ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

Archive for the ‘ネパール’ Category

セピア色のネパール(15): カトマンズ盆地の本屋さん

カトマンズ盆地には,新旧様々な文化・文明が混在していて,興味深かった。そうしたものの一つが,新たな情報・知識や教育への予想外の関心の高さ。

訪ネ前に読んだガイドブックでは,1980年代頃のネパールの識字率は20%程度であったので,ネパールには本屋さんや学校など,あまりないに違いないと思い込んでいた。(識字率の定義は広狭様々。1980年代ネパールでは,おそらく「自分の名前の読み書き可能以上」であったのだろう。とすれば,実質的な読書可能人口は識字率よりも低いことになる。)

ところが,1985年春,カトマンズに着き,街に出てみると,あちこちに新聞・雑誌・暦などを並べた露店やスタンドがあるばかりか,学校や官庁の近くには教科書や専門書を相当数揃えた本屋さんさえ,いくつか見られた。

もちろん,カトマンズ盆地は観光地であったので,旅行者向けの店が多いのは当然だが,そうした店であっても,絵ハガキやガイドブックだけでなく,多かれ少なかれカタそうな本や教科書も置いているところが少なくなかった。

置いているということは,それなりに売れるということ。正直,これにはいささか驚き,また感心もした。むろん,観光ガイドをパラパラ見ただけで来てしまったのだから,当然といえばそれまでのこと,ではあったのだが・・・・。

 *下記写真は1990年代以降のもの。撮影年は多少前後するかもしれません。

■現在のカトマンズの書店(Google検索表示の一部, 2023/02/24)
■ニューロード沿いの新聞・雑誌露店(1990s)
■上掲露店で熱心に立ち読み(1990s)
■ダルバール広場の露店:レーニン,毛沢東,ヒトラー,プラチャンダ,ヨガ行者など固そうな本が並んでいる。(1990-2000s)
■トゥンディケル広場の露店で,政治・経済・哲学・歴史・宗教などの本を立ち読みする人びと。(1990-2000s)
■リキシャ車夫も新聞熟読。あちこちで同様の車上熟読が見られた。(1994)
■パドマカンヤ女子大前にあふれる教育訓練支援広告(1990s)
■TU法学部(1990s)。近くに大書店あり。シンハダーバー官庁街までの道路沿い(約300m)にも中小の専門書店が多数あった。
■専門学校では早くから男女共学(1993)

谷川昌幸(c)

Written by Tanigawa

2023/02/24 at 16:36

カテゴリー: ネパール, 情報, 教育, 文化, 旅行, 歴史

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セピア色のネパール(14): バクタプルはトロリーバスで

バクタプルへは1985年,トロリーバスで行った。乗車は,たしかマイティガル付近。幸い車内には入れたが,例の如くオンボロ,ギュウギュウ詰め。降りたのは,バクタプル旧市街の小川の向かい側で,たぶんスルヤビナヤク。

トロリーバスを降りると,一面の菜の花畑の向こうに,バクタプルの小じんまりしたレンガ造りの街が一望できた。まるで,おとぎの国。

トロリーバスは,古都そのもののバクタプルはいうまでもなく,まだ古都の面影を色濃く残していたカトマンズにも,よく似合う乗り物であった。

が,残念なことに,中国援助で1975年に導入されたトロリーバスは,適切な維持管理が出来ず,2009年に全廃されてしまった。

 ■カトマンズ盆地のトロリーバス1985年(Google,”nepal trolley bus,”2023/02/13)
■バクタプル行トロリーバス乗車(1985)
 ■バクタプル行トロリーバス車窓より(1985)
 ■バス停付近から望むバクタプル(1985)

もともとカトマンズ盆地は,それほど広くないうえに,歴史的に貴重な文化財や街並みが多く残されており,人びとの移動手段としてはトロリーバスや路面電車の方が適していた。

