ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

Archive for the ‘政治’ Category

ネパール共産党とドゥンゲル恩赦(1)

1.ウジャン殺害とドゥンゲル裁判
「ネパール共産党(NCP)」は,「ネパール共産党統一マルクスレーニン主義派(CPN-UML)」と「ネパール共産党マオイストセンター(CPN-MC)」が5月17日合併して発足し,現在,連邦議会下院(275)で三分の二に近い174議席をもつ巨大政権党である。(連立している連邦社会主義フォーラムと合わせると,与党は190議席,総議席の69.1%となり,憲法改正も可能。)

合併以前のUMLは,伝統的中道政党のコングレス党(NC)以上に高位カースト寡占の権威主義的政党であったし,MCは言わずと知れた毛沢東主義政党,暴力革命たる「人民戦争(1996-2006)」を戦い抜き優勢裡に和平に持ち込んだプラチャンダら党幹部になお権限が集中する革命カリスマ的政党である。したがって,これら2党の合併により成立したNCPが両党の党体質を併せ持つことになったのは,至極当然の成り行きといえるであろう。

ネパール共産党(NCP)のこの党体質は,先のごり押し政党登録に加え,今年の共和国記念日恩赦(5月29日)によるドゥンゲル釈放をみると,さらに一層明らかとなる。

共和国記念日恩赦を受けたバル・クリシュナ・ドゥンゲルは,オカルドゥンガを地盤とするマオイスト幹部だが,人民戦争中の1998年,地元住民ウジャン・クマール・シュレスタを親族婚姻問題がらみで「スパイ」として虐殺した。裁判にかけられ,和平後の2010年,最高裁で終身刑が確定したが,マオイストの強引な介入により逮捕を免れた。彼が逮捕・収監されたのは,ようやく2017年11月選挙直前になってのことであった。ところが,選挙がらみで逮捕されたものの,そのわずか半年後の2018年5月29日,選挙で大勝し政権をとったオリ首相(NCP)がその強大な権力をバックに共和国記念日恩赦を実施,ドゥンゲルは釈放された。

たしかに,人民戦争期の事件については,通常の裁判により裁くか,それとも「真実和解委員会(TRC)」で解決するか,意見が分かれている。ウジャン虐殺事件も,マオイスト側は一貫してTRCで解決すべきだと主張してきた。他の諸政党――マオイストと連立時以外のUMLを含め――や人権諸団体は強く反対してきたが,このマオイスト側の主張にもまったく根拠がないわけではない。

そこで,そうしたマオイスト側の言い分も考慮しつつ,以下,今回のドゥンゲル恩赦の意味について検討してみることにしたい。ウジャン虐殺事件については,すでに概略を述べたことがあるので,ご参照いただきたい。
 参照:選挙と移行期正義(1):ウジャン・シュレスタ殺害事件 2017/11/19

