Archive for the ‘宗教’ Category
生成AI問答(4): ネパールの人々は,彼ら自身の国家の世俗化について,どう考えていますか?
宗教は,国歌以上に難しい。取り扱いを誤れば,内乱,戦争で国家破滅となりかねない。要注意の最たるものだ。そんな難問中の難問について,生成AIは,どのような回答を示してくれるだろうか?
この問いを尋ねるのに最も適した国の一つが,ネパール。ネパールは,古来,ヒンドゥー教や仏教と密接な関係にあり,またイスラム教も一定の確たる勢力を――特に南部で――保持してきた。
そこに,1990年以降の自由化・資本主義化の進行とともに,とりわけヒンドゥー教を国教とする憲法規定の廃止以降,キリスト教がツナミの如くどっと押し寄せてきた。ネパールはいま,一方でのヒンドゥー教vs仏教vsイスラム教vsキリスト教という宗教競合に加え,他方での全般的な世俗化・脱宗教化の進行という,宗教政策的に見て非常に難しい状況にあると言わざるをえない。この難問に関する生成AIへの今回の具体的な質問文は,表題の通り。
Bing回答①は,情報不足の上に,マオイスト運動高揚を1990年とし,またヒンドゥー教を「国家宗教」としており,まったくの誤り。マオイスト運動開始は1996年だし,宗教については,ネパール憲法(2007年暫定憲法/2015年現行憲法)が「世俗国家」」と明確に規定している。文章作成が優先し,適正な情報の抽出・結合を誤ったのであろう。
Bing回答②は,①と全く同じ質問文を,数時間後に投稿してみて得られたもの。驚くなかれ,上記①とは全くの別物。情報不足は如何ともしがたいが,誤りではない。AIは同じ問でも異なった回答を出すことがある――要注意だ!
ChatGPT回答(質問&回答=Google翻訳使用)は,懇切丁寧で,見事。AIによる回答と自動翻訳のあまりのスゴさに,思わす寒気さえ感じるほどだ。
*****<以下,生成AI回答>*****
[1a] Bingの回答①(質問&回答=日本語)
ネパールの人々は、国家の世俗化について、様々な意見を持っています。1990年には、大規模な人民運動が起こり、王制の廃止と世俗国家の実現を目指すマオイストの活動が高まりを見せました。しかし、2015年には、ネパールは世界で最も多様な宗教を持つ国家の一つであり、国民の約80%がヒンドゥー教徒であるため、政府は国家宗教としてヒンドゥー教を認めることにしました。
[1b] Bingの回答②(上記①の数時間後の回答,質問&回答=日本語)
現在のウェブページによると、ネパールの憲法は、世俗的であることを明記しています。ネパールの憲法は、国家が宗教的に中立であることを保証するために、世俗主義を採用しています。
[2] ChatGPTの回答(質問&回答=Google翻訳使用)
ネパールの世俗化は国内で物議をかもしている問題であり、それについての意見はネパール人の間でさまざまです。
一部のネパール人は世俗主義を支持しており、世俗主義が異なる宗教や民族グループ間の平等と寛容を促進すると信じています。 彼らは、国が宗教に関して中立を保ち、個人が自由に宗教を実践する権利を有することを保証する必要があると主張している.
しかし、世俗主義に反対するネパール人、特にヒンズー教徒を自認する人々も多い。 彼らは、ネパールはヒンズー教の国であり、世俗主義が彼らの宗教的信念と伝統を弱体化させていると信じています。 彼らは、ネパールのアイデンティティと文化はヒンズー教と結びついており、世俗主義がこれらの価値観を侵食する恐れがあると主張している.
全体として、ネパールにおける世俗主義の問題は依然として論争の的で複雑なものであり、意見は宗教的、文化的、政治的信念の影響を受けることが多い.
*****<以上,生成AI回答>*****
■連日AI報道(朝日新聞2023/05/05)
【参照】
* 宗教関係投稿一覧
*1 キリスト教牧師に有罪判決(1)-(5)
*2 キリスト教攻撃激化と規制強化(1)-(6)
*3 キリスト教とネパール政治(1)-(10)
*4 改宗勧誘・宗教感情棄損を禁止する改正刑法,成立
*5 「宗教の自由」とキリスト教:ネパール憲法の改宗勧誘禁止規定について
*6 キリスト教政党の台頭
*7 キリスト教会,連続攻撃される
*8 クリスマスを国民祭日に戻せ,キリスト者連盟
*9 キリスト教絵本配布事件,無罪判決
*10 改宗の自由の憲法保障,米大使館が働きかけ
*11 改宗勧誘は禁錮5年,刑法改正案
*12 世俗国家大統領の寺院「公式」参拝
*13 震災救援の複雑な利害関係(12):支援食品「牛肉マサラ」
*14 ヒンドゥー教王国復古運動,RPP-N
*15 宗教問題への「不介入」,独大使
*16 改宗勧奨: 英国大使のクリスマス・プレゼント
*17 国家元首のダサイン大祭参加
*18 世俗国家のダサイン
*19 国家世俗化とキリスト教墓地問題
*20 信仰の自由と強者の権利
*21 民族紛争、宗教紛争へ転化か?