ところが,盆地の古都・京都が,地形も文化も考慮せず,市街に張り巡らされていた路面電車を全廃してしまったように(私鉄・京福電鉄だけが短区間とはいえ健気に孤高の孤塁を守っている),ネパールもトロリーバスを廃止,道路を新設・拡張し,車社会へと驀進することになった。その結果,盆地はバイクや車であふれかえり,排気ガスがよどむと,氷雪の霊峰ヒマラヤは霞み,街の散策にはマスクさえ必要になってきた。

このような車社会化のカトマンズや京都と対照的なのが,欧州の古都。多くが,路面電車やトロリーバスを,必要な改良・改革は大胆に取り入れつつも,なお運行し続けている。その結果,無機質な「近現代的」車道の拡張・新設は抑制できるので,欧州の古都の多くは今なお伝統的雰囲気を保ち,より文化的にして人間的である。(参照:欧州ウィーン

 ■ミラノの路面電車1(2017)
 ■ミラノの路面電車2(2017)
 ■トリノの路面電車(2017)
 ■トリノのトロリーバス(2017)

カトマンズ,京都などの古都が,街の非人間化をもたらすバイクや車を規制し,路面電車・トロリーバスなど,より人間的にして文化的な乗り物の導入へと向かうことを願っている。

参照】(2023/02/25追加)
「このままの形で維持していくことは非常に難しい…. そんな厳しい路線をJRから引き継ぎ、黒字化させた例がある。富山市の富山港線だ。地元主体でLRT化し、利用者数を1.5倍超にまで伸ばした。….改革を主導した森雅志・前富山市長に聞いた。」河合達郎「廃止に向かうローカル線を黒字転換」JBpress,2023.2.25

参照2】(2023/02/27追加)
Sushila Budathoki, Why is the air in Bhaktapur so bad? Brick kilns, heavy highway traffic and prevailing winds make air quality the dirtiest in Kathmandu Valley, Nepali Times, February 24, 2023

【参照3】(2023/03/07追加) Trolleybus on the Kathmandu-Bhaktapur road

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2023/02/13 at 13:54

セピア色のネパール(13): しがみつき乗車の懐かしさ

ポカラなど,遠くへは乗合バスで行った。これはこれで,また忘れがたい強烈な体験であった。

1985年春,ポカラ行き長距離バスは,スンダラのダルハラ塔横から,早朝に出ていた。チケットは前日にあらかじめ買い,当日は,かなり早めにバス乗場に行った。

ところが,乗場にはすでに多くの客が来ていて,バスが来ると一斉に駆け寄り,われ先にと乗り込み,あっという間に車内はギュウギュウ詰めの超満員となってしまった。あれあれ・・・・,と呆然となって眺めていると,あぶれた客が次々とバスの屋根に登り始めた。これを見て,私も「まぁ,仕方ない」と観念し,バスの屋根によじ登って,荷物止めパイプにしがみつき,ポカラに向かうことにした。

このような屋根に乗客を乗せたバスは,旅行ガイドで見て知っていたし,訪ネ後は実物を直に何台も見ていた。が,見るのと実際に乗るのとは大ちがい。走り出したとたん,いまにも振り落とされそうで恐ろしく,ふるえ上がってしまった。

 ■バス屋根乗車(Google”nepal bus roof”2023/02/09)

これでは,とてもポカラまで持ちそうにない,と途中下車も覚悟したが,タンコットあたりから客が次々と下車していき,峠に差し掛かる前には,どうにか車内に入ることが出来た。

やれやれこれで一安心とホッとしたが,それもつかの間,つづら折りの険しい山道から谷底が見え始めると,そこには何台か車が落下し,ひっくり返ったままになっていた。あぁ~,車内に入れても安心というわけにはいかないなぁ・・・・と,また心配になってきた。

それでも,夕方前には何とか無事にポカラに着き,そこで一泊,翌朝,「ダンプス~ガンドルン」トレッキングに出かけることになった。

 ■ポカラ行バス:この屋根の上に乗った(1985)