 ▼ウジャン殺害事件 略年表
1998.06.24 マオイスト幹部バル・クリシュナ・ドゥンゲルとそのマオイスト仲間数名が,オカルドゥンガ郡でウジャン・クマル・シュレスタを「スパイ」・「人民の敵」として殺害,遺体をリクー川に投棄。
2004.05.10 オカルドゥンガ郡裁,ドゥンゲルに対し財産没収・終身刑(禁錮20年)の判決,収監。
2006.06.25 ラジビラジ上訴裁判所,郡裁判決を取り消し,無罪判決。ドゥンゲル釈放。
2008.04.- ドゥンゲル,オカルドゥンガ郡よりマオイスト(CPN-M)候補として制憲議会議員選挙に立候補し,当選。
2010.01.03 最高裁,ラジビラジ上訴裁判決を取り消し,郡裁判決支持。ドゥンゲルの財産没収・終身刑(禁錮20年)確定。ただし,議員特権により逮捕されず。以後,議員任期満了後も党に保護され2017年10月30日まで未収監。
2011.11.08 バブラム・バタライ首相(マオイスト),ドゥンゲル恩赦勧告。
2011.11.23 最高裁,ドゥンゲル恩赦手続き停止命令。
2013.11.11 選管,マオイスト比例制候補者名簿から終身刑を理由にドゥンゲルを削除。
2016.01.07 最高裁,恩赦要件明確化まで恩赦禁止を命令。
2016.04.12 D・トリパティ弁護士,不利な判決を下した判事脅迫を理由にドゥンゲルを法廷侮辱罪で告発。
2017.04.14 最高裁,ドゥンゲル逮捕を警察に命令するも,警察は逮捕せず。
2017.10.24 D・トリパティ弁護士,ドゥンゲル逮捕命令無視の警察総監を法廷侮辱罪で最高裁に告発。。
2017.10.31 ドゥンゲル逮捕,ディリバザール刑務所収監。
2017.11.- 連邦議会・州議会選挙。UML圧勝。UML・MC連立オリ政権成立へ。
2018.05.06 「刑務所規則」第4次改正。刑期短縮を「50%まで」から「60%まで」に緩和。
2018.05.20 ディリバザール刑務所,ドゥンゲルを含む恩赦候補者名簿提出。
2018.05.24 D・トリパティ弁護士,ドゥンゲル恩赦停止の仮処分を求め最高裁提訴。
2018.05.27 オリ内閣,共和国記念日恩赦決定。
2018.05.29 共和国記念日恩赦実施。ドゥンゲルを含む816人釈放。
2018.06.26 最高裁,ドゥンゲル恩赦釈放の取り消し請求を棄却。


 ■ウジャン(左)とドゥンゲル(右)(FB: No Amnesty for BalKrishna Dhungel 2011-11-11)

谷川昌幸(C)

紹介:三瓶清朝『みんなが知らないネパール―文化人類学者が出会った人びと』(5)

5.低カーストはキリスト教に向かわないか?
ネパールは宗教が生活に深く根付いた社会であり,人々がどの宗教を,どのように信仰するかは,ネパールの動向を知る最も重要な指標の一つである。この点について,本書では次のように述べられている。

「ヒンズー教的カースト制度を嫌う低い階層のカースト(民族)は,マルクス主義か仏教かに向かうだろう,逃げるだろうことは簡単に想像できる。現在のところ,なぜかキリスト教には向かっていない。」(181)

ここで著者が挙げている選択肢のうち,ネパールの低カーストや少数民族の人々がマルクス主義,とりわけ毛沢東主義に向かうことは,ネパール共産党毛沢東主義派(マオイスト)が1990年民主化後しばらくすると彼らの支持を得て急成長し,人民戦争(1996-2006年)を戦い,優勢裡に和平に持ち込み,戦後新体制に参画するに至ったことを見れば,すでに疑いようのない事実である。ただし,ネパールのマルクス主義や毛沢東主義はネパール独特のものであって,日本で一般に理解されているそれらの主義とは大きく異なるが,この点については別の機会に議論することにしたい。(仏教改宗については,いまのところ私には不明。)

では,キリスト教はどうか? 本書のもとになる現地調査は2001年8~9月であり,原稿完成は2016年3月下旬のことである。この時点での,低カーストの人々は「キリスト教には向かっていない」という分析は,どこまで妥当であろうか?

キリスト教は,1990年民主化を転機に,ネパールで低カーストや少数民族の人々を中心に信者を増やし始めた。2011年国勢調査によれば,キリスト教徒は全人口の1.14%となっており,すでに日本の1%(2012年)を上回っている。低カーストではサルキの4.3%,サンタル/サタルの6.1%がキリスト教徒だし,少数民族ではタマンの3.6%,ライの5.3%,チェパンの25.6%がキリスト教徒になっている。