*22 宗教と「表現の自由」:ヒンドゥー教冒涜事件
*23 民族州と「イスラム全国闘争同盟」結成
*24 世俗国家ネパールのクリスマス祭日
*25 仏教の政治的利用:ガルトゥング批判
*26 国家世俗化とネパール・ムスリムのジレンマ
*27 イスラム協会書記長,暗殺される
*28 ブッダ平和賞における政治と宗教
*29 毛沢東主義vsキリスト教vsヒンズー教
*30 コミュナリズムの予兆(1)-(7)
谷川昌幸(C)
セピア色のネパール(9): 死の日常性
ネパールに初めて行って最も驚き,衝撃を受けたのは,死そのものや死に関することが日常生活の中で不断に見られること。死の意義づけは様々かもしれないが,死それ自体は,ネパールでは,ほとんど隠されてはいなかった。
近現代人は,死を忌み嫌い,出来るだけ隠そうとする。毎日のように食べる魚や動物たちも,消費者の目に触れない,どこか別のところで機械的に効率よく殺され,捌かれ,美しくパック詰めにされ,商品として売り場に並べられている。われわれ消費者としての現代人は,他の生物の死を見ることなく,喜々として,その死骸を食べ,生きているのだ。
人の死も,現代社会では日常生活から切り離され,隠され,見えにくくなってきている。今では,たいていの人が病院や介護施設内で亡くなる。死に立ち会うのは,少数の親族・縁者か施設職員。夜間であれば,誰に見られることもなく,独り死んでいく人も少なくない。
葬儀も簡素化された。遺体は,専門業者の手で「まるで生きているかのように」美しく化粧され,葬祭場での「小さな」葬式のあと,出来るだけ「目立たない」普通の車で火葬場に運ばれ,電気炉で効率よく焼かれ,きれいな灰となる。あるいは,「小さな」葬式ですら忌避され,葬儀なしの「直葬」も多くなってきた。死は,非日常的な死(著名人や事件などの場合)を除けば,今日では日常生活の場では可能な限り遠ざけられ隠されている。われわれは,通常は,人や動物の死を身近に感じることなく日々,平穏に暮らしているのだ。
ところが,ネパールでは,人であれ動物であれ,その死は,日常的に,そこかしこで目にするものであった。
カトマンズでは,遺体を担架(のようなもの)に乗せて担ぎ街中を行く葬列をよく目にしたし,バグマティやビシュヌマティの河岸の火葬場では,毎日のように火葬が行われていた。
その火葬の状況は,おびただしい目撃談にあるように,実に衝撃的なものであった。河岸で遺体が次々と焼かれ,遺灰が川に流されているのに,そのすぐそばで沐浴や遊泳,あるいは洗濯さえする人がいた。あるいはまた,火葬をながめながら立ち話や行商をする人たちもいた。むろん,死を嘆き悲しむ縁者らもいたが,そこでは,そうした人々も含め,その場全体が総体としての日常の場となっているように思われた。死は,そこでは決して日常から切り離され,遠ざけられ,隠されてはいなかった。
日本でも,かつては,人の死が今ほど隠されてはいなかった。私の子供の頃の村では,たいていの人が,自宅で,家族らに見守られながら亡くなった。遺体を清め,死に装束を着せ,葬式を執り行い,遺体を棺桶に入れ,担いで墓場まで運び,自分たちで掘った墓穴に埋めて葬るのは,全部自分たち自身。人の死は,日本でも以前は,リアルなものとして具体的な生活の場で体験されていた。


動物ともなると,ネパールでは,その死は,文字通り日常的に,いつどこでも目にするものであった。
外国人観光客にとって最も衝撃的なのは,寺院での動物供儀。たとえば,ダクシンカリ寺院に行くと,参拝者が連れてきた山羊,鶏などが,神に捧げるため次々と首を切り落とされる。一面は血の海。参拝者は,供儀後の動物を捌き,近くの小川で洗い清め,袋に入れ自宅に持ち帰る。この動物供儀は,供儀動物を持ってこなくても,誰でも,間近で,その一部始終を見守ることが出来た。
こうした動物供儀は,ネパールの他の多くの寺院でも行われていた。ネパールの人々は,尊い動物たちの生命を神に捧げ,その亡骸を神に感謝しつつ食しているのだ。商品としてのパック詰め食肉を買って食べるわれわれよりも,はるかに敬虔であり,人間的に誠実ではないか。



これは,私自身が目撃したことではないが,ネパールの地方の学校では,野外学習や遠足に鶏や山羊を連れていき,昼になると,それらを捌き,調理して食べることがよくあったそうだ。似たようなことは,子供の頃,私の村でも近隣の集会などで,ときどき行われていた。