ポカラからダンプス登り口までは,乗合小型車の便が出ていた。早朝,ポカラの北外れの広場で待っていると,ジープがやってきた。すると,ここでも客が,どっとなだれ込み,すし詰め状態。が,このジープ,乗客の重さに耐えかねたのか,あっけなくパンク。仕方なく,エンジン故障修理したての別のジープに乗り換えたが,ここでも私は車内に入れず,今度は前ドア下のステップに足を置き,外から窓枠に手でしがみつき,出発することになった。

ダンプス登り口への道は川沿いのガタガタ,クネクネ悪路。谷底に振り落とされないよう必死でジープにしがみついていたが,橋のないところで川を横切るときは,ハネ水でびしょぬれになってしまった。こうして難行苦行,1時間ほどでダンプス登り口の小さな集落にたどり着いた。

 ■乗車直後パンクの1台目(1985)
 ■故障修理中の2台目(1985)
 ■ダンプス登り口。少女のような姿勢でこのジープに乗ってきた(1985)

このように,ネパールでの乗車体験は,四半世紀以上も前のことながら,いまでもよく覚えている。それだけ強烈な体験だったからだろう。

しかしながら,たしかに強烈ではあったが,全くの未体験というわけでもなかった。むしろ逆に,「あぁ,あれと同じようなことなんだなぁ」と,昔を懐かしく思い出しさえもした。

わが村近辺でも,1960年頃までは未舗装クネクネ・ガタガタ悪路が多く,超満員の客を乗せたバスがヨタヨタ走っていることも珍しくはなかった。ときには,車内に入りきれず,入口ドアを開けたまま,ステップに乗り,手すりにしがみついている客もいた。

また大阪でも,バスや列車に客がわれ先にと,なだれ込むのが常態だった。整列乗車など夢のまた夢。1980年ころ,イギリスに行き,どこでもバスや列車にきちんと整列乗車しているのを見て,「これが異文化なのだなぁ」と驚き,いたく感心したことを覚えている。

ネパールでの乗車口無秩序突進,屋根上乗車,車体しがみつき乗車――いずれも強烈な体験ではあったが,少なくとも私としては,西洋式整列乗車に覚えたような異質・異文化感はなく,むしろ逆に「あぁ,たしかにそんなことをしてきたなぁ」といった,懐かしさを覚えさせてくれるような体験であった。

追補】(2023/02/12)
人間集団の行動様式は,文化であって不変のように思えるが,ときとして短期的に大きく変わることがあるのかもしれない。たとえば,ネパールの乗車マナー。

ネパール大震災(2015)の翌年,久しぶりにカトマンズに行き,バスで郊外と行き来して驚いた。乗車マナーが一変,老人,女性,身障者などの優先乗車・着席が行われており,日本よりもむしろ徹底していると思われるほどであった。

他の路線も同様か,また,その後も継続・徹底されているのかは,最近,訪ネしていないので分からない。もし乗車マナーが変化・定着しているのなら,文化的にも興味深い。

谷川昌幸(c)

Written by Tanigawa

2023/02/10 at 15:59

セピア色のネパール(12): オートテンポからサファテンポへ


ネパールのオートテンポには,その「好い加減さ」に加え,もう一つ,驚かされたことがある。騒音排気ガスである。

オートテンポは,2~3人乗りタクシーも数人~十数人乗り小型バスもディーゼル・エンジン。混合燃料2サイクル・エンジンも見たような気がするが,未確認。いずれにせよ,これらのエンジンは,ともに騒音と排気ガスがひどい。バタバタ,モクモク・・・・。盆地だから,天候によっては,ひどい排気ガス汚染に悩まされることになる。

  ■排ガスで霞むシンハダーバー(1993)
  ■王宮前ダルバルマルグ:排ガス濃いも,まだマスクなし(1993)

これに怒りオートテンポ禁止,電動「サファ(清浄)テンポ」の導入を訴え始めたのが,内外の環境保護派。車の電動化(EV化)はまだ試行段階,欧米でも先行きはほとんど見通せなかった。そこで,例の如く,彼らが目論んだのが,ネパールをEV化モデル国とし,世界にアピールすること。