しかも,2011年国勢調査のキリスト教徒数は過少報告とされており,実際にはキリスト教徒はすでに3~7%,あるいは2~3百万人にのぼるとさえいわれている。いまやキリスト教系メディアでは,「キリスト教徒急増国」がネパールに言及する際の格好の枕詞にさえなっている。教会は全国に約1万2千あるといわれているし,キリスト教系政党も先の国政選挙に立候補者を出した政党を含め数政党ある。これをどう見るか? 相対的にはキリスト教はなお弱小勢力なので,評価は難しい。

ネパールにおけるキリスト教の動向については,これまでに幾度か紹介したので,ご参照いただきたい。
 ・キリスト教とネパール政治(1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10)
 ・改宗勧誘・宗教感情棄損を禁止する改正刑法,成立
 ・「宗教の自由」とキリスト教:ネパール憲法の改宗勧誘禁止規定について
 ・キリスト教政党の台頭
 ・タルーのキリスト教改宗も急増
 ・キリスト教絵本配布事件,無罪判決
 ・改宗勧奨: 英国大使のクリスマス・プレゼント
 ・国家世俗化とキリスト教墓地問題

■ネパール:成長世界最速の教会(Nepal Church Com)

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2018/06/22 at 15:34

ネパール共産党の発足と課題(1)

1.ネパール共産党の発足
ネパール共産党(NCP)が5月17日,ネパール共産党統一マルクスレーニン主義派(CPN-UML)とネパール共産党マオイストセンター(CPN-MC)の合併により,正式に成立,発足した。

UMLとMCは2017年10月3日,合併への意向を共同発表,年末の連邦議会・州議会ダブル選挙を合併前提の選挙協力により戦い,勝利した。といっても大勝したのは相対的に大きなUMLであって,MCの方は期待したほどの成果は得られなかった。

そうしたこともあって,UML=MC連立政権は選挙後成立・発足したものの,両党合併の方は難航し,紆余曲折の末,ようやく半年近くかかって合意に達し,この5月17日正式に合併となったのである。

ネパール共産党 नेपाल कम्युनिष्ट पार्टी (नेकपा) Nepal Communist Party (NCP)
設立:2018年5月17日[CPN-UMLとCPN-MCが合併し設立]
イデオロギー:暫定的にマルクス・レーニン主義を党イデオロギー,人民多党制民主主義を党是とする。毛沢東主義の扱いは不明。正式には第一回党大会で決定。
党旗  選挙シンボル180602c
共同議長:KP・オリ[UML],PK・ダハル(プラチャンダ)[MC]
書記長:BP・パウデル[UML]
書記局:9[UML6,MC3]
常任委員会:45[UML26,MC19]
政治局:135
中央委員会:441[UML241,MC200]
大統領:BD・バンダリ[UML]
首相:KP・オリ[UML]
代議院議長:KB・マハラ[MC]
参議院[国民院]議長:GP・ティミルシナ[UML]
代議院(定数275)議員:174[UML121,MC53]
参議院[国民院](定数59)議員:39[UML27,MC12]
州議会:7州のうち第2州を除く6州で議会第1党
[*5月26日現在]

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2018/06/02 at 17:55

キリスト教とネパール政治(10)

1.「キリスト教徒急増」問題の複雑さと危険性
2.キリスト教系政党と2017年5月地方選挙
3.キリスト教会と2017年連邦・州ダブル選挙
 (1)キリスト教の急拡大
 (2)布教の法的規制
 (3)布教規制撤廃の働きかけ
 (4)キリスト教系政党の政界進出
4.改宗の理由
5.タマンのキリスト教改宗
 (1)民族/カースト別キリスト教改宗率
 (2)タマンの改宗:M・ジョンソンの分析
 (3)タマンの改宗:T・フリックの分析
 (A)調査地:ティムリン村[以上,前述]

5.タマンのキリスト教改宗
(3)タマンの改宗:T・フリックの分析
(B)村民ドルジェの改宗
フリックが聞き取り調査したのは,ティムリン村の初の改宗者ドルジェ・ガーレ。娘の病気をきっかけに1990年,彼が36歳のとき,妻とともにキリスト教に改宗した。