食の近代化以前は,どこでも,他の生命の犠牲によって生かされていることが,日々の食事の際,多かれ少なかれ具体的な形で意識されていた。ネパールにおける人や動物の生死の有様は,そのことを改めて思い起こさせてくれた。
谷川昌幸(C)
セピア色のネパール(5):神仏と祭りのカトマンズ盆地
ネパールに行って何よりも驚いたのは,神仏と祭りの多さ。いたるところに神や仏がいるし,毎日のように,どこかで大小さまざまな祭りが行われていた。人びとの生活は神仏とともにあった。
日本のわが村でも,1950年代末頃まで,高度成長・生活近現代化の波が及び始めるまでは,ネパールのそのような生活に近い暮らしであった。
神仏は,村の寺や神社にだけでなく,山や森や川や田や畑など,いたるところにいた。村人は,古来の習わしに従い,それぞれの神仏へのお参りを欠かさなかった。神仏は無数にいて,村人と共に暮らしていた。
いまでは信じられないことだが,小さなわが村でも秋の収穫後には,それぞれの家が親戚や友人を招き,盛大に祭りを祝った。獅子舞など様々な歌舞も催され,出店さえ軒を連ね,繁盛していた。近隣の村々でも,競って,同じように祭りを催していた。
今は昔,野の神仏は大半,忘れられ,雑木・雑草に埋もれるか,行方不明になってしまっている。村の生活は近現代化・合理化され,経済化され,もはや人びとには神仏にかかわる余裕はなくなってしまった。
近現代化,合理化,経済化が普遍的な現象だとすると,ネパールもわが村と同じような経過をたどるのではないか?
ネパールには大地震(2015年5月)翌年に行ったきりだが,そのときの印象では,震災もあってか,カトマンズ盆地の街や村は劇的に近現代化し始めていた。道端の神仏は無くなるか排ガスまみれ。小さな社寺の中には,見捨てらたかのように見えるものが少なくなかった。
ネパールでも,日本ほどではないだろうが,国家社会全体の資本主義化が進み,それとともに人びとの生活の世俗化・脱伝統宗教化も進行していくのではないだろうか。




谷川昌幸(c)
セピア色のネパール(3):マルクス・レーニン・毛沢東と古来の神仏たち
ネパールに初めて行った頃,街でも村でも,共産主義の様々なシンボルやプロパガンダがヒンドゥー教や仏教の神仏たちと,いたるところで並存・混在しているのを見て驚いた。まるで共産主義が神仏と共闘しているかのようだ。
日本でも,かつて革新勢力の牙城だった京都が,これに似た状況にあった。京都には古い寺院が多く,確固とした伝統と地域社会への影響力を保持していた。また一方,京都には大学も多くあり,庶民に京都の誇りとして一目置かれ,大切にされていた。その京都の大学では当時,社会主義や共産主義を支持し活動する教職員や学生が多数いたが,庶民は「大学さんやから」とこれを黙認し,あるいは支持さえしていた。京都では,本来異質な伝統的宗教と革新的社会主義・共産主義が平和共存していたのである。
その京都を目の敵にし,京都への強権的介入を始めたのが,自民党政権。が,この中央からの介入は,誇り高き京都の逆鱗に触れた。京都の寺院勢力と社共革新勢力は,自民党中央政府への抵抗・反対で利害が一致し,従来の消極的平和共存の枠から一歩外に出て,陰に陽に「共闘」することになった。他地域から見れば,これは無節操な「野合」かもしれないが,政治的には実利があり,その限りでは十分に合理的な選択であった。
この京都の状況を見ていたので,ネパールにおける共産主義と神仏の並存・混在それ自体には驚かなかったが,ネパールにおけるそれは京都の比ではなかった。いたるところで,仏陀とその弟子やヒンドゥーの神々たちが,マルクス・レーニン・毛沢東・ゲバラらと相並び,庶民を見守っていたのだ。
政治的打算や実利は,むろん双方にあっただろう。が,実際にはそんな表面的なものではないことが,すぐに判った。多くの人々が,伝統的なヒンドゥーや仏教の生活様式ーーカースト制などーーを堅持しつつ,同時に他方ではマルクス,レーニン,毛沢東,チェ・ゲバラらのスローガンや肖像をかかげ,行進したり集会を開いたりしていた。たとえば,当時の「共産党‐統一マルクスレーニン派」も,正統的中道の会議派(コングレス党)以上に,ヒンドゥー王国の守護者たる王族と近い関係にあった。左手に共産党宣言,右手に古来の経典!