正確な時系列は確認していないが,無排気ガスで清浄な電動サファテンポは,早くも1993年にはカトマンズで走り始め,数年後には政府の税優遇,電力料金割引など手厚い支援を受け,国内生産も始められた。1998年には110台ほどが運用される一方,オートテンポは翌1999年には禁止されることになった。

ところが,現実には,サファテンポは高コスト。電池はアメリカからの輸入で,2年と持たない。また,それに加え,坂の多いカトマンズではパワー不足。そのため政府の方針もぐらつき,オートテンポを,比較的低公害のガソリン車やLPG(プロパン)車に切り替えることになってしまった。

そのため,旧式オートテンポも最新サファテンポも,低コスト,高性能の日本車に取って代わられた。小型タクシーではマルチスズキ(インド製),小型・中型バスではトヨタ・ハイエースなど,盆地は日本車に瞬く間に席巻されてしまった。

ネパールのEV化は失敗,とその頃,私も見ていた。しかし,電話において,有線を飛び越え,一気に無線スマホ化することに成功したように,また街灯をソーラー蓄電池式LED灯に一気に転換したように,いまネパールは,捲土重来,小型タクシーから大型バスまで,再びEV化に向かって大きく前進し始めた。車においても,一足飛びの前進が,ネパールでーー日本ではなくーー起こるのではないだろうか。期待しつつ注目している。

ローテクの人間臭いオートテンポからハイテクの超先進的EVへーーいかにもネパールらしいアクロバティックな一足飛びの大飛躍。4半世紀前のセピア化した写真を眺めていると,ついそんな感慨に打たれることになる。

  ■サファテンポ(2000)
 ■上掲車のロータスエナジー社宣伝(2000)
  ■カトマンズのサファテンポ(Google safa tempo kathmandu

【参照1】ネパールEV史に詳しいのは:
・Sushila Maharjan,”Electric Vehicle Technology in Kathmandu, Nepal:Look at its Development,” 2002

【参照2】サファテンポの近年の状況については:
・Atul Bhattarai, When Kathmandu Was “Shangri-La for Electric Vehicles,” 2019
・Benjie de la Pena, Hello, Safa Tempo!, 2021

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2023/01/30 at 17:21

セピア色のネパール(11): ちょっと遠出はオートテンポで

1980年代後半~90年代前半頃のカトマンズ滞在では,オートテンポ(オートリキシャ)とバスも印象深く記憶に残っている。(テンポ[テンプ]=3輪車)

オートテンポは,インド製のエンジン付小型3輪車。2,3人乗りタクシーとして使用され,街中を流していたり,盛り場で客待ちをしているのは,多くがこれであった。私も,少し遠出するときや荷物の多いとき,あるいは2,3人で移動するときは,たいていこのオートテンポを利用した。

オートテンポには何種類かあったのだろうが,私が乗ったのは,たいてい構造がきわめてシンプルな,人力3輪リキシャにエンジンと料金メーターをつけただけ,といった感じの車であった。

このオートテンポは料金メーター付だが,乗車前には,たいてい料金交渉をした。リキシャと同じ。ときにはメーターで行ってくれたが,そうした車の中には異常に速くメーターが上がるように思えるものがあり,ハラハラ,ドキドキ,心配で途中下車してしまったこともあった。

  ■泥道のオートテンポ(1994)
  ■オートテンポ車内(1992)

オートテンポは,よく故障もした。が,そこはよくしたもので,運転手は,たいてい故障個所を素早く見つけ,自分で手際よく修理し,何事もなかったかのように車を出した。

たしかに,車の構造は極めて簡単。そして修理も,そんなことでよいのかと心配になるほど,いいかげん。とにかく「いま動くようになれば,それでよい」といった感じの,その場しのぎの応急修理。

当初,そんな「いいかげんな場当たり主義」ではダメだ,と憤慨していたが,しばらくすると,「いいかげん」は「好い加減」であり,このやり方,ひいては生き方の方がよいのではないか,と思われるようになった。そして,私自身も,かつては同じようなことをしていたことを思い出した。