キリスト教は,ドルジェ改宗(1990年)以前の1980年代には,すでに近くのジャーラン(Jhalang)村やラブドゥン(Labdung)村には布教されており,信者がいた。ジャーラン村にはドルジェの友人がいたし,ラブドゥン村には妻の実家があった。

1990年改宗以前のある日(年月日不明),ドルジェの娘マヤワティが病気になった。父ドルジェは,慣習に従い,ヤギや羊などを犠牲にささげ,ボンボやラマに繰り返し祈祷してもらった。しかし,伝統的方法をいくら続けても,娘はよくならなかった。

困り果てていると,ラブドゥン村の義父(妻の父)が,自分の村にはクリスチャンがいるので,呼んできて回復を祈ってもらおうと提案した。

義父がラブドゥン村のS・タパのところに頼みに行くと,彼をはじめ約30人の信者がやってきて,娘の回復を祈ってくれた。すると,すぐ娘はよくなりはじめ,やがて全快した。費用のかかる犠牲や儀式は不要だった。

これをきっかけに,ドルジェは古いダルマを捨て,新しいダルマ,キリスト教を信じるようになった。

では,このドルジェのキリスト教改宗をどう解釈すべきか?

(C)改宗の西洋的解釈の不十分さ
ネパールにおけるキリスト教改宗の理由ないし動機については,西洋的な観点から,政治,経済,教育,病気治療など様々な実利と結び付け,あるいは布教活動の成果として,外在的に解釈される場合が多いが,いずれもそれらだけでは改宗理由の説明としては十分とは言えない。

ティムリン村の生活が,1980年代後半から大きく変わり始めたことは,事実である。賃労働が増え,職場も当初は近くの道路工事や鉱山だったが,やがてカトマンズや湾岸諸国への出稼ぎとなった。

1990年にはじまるティムリン村の改宗は,そうした生活環境の変化の下で行われた。しかし,この変化を改宗理由とすることは無理である。村人のうち新しい仕事に関係していた人々は改宗に消極的であり,改宗したのはむしろ伝統的な仕事をしている人々だったからである。

一方,ティムリン村の改宗と,1990年以降の民主化,開発,布教とは,かなり密接な関係がある。

「ティムリンの改宗は1990年以降の動きの一部である。それ以前に,おそらく1980年頃,南側のジャーランで多くのタマンが改宗した。そこの政治権力者や警察は彼らを殴りつけ投獄した。こうした『地下』生活にもかかわらず,1990年以前に,ジャーランのクリスチャンが何人かティムリンを訪れていた。布教に来たのだが,まったくの門前払いだった。改宗は違法,これが要するに布教活動への対応であった。このような態度は,1990年以降,民主化運動が始まり,キリスト教がそれと関係づけられ始めると,変化した。

この政治と改宗との結びつきは,1990年以後の初の選挙に見て取れる。旧秩序を代表するのはティムリンのラマたちと緊密な関係にある人物であり,これに対抗するのがいまや合法となったコングレス党の党員であった。そのコングレス党の政治家は,自らクリスチャンであると実際に明言することは決してなかったが,そのような噂の流布は容認していた。というのも,そのような噂が彼と新秩序との結びつきを様々なレベルで強化してくれたからである――[旧秩序と闘う]野党の一員であり,西洋的『近代』を代表する者であり,そして,キリスト教諸教会との結びつきにより得られると多くの人々が考え期待した多くの金や物との仲介者である,と。さらに,[改宗と]開発との結びつきが,ティムリンで周知の呼び方で広まりさえした。たいていの人が,キリスト教のダルマを農民のダルマ(kisan dharma)と呼び変えた。そして,この農業と西洋との結び付けが,開発(bikas)との結び付けを容易とした。というのも,新しい農業技術を持ち込む来訪者たちが開発をもっぱら目的にしていることを,つねに見聞きしていたからである。」(p.2-3)