ネパールは,政治的にも「神秘の国」だったのだ。

谷川昌幸
キリスト教牧師に有罪判決(5)
4.ケシャブ牧師訴追批判
ケシャブ・アチャルヤ牧師の逮捕・訴追については,ネパール内外のキリスト教関係諸機関が厳しい批判を繰り広げてきたことはいうまでもない。たとえば――
▼宗教の自由国際ラウンドテーブル(IRFR)公開書簡(2021年7月19日付)
「[当局の行為は]ネパール憲法の保障する法の支配を無視し,言論信仰の自由を不法に制限するものだ。このままであれば,アチャルヤ牧師の逮捕・再逮捕が悪しき前例となって,憲法26(1)条の定める安全保障がさらに掘り崩され,キリスト教徒や他の少数派諸宗教の人々は,自分たちの宗教信仰の自由を制限され,信仰の大原則を単に表明することさえ困難になってしまうだろう。」(*8)
▼メルヴィン・トマス(Christian Solidrity Worldwide 代表)
「ケシャブ牧師への嫌疑には全く根拠がない。彼の扱いは,正義に反する重大な過ちである。・・・・ネパールには,宗教信仰の自由への権利の保護促進を図っている国際社会の努力を尊重していただきたい。」(*8)
▼タンカ・スベディ(Religious Liberty Forum Nepal 議長)
「アチャルヤ裁判では,民主的世俗的ネパール憲法のもとでの最初の判決が下された。その判決は,ネパール憲法の精神を掘り崩すものであり,不当である。言論の自由や信仰告白の自由を台無しにし,少数派を抑圧するものだ。」(*14)
▼B.P.カナル(Nepal for the International Panel of Parliamentarians for Freedom of Religion or Belief ネパール代表)
「アチャルヤ逮捕の経緯だけをみても,その逮捕が不当なもので,キリスト教に対する計画的な行為であったことは明らかである。」(*14)
ここでB.P.カナルが指摘しているように,ケシャブ・アチャルヤ牧師の逮捕・訴追は,おそらく「計画的な(pre-planned)」権力行使であろう。妻ジュヌ牧師もこう指摘している。
▼ジュヌ・アチャルヤ牧師
「ケシャブ牧師の逮捕・有罪判決は,キリスト教社会全体に対する警告です。彼らは,ケシャブを処罰すれば,その有罪判決を見てキリスト教徒たちが学ぶだろう,と考えています。」(*14)
5.宗教と構造的暴力
ケシャブ牧師の逮捕・訴追につき,キリスト教会側が,内外声をそろえて,信仰の自由への権利を根拠に,ネパール政府当局を厳しく批判するのは,もっともである。信仰の自由は,もっとも重要な万人に保障されるべき基本的人権の一つである。
が,一方,その信仰の自由といえども,社会の中で行使されるのであり,社会の在り方と無関係ではありえない。
とりわけネパールのように,世界的にはむろんのこと,国内社会に限定しても,経済,教育,健康など多くの領域において構造的暴力の犠牲になっている人々がまだまだ多い場合には,たとえ信仰の自由といえども,その現状を十分踏まえ行使されなければならない。
たとえば,次のような報告。善意に疑いはないが,非キリスト教徒のネパールの人々がこれを読んだら,どう感じるか? いわずもがな,であろう。
「世界クリスチャンデータベースの数字によると,ネパールは世界で最もキリスト教人口が増加している国の一つだ。・・・・
改宗は違法のままだが,ほとんど実効性はない。キリスト教団体は社会的支援などのために入国し,その多くは活動とともに福音を伝えた。・・・・
C4Cの提携宣教団体『救い主だけがアジアの人々を贖う(SARA)』のテジュ・ロッカ牧師は,『彼らは病気の人や壊れた家族を見つけては話し掛けて祈りました。すると奇跡的にその人たちが確信を持ち,キリストに従い始めたのです』と述べた。『彼らは人々に,幾らかの食料と衣服を寄付しました。そのため,人々は彼らに耳を傾け始めたのです』」(*3)
【参照1】
*3 なぜネパールには、世界で最も急成長している教会があるのか, christiantoday.co.jp,翻訳:木下優紀, 2016/02/09
https://www.christiantoday.co.jp/articles/19022/20160209/nepal.htm
*8 Religious freedom groups call for dropping of charges against pastor in Nepal, LiCAS, 2020/07/28
https://www.licas.news/2020/07/28/religious-freedom-groups-call-for-dropping-of-charges-against-pastor-in-nepal/
*14 Pastor in Nepal Sentenced to Prison under Proselytism Law, Morning Star News, 2021/12/28
https://www.licas.news/2020/07/28/religious-freedom-groups-call-for-dropping-of-charges-against-pastor-in-nepal/
【参照2(2022/01/28追加】