以前は,原動機付自転車には14歳から乗れたので,私も中学3年の頃から乗り始めた。オートテンポ以上に構造は簡単ちゃちだったので,よく故障したが,その都度,自分であれこれ工夫して直し,乗っていた。

悪ガキ仲間で秘境・丹後半島に出掛けたときも,山あり谷ありの未舗装悪路で幾度か故障したが,何とか直さねば遭難してしまうので,あれこれ工夫し,ともかくも走るようにして帰り着いたことがあった。

が,これは,思い起こして懐かしい,というだけの話ではなかった。高度成長が始まると,世を挙げて最大限あらゆることを細分化・専門分化し,効率を上げ,利潤を追求していくことになったが,これはとりもなおさず,人間を分解し,バラバラに解体することを意味した。ほんらい統合的総体としてあるはずの人間の分解であり,人間としての幸福の解体・喪失であった。

カトマンズでオートテンポをその都度自分でやりくり修理して走らせていた運転手は,原付自転車をあれこれ自分で工夫して直し乗り回していたかつての私自身と同種の,「好い加減」な生き方をしていたのだ。
 
このことに気づき,私はいたく感動,ネパール式の方が幸せになれるのではと思い,それへと方向転換しようとしてきたが,これは時流に逆らうことで難しく,今もって望み通りには実現していない。残念。

  ■オートテンポ(“diesel auto rickshaw 1990s,” WIKI)

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2023/01/29 at 16:46

セピア色のネパール(10): 盆地内近距離は徒歩・自転車・リキシャで

カトマンズ盆地内の移動には,1980年代後半~90年代初めの頃は,近くはたいてい徒歩か自転車かリキシャ(人力3輪車),中距離はオート・テンポ[テンプ](エンジン駆動3輪車),そして遠くは乗合バスを利用していた。貧乏旅行のため,タクシーはほとんど利用せず。

当時,車やバイクはまだ少なく,環状道路(リングロード)内,あるいは時にはキルティプルであっても,徒歩や自転車の方が,道々,あれこれ見物できて楽しかった。

■カトマンズ環状道路(リンクロード,WIKI

自転車は,その頃の常宿,ディリバザール入口の「ペンション・バサナ」で借りた。インド製(ヒーロー自転車?)なのか,いかにもゴツくて武骨,乗り心地は良くなかったが,徒歩よりはるかに速く,便利であった。

が,なぜか自転車は,農産物,雑貨などの物資運搬・行商用を除けば,日本ほど多くは見かけなかったと記憶している。自転車は先に行商用イメージが強くなってしまったので,中流・上流の人びとにとっては,特権的ステータス・シンボルとして所有したり利用したりする魅力がなくなってしまっていたからかもしれない。

■ディリーバザール(ペンション・バサナ前,1985)
■ペンション・バサナ(1985)/ 参照:バサナFB

■自転車で日本大使館へ(1985)

人力3輪リキシャは,荷物があったり疲れたとき,利用した。当初は,乗る前の運賃交渉が面倒だったが,だいたいの相場が分かってくると,交渉それ自体が異文化体験であり,興味深く,楽しめた。

が,リキシャはなんせ人力,上り坂ではペダルがいかにも重そう。見るからに羽振りのよい―たいてい体格もよい―地元利用客のように「金は払った」と座席でふんぞり返っている勇気はなく,坂になると,降りて歩くか,ときには上まで押し上げるのを手伝ったりもした。典型的な小心者,日本人!

■リキシャ(1993)
■オートテンポ(左)とリキシャ(1993)

日本でも,地方では,自転車や人力2輪車・3輪車(リヤカー)での人や物資の移動・輸送・行商が,1960年頃までは,ごく普通に行われていた。私の村でも,たいていの家の人が,それらで未舗装の峠を越え数キロ先の町と行き来していた。行商,通学・通勤,そして遊興のため。

1980年代後半のネパールでは,首都カトマンズ盆地であっても,1世代前の日本の農山村に近い雰囲気が,まだ随所で体感できた。懐かしかった。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2023/01/24 at 18:35