「ティムリンの人々は,カトマンズに出て俗人牧師教育を受け始めると,クリスチャンとの付き合いが深まり,彼らが獲得した新たなダルマには異なった宗派的な解釈があることを知った。さらに彼らは,1990年以降のネパールにおける激しい布教競争の下で,外国の教会が新しい布教地でその教会を代表する人々に仕事,教育,金など様々なものをくれることにも気づかされた。」(p.3-4)

しかしながら,それでもなお,これらは外部要因による改宗の外在的解釈であり,ティムリン村のような改宗の説明としては十分ではない。そう著者は考えるのである。

(D)自発的動機による改宗
タマンの人々は,古来,交換と分かち合いを基軸とするダルマ(徳,宗教)を大切にして暮らしてきた。そして,不幸にして強欲がはびこり悪政に陥りダルマを維持できなくなると,そのつど彼ら自身で新しい王やラマを探して迎え,ダルマを回復した。ティムリン村のキリスト教改宗も,以前と同様,村人自身が失われたダルマを回復するために行われた。

「ティムリンの改宗は,布教ミッションによることなく,村人自身の意思により行われた。タマンの人々は,自分たちに新しいダルマを教えてくれるネパール人のクリスチャンを探し出した。」(p.2)

「最初の改宗以降の展開は,むろん複雑であり,完全には思い通りにはならないであろう。・・・・[とはいえ]ティムリンの人々は,キリスト教への改宗の当初は祖先に極めて近い行動の仕方をしたと私は考えるのである。」(p.18-19)

――以上のように,この論文の結論は,いかにも人類学者らしく,キリスト教改宗の自発性・内発性を強調するものとなっている。

たいへん面白いが,その一方,タマン社会において伝統的なダルマがなぜ維持できなくなったのか,そしてまた,彼らがどこまで自覚的にタマン社会の伝統的な交換と分かち合いのエートスないし徳の回復・維持を目的としてキリスト教を取り入れたのかを考えると,改宗の自発性・内発性を強調する著者の結論にはやや無理があるようにも思われる。娘の病気を治してくれたのでキリスト教を信じるようになったというのは,政治,経済,教育など他の実利のための改宗と構造的には異ならないように見えるのだが。

 

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2018/04/21 at 16:06

キリスト教とネパール政治(9)

1.「キリスト教徒急増」問題の複雑さと危険性
2.キリスト教系政党と2017年5月地方選挙
3.キリスト教会と2017年連邦・州ダブル選挙
 (1)キリスト教の急拡大
 (2)布教の法的規制
 (3)布教規制撤廃の働きかけ
 (4)キリスト教系政党の政界進出
4.改宗の理由
5.タマンのキリスト教改宗
 (1)民族/カースト別キリスト教改宗率
 (2)タマンの改宗:M・ジョンソンの分析[以上,前述]

5.タマンのキリスト教改宗
(3)タマンの改宗:T・フリックの分析
タマンの改宗を扱った文献としては,他にも,たとえばトム・フリック「タマンの改宗:文化・政治とキリスト教改宗の語り」(2008, *1)がある。著者はミシガン大学人類学教授で,この論文もネット掲載。タマン改宗者からの聞き取り調査をもとに,キリスト教改宗の動機や過程が実証的に記述・分析されており,改宗の内発性を強調する結論部分はやや難解だが,改宗過程の具体的記述はたいへん分かりやすく,読んで面白い。以下,概要を紹介する。なお,被調査タマンの人々は仮名とされている。

(A)調査地:ティムリン村
著者のトム・クリックはタマン調査に1981年に着手し,10年後の1990年頃から研究成果を次々に発表した。「タマン家族調査プロジェクト(報告)」(1990,*2),「ネパール・ヒマラヤにおける基礎構造:ガーレ‐タマン婚姻の相互性と上下関係政治」(1990, *3),『ヒマラヤの世帯:タマン人口動態と世帯の変化』(1994,*4),そしてここで紹介する「タマンの改宗」(2008, *1)など。