「それでも、明治政府が天皇を「万世一系」「神聖不可侵」と定義したことには歴史的必然性があることは僕も認めます。幕末にアジア諸国を次々と植民地化してきた欧米帝国主義列強の圧倒的な経済力・軍事力の背景には白人種を人類の頂点とみなすキリスト教的コスモロジーがありました。だから、日本が列強に対抗するには、黒船だけではなくキリスト教にも対抗しなければならなかった。・・・・僕は神仏分離による日本の伝統的な宗教文化の破壊を悲しむものですけれども、「一神教文化に対抗する霊的な物語を創造しないと列強に対抗できない」という政治判断自体にはそれなりの合理性があったと思います。」内田樹「天皇制についてのインタビュー」『月刊日本』2022年2月号
谷川昌幸(C)
キリスト教牧師に有罪判決(4)
3.事件の経過:2020年3月~2021年12月
ケシャブ牧師は,2020年3月の最初の逮捕から現在まで2年近くにわたり裁判を闘ってきた。その経過の大要は,以下の通り。
2020年3月23日
ポカラのカスキ郡警察が3月23日,コロナに関するデマ(虚偽情報)拡散の容疑でケシャブ牧師を逮捕(1回目)。根拠法は報じられていないが,刑法の虚偽情報拡散禁止(84条)などの規定に依拠しているものと思われる。
警察によれば,ケシャブ牧師は,2月22日にユーチューブに投稿し,そこで,神にお祈りすれば,コロナは治る,神がコロナを死滅させてくれる,と説教したという。
牧師自身は,この2月22日のユーチューブ投稿それ自体は全面的に否定しているが,同趣旨に近い発言であれば,牧師は繰り返し行っている。たとえば―
「コロナよ,退散し死滅せよ。主イエスの御力で,お前らの行いがすべて根絶されんことを。主イエス・キリストの御名により,汝,コロナよ,お前を叱責する。その創造の御力,その統治者によりて,汝を叱責する・・・・。主イエス・キリストの御名により,その御力で,コロナよ,立ち去り死滅せよ。」(*8,9,11)
2020年2~3月頃は,ネパールのコロナ感染はまだ始まったばかりであったが,世論はこの未知のウィルスに過敏に反応し緊張が高まっていた。そうした情況で,たとえユーチューブ投稿ではなくても,かりにそうした趣旨の発言が集会か何かにおいてなされていたとするなら,それがかなり危険な発言であったことは,おそらく否定できないであろう。
この3月23日のケシャブ牧師逮捕時の状況について,妻のジュヌ牧師は,こう説明している。彼女によると,その日,一人の男がポカラの牧師宅に来て,コロナに感染した妻のために祈ってほしい,とケシャブ牧師に頼んだ。そして,(お祈りが済んで?)男が出ていくと,すぐ警官が入ってきて,コロナに関するデマを流したという嫌疑でケシャブ牧師を警察署に連行していったという。この説明は,ユーチューブ投稿との関係は不明だが,説明そのものとしては具体的だ。牧師逮捕時の状況は,おそらくそのようなものであったのであろう。
2020年4月8日
ケシャブ牧師は,ポカラのカスキ郡拘置所から保釈金5千ルピーで保釈されたが,その直後,再逮捕(2回目)。今回の容疑は,宗教感情の毀損(刑法156条)と改宗教唆(刑法158条)。
2020年4月19日
カスキ郡裁判所が,保釈金50万ルピーでの保釈を決定するが,牧師は保釈金を納付できず,拘置継続。
2020年5月13日
ケシャブ牧師は保釈請求が認められ保釈されるが,直ちに警察により別の容疑で逮捕され(3回目),そのまま身柄を遠隔地のドルパ郡警察に送られてしまった。
ドルパ郡は,ヒマラヤ奥地の高地で人口3万人余。そのうち「ドルポ」が面積の大半,人口の約半数を占めている。車道はまだ通じておらず,徒歩,馬などで3日間は移動しないと,ここには行くことが出来ない。ケシャブ牧師も,両手を後ろ手に縛られ,3日間かけてドルパに連行された。
ドルパ郡警察によると,ケシャブ牧師の逮捕理由は,牧師がドルパで住民にキリスト教パンフレットを配布し改宗を勧めた容疑。これに対し,牧師は,パンフレット配布は認めたが,改宗を勧めたことは否定した。警察側は,改宗を勧められた証人がいると主張したが,法廷には,結局,その証人は現れなかった。
2020年6月30日
ドルパ郡裁判所,ケシャブ牧師の保釈決定。保釈金30万ルピーで牧師保釈。
2021年11月22日
ドルパ郡裁判所,ケシャブ牧師に対し,宗教感情毀損と改宗教唆の罪で有罪判決。牧師は直ちに収監。
2021年11月30日
ドルパ郡裁判所,ケシャブ牧師に対し,禁錮2年,罰金2万ルピーの判決を言い渡す。
2021年12月19日
ドルパ郡裁判所,ケシャブ牧師の保釈を決定。


【参照】
*1 ネパールの改宗禁止法、信教の自由を侵害する恐れ 専門家が警告, christiantoday.co.jp, 翻訳:木下優紀,2015/07/22
*2 ネパール:昨年の大地震後、教会の数が著しく増加 聖公会の執事区が近況報告,christiantoday.co.jp, 記者:行本尚史, 2016/02/05
*3 なぜネパールには、世界で最も急成長している教会があるのか, christiantoday.co.jp,翻訳:木下優紀, 2016/02/09
*4 ネパール、国の祝日からクリスマスを除外 キリスト者側が反発, christiantoday.co.jp, 2016/04/11
*5 ネパールで「改宗禁止法」成立、大統領が署名 キリスト教団体が懸念,christiantoday.co.jp,翻訳:野田欣一,2017/10/29
*6 Police arrest pastor who said those believing in Christ are safe from coronavirus, Onlinekhabar, 2020/03/24