セピア色のネパール(9): 死の日常性

ネパールに初めて行って最も驚き,衝撃を受けたのは,死そのものや死に関することが日常生活の中で不断に見られること。死の意義づけは様々かもしれないが,死それ自体は,ネパールでは,ほとんど隠されてはいなかった。

近現代人は,死を忌み嫌い,出来るだけ隠そうとする。毎日のように食べる魚や動物たちも,消費者の目に触れない,どこか別のところで機械的に効率よく殺され,捌かれ,美しくパック詰めにされ,商品として売り場に並べられている。われわれ消費者としての現代人は,他の生物の死を見ることなく,喜々として,その死骸を食べ,生きているのだ。

人の死も,現代社会では日常生活から切り離され,隠され,見えにくくなってきている。今では,たいていの人が病院や介護施設内で亡くなる。死に立ち会うのは,少数の親族・縁者か施設職員。夜間であれば,誰に見られることもなく,独り死んでいく人も少なくない。

葬儀も簡素化された。遺体は,専門業者の手で「まるで生きているかのように」美しく化粧され,葬祭場での「小さな」葬式のあと,出来るだけ「目立たない」普通の車で火葬場に運ばれ,電気炉で効率よく焼かれ,きれいな灰となる。あるいは,「小さな」葬式ですら忌避され,葬儀なしの「直葬」も多くなってきた。死は,非日常的な死(著名人や事件などの場合)を除けば,今日では日常生活の場では可能な限り遠ざけられ隠されている。われわれは,通常は,人や動物の死を身近に感じることなく日々,平穏に暮らしているのだ。

ところが,ネパールでは,人であれ動物であれ,その死は,日常的に,そこかしこで目にするものであった。

カトマンズでは,遺体を担架(のようなもの)に乗せて担ぎ街中を行く葬列をよく目にしたし,バグマティやビシュヌマティの河岸の火葬場では,毎日のように火葬が行われていた。

その火葬の状況は,おびただしい目撃談にあるように,実に衝撃的なものであった。河岸で遺体が次々と焼かれ,遺灰が川に流されているのに,そのすぐそばで沐浴や遊泳,あるいは洗濯さえする人がいた。あるいはまた,火葬をながめながら立ち話や行商をする人たちもいた。むろん,死を嘆き悲しむ縁者らもいたが,そこでは,そうした人々も含め,その場全体が総体としての日常の場となっているように思われた。死は,そこでは決して日常から切り離され,遠ざけられ,隠されてはいなかった。

日本でも,かつては,人の死が今ほど隠されてはいなかった。私の子供の頃の村では,たいていの人が,自宅で,家族らに見守られながら亡くなった。遺体を清め,死に装束を着せ,葬式を執り行い,遺体を棺桶に入れ,担いで墓場まで運び,自分たちで掘った墓穴に埋めて葬るのは,全部自分たち自身。人の死は,日本でも以前は,リアルなものとして具体的な生活の場で体験されていた。

■パシュパティナート:バグマティ河畔での火葬(1994)
■パシュパティナート:バグマティ河畔での火葬(1994)

動物ともなると,ネパールでは,その死は,文字通り日常的に,いつどこでも目にするものであった。

外国人観光客にとって最も衝撃的なのは,寺院での動物供儀。たとえば,ダクシンカリ寺院に行くと,参拝者が連れてきた山羊,鶏などが,神に捧げるため次々と首を切り落とされる。一面は血の海。参拝者は,供儀後の動物を捌き,近くの小川で洗い清め,袋に入れ自宅に持ち帰る。この動物供儀は,供儀動物を持ってこなくても,誰でも,間近で,その一部始終を見守ることが出来た。

こうした動物供儀は,ネパールの他の多くの寺院でも行われていた。ネパールの人々は,尊い動物たちの生命を神に捧げ,その亡骸を神に感謝しつつ食しているのだ。商品としてのパック詰め食肉を買って食べるわれわれよりも,はるかに敬虔であり,人間的に誠実ではないか。