「タマンの改宗」の調査地は,ダディン郡のティムリン村。フリックは「Timling」と表記しているが,著者らの報告「タマン家族調査プロジェクト」の表紙や地図では「Tipling」となっており,現在の地図でも「Tipling」とされている,他にも「Tibling」の表記もある。同じ村と考え,以後,ティムリンと記す。

ティムリン村は,ダディン郡の北部,アンク川(アンクコーラ川)上流域にあり,近くにセルトゥン(Sertung)やジャーラン(Jhalang)がある。村(VDC全体ではなくティムリン村だけ)の人口は,1980年代で約650人。タマンとガーレがほぼ半分ずつで,農耕と牧畜を生業とし,タマン語が話されている。キリスト教改宗以前は,伝統的なチベット仏教やシャーマン信仰であった。

このティムリンの村民が,1990年民主化前後にキリスト教に改宗しはじめ,遅くとも2008年(調査発表の頃)までにはラマ2家族と村長家族を除き,ほぼ全村民がクリスチャンになったのである。

 ■ティムリン村(*2)

*1 Tom Fricke, “Tamang Conversions: Culture, Politics, and the Christian Conversion Narative in Nepal,” Contributions to Nepalese Studies, Tribhuvan Univ. 2008.
*2 Tom Fricke et al., “Tamang Family Research Project,” Report to the Center for Nepal and Asian Studies, TU, May 1990.
*3 Tom Fricke, “Elementary Structures in the Nepal Himalaya: Reciprocity and the Politics of Hierarchy in Ghale-Tamang Marriage,” Ethnology, 1990
*4 Tom Fricke, Himalayan Households: Tamang Demography and Domestic Processes, 2nd. ed., Columbia Univ. Press, 1994
*5 Tom Fricke, “Marriage Change as Moral Change,” G.W. Jones et al ed.. The Continuing Demographic Transition, Oxford Univ. Press, 1997

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2018/04/20 at 17:06

キリスト教とネパール政治(8)

1.「キリスト教徒急増」問題の複雑さと危険性
2.キリスト教系政党と2017年5月地方選挙
3.キリスト教会と2017年連邦・州ダブル選挙
 (1)キリスト教の急拡大
 (2)布教の法的規制
 (3)布教規制撤廃の働きかけ
 (4)キリスト教系政党の政界進出
4.改宗の理由
5.タマンのキリスト教改宗
 (1)民族/カースト別キリスト教改宗率[以上,前述]

5.タマンのキリスト教改宗
(2)タマンの改宗:M・ジョンソンの分析
タマンの人々のキリスト教への改宗については,専門的なものから時事的なものまで,多くの言及がある。たとえば,ネット掲載のものとしては,マーク・ジョンソン「恩寵と貪欲:タマンのキリストへの動きとそれを損なうもの」(*1)。

ただ,この文献については,著者のことも掲載誌のことも,いまのところよくわからない。掲載誌『Voice of Bhakti』は,ネパールないしヒンドゥー社会においてキリスト教布教を目指す「バクティバニ」のウェッブサイトに掲載されており,著者のマーク・ジョンソンはそのウェッブサイト編集者のペンネームだということだけ。この点がいささか気がかりだが,記述自体は比較的わかりやすいので,以下,要点を紹介する。

 (A)タマン村民の改宗(「恩寵と貪欲」要旨)
「この20年のネパール教会史において最も意義深いのは,疑いもなく,タマン社会集団[コミュニティ]に属する多くの人々がキリストのもとに集うようになったことである。」

タマンのキリスト受容において重要であったのは,1960年代の二つの出来事である。一つは,1960年代半ばに,二人の聖書伝道者[おそらく西洋人]がヌワコットにやってきて,一人のタマンを助手として雇ったこと。やがて彼はキリスト教に改宗し,その彼を通して彼の村や近隣の村々の人々も改宗,彼ら自身の教会をつくっていった。

もう一つは,同じころ,一人の指導的牧師[国籍不明]に導かれ,ダディン郡の二人のタマンがキリスト教に改宗したこと。数年前,そのうちの一人の家に行き,話を聞くことができた。

