらに彼らは,1990年以降のネパールにおける激しい布教競争の下で,外国の教会が新しい布教地でその教会を代表する人々に仕事,教育,金など様々なものをくれることにも気づかされた。」(p.3-4)

しかしながら,それでもなお,これらは外部要因による改宗の外在的解釈であり,ティムリン村のような改宗の説明としては十分ではない。そう著者は考えるのである。

(D)自発的動機による改宗
タマンの人々は,古来,交換と分かち合いを基軸とするダルマ(徳,宗教)を大切にして暮らしてきた。そして,不幸にして強欲がはびこり悪政に陥りダルマを維持できなくなると,そのつど彼ら自身で新しい王やラマを探して迎え,ダルマを回復した。ティムリン村のキリスト教改宗も,以前と同様,村人自身が失われたダルマを回復するために行われた。

「ティムリンの改宗は,布教ミッションによることなく,村人自身の意思により行われた。タマンの人々は,自分たちに新しいダルマを教えてくれるネパール人のクリスチャンを探し出した。」(p.2)

「最初の改宗以降の展開は,むろん複雑であり,完全には思い通りにはならないであろう。・・・・[とはいえ]ティムリンの人々は,キリスト教への改宗の当初は祖先に極めて近い行動の仕方をしたと私は考えるのである。」(p.18-19)

――以上のように,この論文の結論は,いかにも人類学者らしく,キリスト教改宗の自発性・内発性を強調するものとなっている。

たいへん面白いが,その一方,タマン社会において伝統的なダルマがなぜ維持できなくなったのか,そしてまた,彼らがどこまで自覚的にタマン社会の伝統的な交換と分かち合いのエートスないし徳の回復・維持を目的としてキリスト教を取り入れたのかを考えると,改宗の自発性・内発性を強調する著者の結論にはやや無理があるようにも思われる。娘の病気を治してくれたのでキリスト教を信じるようになったというのは,政治,経済,教育など他の実利のための改宗と構造的には異ならないように見えるのだが。

 

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2018/04/21 @ 16:06