■ダクシンカリ:山羊供儀の親子(1993)
■ダクシンカリ:鶏供儀の参拝者たち(1993)
■旧王宮バイラバ前:水牛(?)供儀後の血だまり(2007)

これは,私自身が目撃したことではないが,ネパールの地方の学校では,野外学習や遠足に鶏や山羊を連れていき,昼になると,それらを捌き,調理して食べることがよくあったそうだ。似たようなことは,子供の頃,私の村でも近隣の集会などで,ときどき行われていた。

■カトマンズ市内:リキシャで運ばれる屠殺ブタ(2007)

食の近代化以前は,どこでも,他の生命の犠牲によって生かされていることが,日々の食事の際,多かれ少なかれ具体的な形で意識されていた。ネパールにおける人や動物の生死の有様は,そのことを改めて思い起こさせてくれた。

【参照】ガディマイ祭:動物供儀をめぐる論争

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2022/12/11 at 10:32

セピア色のネパール(8):ポカラ~ダンプス~ガンドルン

ネパールに初めて行ったのは1985年3月,アンナプルナ・トレッキングが目的だった。記憶は写真以上にセピア化しているが,それでも強烈な印象は変色しつつも残っている。

カトマンズからポカラへは,バスで行った。片道39ルピー(約400円),約7時間。大型バスに乗客殺到,車内に入れない人は屋根によじ登った。私も,もたもたしていて車内に入れなかったので屋根に登ったが,外国人と見て地元民乗客が車内に移してくれた。親切に痛く感謝! 山羊やニワトリも乗車していたが料金不明。

■ガードレールなし。崖下には転落車も。

バスは,デコボコ,クネクネ道をハラハラ,ヒヤヒヤさせながら走り,ところどころ,茶店があるところ(いまでいうドライブイン)に停まり,小休止をとった。トイレ休憩でもあるのだが,困ったことに茶店付近には,まずトイレは見当たらない。仕方なく近くの物陰や畑に行って用を足した。女性も同じ。強烈な「無トイレ文化」の洗礼だった!

■少し大きなバス停で小休止(町名失念)

夕方,ポカラにつき,ロッジに宿泊。ツイン30ルピー(300円位)。その頃のポカラは,カトマンズよりもはるかにのどかな,田園の中の小さな町であった。いまは50万人近い大都市だが,当時は6万人ほど。車も少なく,自然にあふれていた。ブーゲンビリアなど花々が咲き乱れ,ペワ湖は水清く,山からは飾りをつけた馬やラバの隊商が町に降りてきた。まるで,おとぎの国!

■ペワ湖岸で放牧
■ペワ湖で食器洗い

■ポカラに入ってくる隊商

ポカラからダンプス~ランドルン~ガンドルンと,トレッキングを楽しんだ。マチャプチャレやアンナプルナに感動したことはいうまでもないが,それ以上に印象的だったのは,村の風景や生活。まるで昔の日本の村を追体験しているようだった。

村のロッジ(宿屋)はごく質素であったが,それだけになおのこと懐旧の念に駆られた。ツイン,1泊4~6ルピー(40~60円位)。申し訳ないので,収穫したてのエンドウを買い求め,茹でて食べた。うまかった!

■ダンプス付近

■ダンプスのロッジ
■ガンドルンのロッジ前から望むアンナプルナ

体験は,時のふるいにかけられ,忘れがたいものだけが変形し変色しつつ残っていく。それに加え,外国人の体験は,もともと余所者の身勝手な,自分本位のものであることを免れない。そうしたことは重々承知しながらも,「後期」高齢者ともなると,古き良き昔の懐旧には,往々にして抗いがたいのである。

【参照2022/09/28】郷里とネパール:失って得るものは?