「私は,ダディン山地の村のラマだった。たいへん尊敬されていた。ある日,妻が病気になった。治すため出来ることはすべて試みたが,妻はよくならなかった。そうしたとき,ヨハネ福音書を目にし,読み,感動した。その直後,近くの村からキリスト教徒が何人か私のところにやってきた。迫害されているので,私の村に避難させてほしいとのこと。その彼らから福音について聞き,すぐ私自身もキリストを信じるようになった。彼らは,イエスの名をもって妻のために祈ってくれ,これにより妻は癒された。ところが,彼ら信者への迫害はなおも続いたので,彼らはラモゴダ[位置不明]に移住した。しばらくして,私もラモゴダに移り,そこに教会をつくった。

二人のうちのもう一人は,ナワルパラシ郡に移住し,そこで何千人ものタマンの牧師となった。

このような形のキリスト教への改宗が,何年か続いた。ところが,1980年代末になると,状況は大きく変化した。ダディン郡北部,アンク・コーラ谷地域において,キリスト教改宗への大きな動きが始まったのだ(外部からの訪問者の報告によると,1985年にはその動きは始まっていた)。1990年5月にラモゴダの指導者から聞いたところによると,2万人ものタマンがキリストを信じるようになった(リパートの推計も同じ)。この改宗は,部外者の意図的働きかけによるというよりは,むしろ自発的な動きによるところが大きいと思われる。この指導者はラモゴダを拠点としていたが,そこから自分の聖書と傘だけをもち,徒歩数日の[アンク・コーラ谷の]これらの村々を定期的に訪れていたという。」

(B)タマンの改宗理由
タマンのこのようなキリスト教改宗への動機ないし理由について,マーク・ジョンソンは,B・リパート(*2)やD.H. ホームバーグ(*3)を援用しつつ,次のように説明している。

第一に,グローバル化と経済,政治の変化。1980年代頃からネパール農業は伝統的共同体的農作業から農業労働者使用へと変化し始め,生産性も向上した。

出稼ぎも変わった。以前は主にインドやブータンに出稼ぎに行き,得た金はたいてい食料等の生活必需品の購入に充てた。一方,少数の金持ちは威信維持に必要な儀式などに金を使っていた。ところが90年代以降になると,出稼ぎ先は湾岸諸国や東南アジアになり,得た金は電化製品などの新しい生活用品の購入に回されるようになった。

さらに政治も民主化され,政党政治となり,特に選挙では個々人が選択を迫られ,伝統的共同体的な結びつきが揺らぎ始めた。

こうした政治・経済の変化の結果,タマンの伝統的宗教も現代世界の多くの宗教の一つと見られるようになった。

第二に,教育の普及。若い世代の人々は,教育を通して新しい諸価値や科学的思考に触れ,伝統的タマン文化をしばしば拒否するようになった。そして,識字能力を身につけた人々は,聖書の読み聞かせなど,キリスト教普及の中心ともなってきた。

第三に,病院や診療所――多くはミッション系――による西洋医薬品による治療。それらの方が治療効果と経費の点で勝ることを知り,祈祷や供儀など伝統的病気治療への疑問が広がった。ラマ,シャーマンらの権威の失墜。

こうして,タマン社会は特に1990年代以降,大きく変化した。M・ジョンソンはこう述べている。

「タマンの世界は,もはやかつてのように地域内に閉ざされた狭い社会ではない。今日では,カトマンズ大都市圏に行ったことがないタマンは,ほとんどいない。ソハクッティからタメル北部付近は,タマンのお隣さんといってもよい。カトマンズに出たいタマンには,たいてい従兄弟やおじがいて,そこに滞在することもできる。さらにカトマンズでは外国人に出会ったり,テレビを見たりして,両親は夢にも見なかったような大きな世界にむけ心を開くことになるのである。」

(C)なぜプロテスタントか?
最後にもう一つ,タマンの人々が主として受け入れたのはプロテスタントだったが,それはなぜかという疑問。この点について,M・ジョンソンは次のように説明している。