*7 Pastor in Nepal Re-Arrested, Morning Star News, 2020/05/15
*8 Religious freedom groups call for dropping of charges against pastor in Nepal, LiCAS, 2020/07/28
*9 Nepal sentences pastor to two years for conversion, UCA News, 2021/12/01
*10 Pastor Sentenced to Prison for Evangelism, Christian Solidarity Worldwide, 2021/12/02
*11 Pastor in Nepal sentenced to 2 years in prison for saying prayer can heal COVID-19, by Anugrah Kumar, Christian Post, 2021/12/05
*12 ネパールの牧師、新型コロナ感染症のために祈ったことで禁錮2年, Christian Today, 2021/12/10
*13 KESHAV RAJ ACHARYA,Church in Chains,2021/12/15
*14 Pastor in Nepal Sentenced to Prison under Proselytism Law, Morning Star News, 2021/12/28
谷川昌幸(C)
キリスト教牧師に有罪判決(3)
2.牧師夫妻とその教会
ケシャブ・ラジ・アチャルヤ(33歳)さんとその妻ジュヌ・アチャルヤさんは,ともに,アバンダント・ハーベスト教会(प्रशस्त कटनी मण्डलि)の牧師。子供は,2歳と7か月の男子二人。
このアバンダント・ハーベスト教会はプロテスタント系のようだが,そのどの教派に属するかまでは,ネット情報からだけでは不明。それでも,フェイスブックなどを見ると,夫妻の教会が活発に活動し,多くの人々を集めていることは確かなようだ。
夫のケシャブ牧師はまだ33歳。妻も同年代であろう。にもかかわらず,5年前,ポカラから十数キロ東のレクナートに「アバンダント・ハーベスト教会」を開き,メンバーは400人にもなっているという。そして,ほんの数か月前にはポカラに別の教会をつくり,これもメンバーは80人に達しているという。(ケシャブ牧師投獄のためポカラの教会を閉鎖したとされるが,詳細不明。)
フェイスブックやユーチューブでみると,ケシャブ牧師はたしかに情熱的で雄弁,その魅力で多くの人々を引きつけ,夫妻の教会を急成長させてきたのであろう。
なお,ポカラ付近にも,キリスト教会は,驚くほどたくさんある。下掲地図はレクナートを含む広域だが,地図を拡大すれば表示教会数はまだ増えるし,またグーグル登録されていない小さな教会も相当数あるに違いない。ケシャブ牧師逮捕事件の背景には,こうした地域の宗教状況の大きな変化もあるとみてよいであろう。



【参照】
*ネパール:昨年の大地震後、教会の数が著しく増加 聖公会の執事区が近況報告, 記者: 行本尚史, christiantoday.co.jp, 2016/02/05
*なぜネパールには、世界で最も急成長している教会があるのか, 翻訳: 木下優紀, christiantoday.co.jp, 2016/02/09
*Pastor in Nepal Sentenced to Prison under Proselytism Law, Morning Star News, 2021/12/28
谷川昌幸(C)
キリスト教牧師に有罪判決(2)
1.ネパール法の宗教規定
ネパールにおいて,宗教の在り方は,憲法と刑法により次のように規定されている。
(1)ネパール憲法(2015年)
・ネパール国民(राष्ट्र, nation)は「多宗教(複数宗教)」(3条)。
・ネパール国家(राज्य, state)は「世俗的(धर्मनिरपेक्ष, secular)」(4(1)条)。「『世俗的』は,古来の(सनातनदेखि, since ancient times, from the time immemorial)宗教・文化の保護および宗教的・文化的自由を意味する」(4(1)条)。
・すべての人は自分の宗教を「告白し,実践し,守護する自由」を有する(26(1)条)。
・宗教の自由の行使において,「何人も,公共の福祉・良識・道徳に反する行為,または他の人をある宗教から別の宗教に改宗(धर्म परिवर्तन, convert)させる行為,または他の人の宗教を妨害する行為を行ってはならないし,また行わせてもならない。そのような行為は法により処罰される」(26(3)条)
ネパール憲法は,以上のように「宗教の自由」を認めているが,その一方,その自由には「世俗的」と「改宗」の語による大きな限定が付されている。
「世俗的」の方は,国家による古来の宗教の保護をも意味する。したがって,もしこの側面が強調されるなら,ネパールは伝統的ヒンドゥー国家に限りなく近いことになる。
また,宗教を変更(改宗)させることが,このような無限定な形で禁止されてしまえば,宗教にかかわること,あるいは宗教者がかかわることは,なにも自由には出来ない恐れがある。そうなれば,それは,布教の法的禁止と,事実上,同じことになってしまいかねない。
