ネパール評論 Nepal Review

ネパール研究会

Archive for the ‘文化’ Category

キリスト教牧師に有罪判決(5)

4.ケシャブ牧師訴追批判
ケシャブ・アチャルヤ牧師の逮捕・訴追については,ネパール内外のキリスト教関係諸機関が厳しい批判を繰り広げてきたことはいうまでもない。たとえば――

▼宗教の自由国際ラウンドテーブル(IRFR)公開書簡(2021年7月19日付)
「[当局の行為は]ネパール憲法の保障する法の支配を無視し,言論信仰の自由を不法に制限するものだ。このままであれば,アチャルヤ牧師の逮捕・再逮捕が悪しき前例となって,憲法26(1)条の定める安全保障がさらに掘り崩され,キリスト教徒や他の少数派諸宗教の人々は,自分たちの宗教信仰の自由を制限され,信仰の大原則を単に表明することさえ困難になってしまうだろう。」(*8)

▼メルヴィン・トマス(Christian Solidrity Worldwide 代表)
「ケシャブ牧師への嫌疑には全く根拠がない。彼の扱いは,正義に反する重大な過ちである。・・・・ネパールには,宗教信仰の自由への権利の保護促進を図っている国際社会の努力を尊重していただきたい。」(*8)

▼タンカ・スベディ(Religious Liberty Forum Nepal 議長)
「アチャルヤ裁判では,民主的世俗的ネパール憲法のもとでの最初の判決が下された。その判決は,ネパール憲法の精神を掘り崩すものであり,不当である。言論の自由や信仰告白の自由を台無しにし,少数派を抑圧するものだ。」(*14)

▼B.P.カナル(Nepal for the International Panel of Parliamentarians for Freedom of Religion or Belief ネパール代表)
「アチャルヤ逮捕の経緯だけをみても,その逮捕が不当なもので,キリスト教に対する計画的な行為であったことは明らかである。」(*14)

ここでB.P.カナルが指摘しているように,ケシャブ・アチャルヤ牧師の逮捕・訴追は,おそらく「計画的な(pre-planned)」権力行使であろう。妻ジュヌ牧師もこう指摘している。

▼ジュヌ・アチャルヤ牧師
「ケシャブ牧師の逮捕・有罪判決は,キリスト教社会全体に対する警告です。彼らは,ケシャブを処罰すれば,その有罪判決を見てキリスト教徒たちが学ぶだろう,と考えています。」(*14)

5.宗教と構造的暴力
ケシャブ牧師の逮捕・訴追につき,キリスト教会側が,内外声をそろえて,信仰の自由への権利を根拠に,ネパール政府当局を厳しく批判するのは,もっともである。信仰の自由は,もっとも重要な万人に保障されるべき基本的人権の一つである。

が,一方,その信仰の自由といえども,社会の中で行使されるのであり,社会の在り方と無関係ではありえない。

とりわけネパールのように,世界的にはむろんのこと,国内社会に限定しても,経済,教育,健康など多くの領域において構造的暴力の犠牲になっている人々がまだまだ多い場合には,たとえ信仰の自由といえども,その現状を十分踏まえ行使されなければならない。

たとえば,次のような報告。善意に疑いはないが,非キリスト教徒のネパールの人々がこれを読んだら,どう感じるか? いわずもがな,であろう。

「世界クリスチャンデータベースの数字によると,ネパールは世界で最もキリスト教人口が増加している国の一つだ。・・・・

改宗は違法のままだが,ほとんど実効性はない。キリスト教団体は社会的支援などのために入国し,その多くは活動とともに福音を伝えた。・・・・

C4Cの提携宣教団体『救い主だけがアジアの人々を贖う(SARA)』のテジュ・ロッカ牧師は,『彼らは病気の人や壊れた家族を見つけては話し掛けて祈りました。すると奇跡的にその人たちが確信を持ち,キリストに従い始めたのです』と述べた。『彼らは人々に,幾らかの食料と衣服を寄付しました。そのため,人々は彼らに耳を傾け始めたのです』」(*3)

【参照1】
*3 なぜネパールには、世界で最も急成長している教会があるのか, christiantoday.co.jp,翻訳:木下優紀, 2016/02/09
https://www.christiantoday.co.jp/articles/19022/20160209/nepal.htm
*8 Religious freedom groups call for dropping of charges against pastor in Nepal, LiCAS, 2020/07/28
https://www.licas.news/2020/07/28/religious-freedom-groups-call-for-dropping-of-charges-against-pastor-in-nepal/
*14 Pastor in Nepal Sentenced to Prison under Proselytism Law, Morning Star News, 2021/12/28
https://www.licas.news/2020/07/28/religious-freedom-groups-call-for-dropping-of-charges-against-pastor-in-nepal/