ヌワコット~カンチャンプルの地域にはタマン教会が140あり,5万人の信者がいるが,大半は福音派プロテスタント。

キリスト教は,神を直接礼拝できるので仲介者はいらないし,伝統的儀式や動物供儀も不要であり,費用がかからない。「タマンが万人司祭の宗教改革原理を歓迎していることは明らかだ。」

プロテスタント伝道師は,伝統的な宗教や文化との明確な断絶を求める。これに対し,カトリック宣教師は,それらとの結びつきを出来るだけ保とうとする。これが,村人たちには,ラマやシャーマンへの妥協と見えた。そのため,タマンはプロテスタントの方にひかれ,プロテスタント教会の信者となった。

「タマンは,たしかにプロテスタント伝道師たちの訴えをよく受け入れた。それは,彼らの訴えがタマン社会の今の変化に沿うものと思われたからである。タマンは,プロテスタンティズムの方が,彼らにとっては今の新しい経済,政治,社会の在り方によりよく適合する,と考えているのである。」

以上の説明は,たしかに明快だが,少々強引なような気もする。タマンの人々は,どこまで教義を理解し比較したうえで,プロテスタントを選んできたのか? タマン居住地域ではプロテスタントの布教活動の方が活発だったので,結果的にプロテスタント教会が選ばれたのではないのか? 有力なカトリック教会のあるカトマンズ盆地では,タマンにもカトリック信者が多いのではないか? これは興味深い論点ではあるが,検討は今後の課題としたい。


 ■ダディン郡(reliefwebより)/ アンクコーラ川

*1 Mark Johnson, “Grace and Greed: The Making and Marring of the Tamang Movement to Christ,” Voice of Bhakti, Vol. 3, No,1, Feb. 2004.
*2 B. Ripart, “Innovations among the Poor: Conversions to Christianity in Central Nepal,” in Anand Amaladass ed., Profiles of Poverty and Networks of Power, 2001.
*3 David H. Holmberg, Order in Paradox: Myth, Ritual, and Exchange among Nepal’s Tamang, 1996.

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2018/04/16 at 16:45

カテゴリー: 宗教, 政治, 民族

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キリスト教とネパール政治(7)

1.「キリスト教徒急増」問題の複雑さと危険性
2.キリスト教系政党と2017年5月地方選挙
3.キリスト教会と2017年連邦・州ダブル選挙
 (1)キリスト教の急拡大
 (2)布教の法的規制
 (3)布教規制撤廃の働きかけ
 (4)キリスト教系政党の政界進出
4.改宗の理由[以上,前出]

5.タマンのキリスト教改宗
ネパールにおけるキリスト教への改宗は,それでは具体的にどのように行われてきたのであろうか? これもケースバイケース,様々な形があろうが,ここでは統計上最も改宗者の多いタマンの人々の改宗について紹介したい。(民族/カーストごとの改宗率が一番高いのは先述のチェパン。)

(1)民族/カースト別キリスト教改宗率
ネパールの宗教別信者数は,ネパール政府中央統計局(CBS)が人口調査の一項目として調査し定期的に発表している。

ただ,宗教は複雑で微妙な問題。日本でも,正月は神社,盆はお寺,結婚式は教会といった慣行が珍しくないように,ネパールでも個々人の宗教をいずれか一つに特定することは難しい場合が少なくない。また,ヒンドゥー教が国教だったころは無論のこと,世俗国家になってからも,他宗教,特にキリスト教は警戒され,信者数が過少カウントされているといわれている。いわば,ネパール版かくれキリシタン!

とはいえ,いまのところCBS統計以上に便利な人口統計は見当たらないので,以下に,CBS統計の宗教に関する部分,あるいはそれに基づいた統計をいくつか紹介する。(教徒数最多のタマンと教徒比率最高のチェパンの部分は赤字表示。)

 

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2018/04/11 at 14:39