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2022/09/19 at 16:45

セピア色のネパール(7):懐かしき暖色の古都

初めてネパールに行った1980年代後半の頃のカトマンズは,「暖色の古都」であった。

日本では蛍光灯や水銀灯が普及し,街も村も青白い光に照らされ,明るくはあるが無機質の冷たい感じは否めなかった。

ところが,ネパールでは,1990年代後半頃までは,照明はほとんどが暖色系のナトリウム灯か白熱灯,あるいは灯火であった。飛行機が日没後,カトマンズ盆地上空に近づくと,暖色に柔らかく包まれた街や村が下方に小さく見え始め,旋回,下降につれ大きくなり,ほどなくして,その暖色の街の中へと機は着陸する。

はじめてこの暖色の夜景を目にしたとき,カトマンズは,まるで不思議のおとぎの国の古都のように思われた。2回,3回と訪れると,その思いに,そこはかとない懐かしさの念が積み重なっていった。わが村や町も,戦後しばらくは,これに近い夜景だったからだ。

しかも,カトマンズ盆地の暖色系の暖かさは,夜景だけではなかった。盆地の街や村では,建物にも道路や広場にもレンガが多用されており,昼間も,暖色系の優しい雰囲気を醸し出していた。まだ車が少なかったので,レンガ敷きの道路も広場も美しく維持されていた。

レンガといえば,もう一つ忘れがたいのが,郊外のレンガ工場。一面レンガ色にくすむ広い敷地と大きなレンガ窯,そして,そこにそそり立つ異様に高い煙突。日本では目にしたことのない不思議な光景であり,訪ネのたびにキルティプルやバクタプル付近のレンガ工場を見に出かけていた。

こうしたカトマンズ盆地の暖色の優しい光景は,1990年代後半以降,急速に失われて行き,いまでは多くの地域で,日本と大差ない合理的で冷たい感じの街や村へと変貌してしまっている。

■スワヤンブより市内遠望。まだ農地や空き地が多い(1985年3月)
■旧王宮付近。建物はほとんどレンガ造り(1985年3月)
■カトマンズ市内のレンガ畳(1985年3月)
■バクタプル付近のレンガ工場(1985年3月)

【参照】煉瓦と桜のキルティプール  田園に降り立つ神

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2022/09/17 at 19:07

カテゴリー: ネパール, 社会, 文化, 歴史

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セピア色のネパール(6):写真自動補正の怪

ここまで1993年と94年の写真を数百枚デジタル化し,そのうちの十数枚をこのブログに掲載してきた。

ここで,あることに気づき,愕然とした。ーーセピア色に多かれ少なかれ退色したプリント写真が,何回も自動修正され,色彩豊かなカラー写真に蘇生しているのだ。いったい,どうしたことか?

写真の自動修正は,何段階かで行われているようだ。まず簡易スキャナーで取り込んだとき最初の修正が行われ,次にデータを写真ソフトで再読み込みし保存したとき2回目の修正が行われ,そしてブログ投稿写真をスマホやパソコンで表示したとき3回目の修正が行われているらしい。もっと多段階かもしれないが,素人の私には,この3段階しか見当がつかない。

これら写真自動修正機能のうち,今回,特に驚いたのが,スマホによる画像補正能力の高さ。私のスマホは格安アンドロイドだが,それでも投稿写真を表示させると,すべて見違えるほどカラフルになっている。高級スマホなら,もっと「美しく」表示されるに違いない。

これは,「美しい写真」を見たいという一般的な願望は叶えることになろうが,「私の中でセピア色化しつつあるネパール」の提示という,私自身の本来の意図には反することになる。

このような他者には気づかれないような,そして自分でも注意していなければ気づかないような修正や変更が,現代社会では,写真だけではなく他の情報についても,いたるところで行われている。情報はどこかで操作され,見たいと思い込まされているものを見せられているーー恐ろしい。

(補足)今のスマホには,多かれ少なかれ,被写体全体の中から見たいものや見るべきものを選択し,補正・修正し,強調して写し表示する機能があるらしい。「見たいもの」「見るべきもの」は誰が決めるのか? 写真機の,そこにあるがままの「真」を写し撮りたいという積年の悲願は,放棄されてしまったらしい。

■カトマンズ(1993年3月)カラー写真
■白黒変換した上記写真。セピア色のネパールにはこちらの方が適切かも。

谷川昌幸(c)

Written by Tanigawa

2022/09/04 at 17:17

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