(2)刑法(制定2017年,施行2018年)
ネパールの刑法(刑法典)は,憲法に基づき,宗教に関する刑罰を次のよう定めている。
・寺院・聖地等への加害の禁止(155(1)条)。違反は,3年以下の禁錮および3万ルピー以下の罰金(155(2)条)。外国人の場合は,刑期終了後7日以内に国外退去(155(3)条)。
・会話,文字,図画,サイン等により他者の宗教感情(धार्मिक भावना)を害することの禁止(156(1)条)。違反は,2年以下の禁錮および2万ルピー以下の罰金(156(2)条)。
・他者の古来の(सनातनदेखि)宗教を故意に害することの禁止(157(1)条)。違反は,禁錮1年以下または/および1万ルピー以下の罰金(157(2)条)。
・他者を改宗させる(धर्म परिवर्तन)ための一切の行為の禁止。違反は,5年以下の禁錮および5万ルピー以下の罰金。外国人の場合は,刑期終了後7日以内に国外退去(158(1)(2)(3)(4)条)。
刑法では,以上のように,憲法の一般的な宗教関係規定が,より詳細かつ具体的に罰則付きで明文化されている。
したがって,もしこれが宗教活動の規制に向け厳格に適用されれば,言論,出版,集会から社会・教育事業などまで,あらゆる活動が,宗教にかかわるとみなされると自由には出来ないことになってしまう。規制当局にとっては,まことに使い勝手のよい刑法ということになる。
(3)自由権規約(国際法)
ネパールは,「自由権規約(市民的及び政治的権利に関する国際規約)」を1991年に批准しており,したがってネパール国家にはこれを遵守する義務がある。
自由権規約は,思想,良心,宗教について第18,19条で次のように定めている。
・すべての者は思想,良心,宗教の自由への権利を有する。
・何人も単独で又は他の者と共同して,公に又は私的に,礼拝,儀式,行事及び教導によってその宗教を表明する自由を有する。
・何人も宗教選択は自由であり,宗教的強制は受けない。
・宗教の自由は,公共の安全等,必要な場合にのみ,法律により制限される。
・表現の自由は,口頭,手書き,印刷,芸術形態など自ら選択する方法で行使できる。
ネパールの憲法と刑法の宗教規定は,先述のように正当な人権としての宗教的自由を不当に制限するための法的根拠とされる恐れのあるものであり,したがって,もし仮に現実にその方向での解釈・運用に傾いていくならば,それは国際社会のこの自由権規約に抵触することになってしまうであろう。

谷川昌幸(C)
キリスト教牧師に有罪判決(1)
年末はクリスマスの季節,ネパールでも聖俗関連行事が年々盛んになってきたが,その一方,それに危機感を募らせる勢力によるキリスト教攻撃も半ば年中行事化してきた。
今年も,いくつかキリスト教攻撃事件があったが,ネパール国内にとどまらず世界的なニュースとなったのが,ケシャブ・ラジ・アチャルヤ牧師の裁判。
ケシャブさんは,ポカラの「アバンダント・ハーベスト教会」の牧師だが,その教会活動を通して人びとをキリスト教に改宗させたり,人びとの宗教感情を毀損したとして逮捕され,裁判にかけられ,この11月30日,ドルパ郡裁判所で禁錮2年,罰金2万ルピーの有罪判決を言い渡された。
この判決が出ると,欧米のキリスト教会が直ちに厳しい抗議声明を出したし,またネパールでも抗議の声が高まりつつある。
ネパールは,いまや世界で最もキリスト教徒の増加率の高い国の一つ。そのネパールにおいて,情熱的な説教で人気の高いケシャブ牧師が,その教会活動を違法とされ,有罪判決を下された。牧師側は上訴するであろうが,その上級審での裁判や,裁判の進行とともに展開されるであろう抗議活動は,今後どうなっていくのであろうか? 争点が宗教だけに,成り行きが心配される。
▼クリスマス満載の新聞


▼アバンダント・ハーベスト教会/ ケシャブ牧師


谷川昌幸(C)
老化の悲哀
生物にとって老化・老衰は宿命とはいえ,いざそれが自分の身に現れ始めると,当初は「まさか,まだ」と疑い,見て見ぬふりをし,ごまかして安心しようとするが,いつまでもそのようなことは続けられるはずもなく,どうしても否定しきれなくなると,落胆し,あきらめ,結局は認めざるをえなくなる。
私は,小身痩躯(中学以降,2年ほど前まで163cm/52kg前後)だが,幸い,いたって健康で,これといった病気には一度もなったことがなく,健康診断や予防注射も法定義務となっているもの以外は受けたことがなかった。
そんな私にも,70歳を過ぎるころから身体に少しずつ異変が現れ始めた。頭髪が抜け,視力が落ち,眠りが浅くなった。「あれ,変だなぁ・・・・老化が始まったのかな?」とは思ったが,まだ,老化といっても,どこか他人事,自分自身のこととしては見ていなかった。
ところが,母の介護で少々無理をし疲労蓄積を感じ始めた2年ほど前のある日,風呂に入り鏡に映った自分の身体を改めて見てみて,愕然とした――肋骨が浮き上がり,まるで骸骨のよう。あわてて小型体重計を買ってきて量ると,わずか45kg。中学生になって以降,もともと痩身ではあったが,こんなに痩せ細ったことは一度もなかった。
これは大変と,以後,栄養のありそうなものを出来るだけたくさん食べるようにしてきたが,いまもって体重は元の52㎏前後までは戻らない。いくら努力しても45kg前後の維持が精一杯。なぜだろう?
当初,体重減は介護疲れによる一時的な現象と頭から思い込んでいたが,いつまでたっても体重が回復しない現実を目の当たりにすると,本当の原因は病気か何か,別のところにあるのではと疑わざるをえなくなった。そこでイヤイヤながらも健康診断を受けてみたが,出た数値はどれも年相応,特に異状なし,ということであった。
あれ,医学的にはどこも悪くないはずなのに変だなぁ,とあれこれ思案していて,ハタと気付いた――これは自然な老化現象の一つにちがいない,他の動植物と同様,私も老化で痩せていき,いずれ骨と皮のようになり,枯れ果てる宿命なのだ,と。こうして,いささか遅ればせながらも,老化・老衰が,直視せざるをえない自分自身の現実の問題として切実に意識されるようになったのである。
私の老化は,今年に入り,新型コロナ(コビト19)感染拡大とほぼ同時に始まった鼻と眼の異常な乾燥により,さらに一段と進行したことが明白となった。いわゆるドライノーズ,ドライアイである。
はじめ鼻(鼻腔)が渇き始め,それが徐々に眼にも及んでいった。この時も,当初はまだ,風邪でも引いたのだろうと思い,たいして気にもしていなかったが,症状は,良くなったり悪くなったりを繰り返しながら,全体としては着実に悪化していった。
鼻腔がカラカラに乾き,嗅覚が異常に過敏となり,さらに激痛が始まり,時々出血さえする。これが四六時中。しばらくすると,鼻腔に加え,眼も乾き始めた。眼球を動かすと,ホコリが入っているかのような違和感を感じ,痛む。これも四六時中。
鼻にはドライノーズ用スプレー,眼には涙型点眼剤を使用。さらにマスクを湿らせ,昼も夜も一日中,着けるようにした。
が,それでも眼も鼻も治らない。そのため,夜は頻繁に目が覚め,熟睡できない。そして昼間も,鼻と眼の不快な痛みに加え,重度の不眠のため,イライラしたりボゥーとしたりしていて,集中して何かを考えたり行ったりすることは,およそ出来ない。
このような状態が続き,改善の兆しも見えないので,すっかり参ってしまい,再び怖ごわ健康診断を受けてみたが,またしても特に異状は無し。検査結果で見る限り,74歳にしては,数値的には健康なのだ。
とすれば,これもまた,痩せと同様,自然な老化現象の一つと覚悟せざるをえない。これまで鼻や眼に潤沢に供給され,それらを水みずしく保ってきた鼻水や涙が減り,涸れ始めたのだ。イヤなことだが,これも自然必然,なんとかやり繰りし折り合いをつけつつ,完全に涸渇し枯れ果てるまで生きていく以外に方法はなさそうだ。
むろん,こんなことを書くと,何を大げさな,老化など誰にとっても当たり前のことではないか,と呆れられ笑われるかもしれない。が,前述のように,少なくともほとんど病気知らずで生きてきた私自身にとっては,このような体重減や眼鼻の不調は初めての経験であり,したがって,それらにどう対処し,どう折り合いをつけていくべきか,まったく見当もつかなかったのである。
だから,このブログも,2020年6月10日の記事を最後に,これまで長期にわたって投稿してこなかった。関心のある情報を集め,読み,分析し,自分なりに評価して文章化することが出来なかったからである。
それでも,この半年余りの悪戦苦闘の結果,体重減や眼鼻の不調は自然な老化現象なのだと諦め,身体と精神をそれに合わせていくしかないことに気づき始めた。老化は,これから先,確実に,さらに加速度的に進む。それと折り合いをつけつつ,できるだけ平穏に生きていくように心掛けたい。わが愛犬が,痩せ細り骨と皮のようになりながらも,最後まで愛嬌を振りまきつつ,眠り込むように18年の生涯を全うしたように。
諦念は悟りであり救いである――そう願いたい。
谷川昌幸(C)
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