【参照2(2022/01/28追加】
「それでも、明治政府が天皇を「万世一系」「神聖不可侵」と定義したことには歴史的必然性があることは僕も認めます。幕末にアジア諸国を次々と植民地化してきた欧米帝国主義列強の圧倒的な経済力・軍事力の背景には白人種を人類の頂点とみなすキリスト教的コスモロジーがありました。だから、日本が列強に対抗するには、黒船だけではなくキリスト教にも対抗しなければならなかった。・・・・僕は神仏分離による日本の伝統的な宗教文化の破壊を悲しむものですけれども、「一神教文化に対抗する霊的な物語を創造しないと列強に対抗できない」という政治判断自体にはそれなりの合理性があったと思います。」内田樹「天皇制についてのインタビュー」『月刊日本』2022年2月号

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2022/01/15 at 17:58

キリスト教牧師に有罪判決(2)

キリスト教牧師に有罪判決(1)

1.ネパール法の宗教規定
ネパールにおいて,宗教の在り方は,憲法と刑法により次のように規定されている。

(1)ネパール憲法(2015年)
・ネパール国民(राष्ट्र, nation)は「多宗教(複数宗教)」(3条)。
・ネパール国家(राज्य, state)は「世俗的(धर्मनिरपेक्ष, secular)」(4(1)条)。「『世俗的』は,古来の(सनातनदेखि, since ancient times, from the time immemorial)宗教・文化の保護および宗教的・文化的自由を意味する」(4(1)条)。
・すべての人は自分の宗教を「告白し,実践し,守護する自由」を有する(26(1)条)。
・宗教の自由の行使において,「何人も,公共の福祉・良識・道徳に反する行為,または他の人をある宗教から別の宗教に改宗(धर्म परिवर्तन, convert)させる行為,または他の人の宗教を妨害する行為を行ってはならないし,また行わせてもならない。そのような行為は法により処罰される」(26(3)条)

ネパール憲法は,以上のように「宗教の自由」を認めているが,その一方,その自由には「世俗的」と「改宗」の語による大きな限定が付されている。

「世俗的」の方は,国家による古来の宗教の保護をも意味する。したがって,もしこの側面が強調されるなら,ネパールは伝統的ヒンドゥー国家に限りなく近いことになる。

また,宗教を変更(改宗)させることが,このような無限定な形で禁止されてしまえば,宗教にかかわること,あるいは宗教者がかかわることは,なにも自由には出来ない恐れがある。そうなれば,それは,布教の法的禁止と,事実上,同じことになってしまいかねない。

(2)刑法(制定2017年,施行2018年)
ネパールの刑法(刑法典)は,憲法に基づき,宗教に関する刑罰を次のよう定めている。
・寺院・聖地等への加害の禁止(155(1)条)。違反は,3年以下の禁錮および3万ルピー以下の罰金(155(2)条)。外国人の場合は,刑期終了後7日以内に国外退去(155(3)条)。
・会話,文字,図画,サイン等により他者の宗教感情(धार्मिक भावना)を害することの禁止(156(1)条)。違反は,2年以下の禁錮および2万ルピー以下の罰金(156(2)条)。
・他者の古来の(सनातनदेखि)宗教を故意に害することの禁止(157(1)条)。違反は,禁錮1年以下または/および1万ルピー以下の罰金(157(2)条)。
・他者を改宗させる(धर्म परिवर्तन)ための一切の行為の禁止。違反は,5年以下の禁錮および5万ルピー以下の罰金。外国人の場合は,刑期終了後7日以内に国外退去(158(1)(2)(3)(4)条)。

刑法では,以上のように,憲法の一般的な宗教関係規定が,より詳細かつ具体的に罰則付きで明文化されている。

したがって,もしこれが宗教活動の規制に向け厳格に適用されれば,言論,出版,集会から社会・教育事業などまで,あらゆる活動が,宗教にかかわるとみなされると自由には出来ないことになってしまう。規制当局にとっては,まことに使い勝手のよい刑法ということになる。

(3)自由権規約(国際法)
ネパールは,「自由権規約(市民的及び政治的権利に関する国際規約)」を1991年に批准しており,したがってネパール国家にはこれを遵守する義務がある。

自由権規約は,思想,良心,宗教について第18,19条で次のように定めている。
・すべての者は思想,良心,宗教の自由への権利を有する。
・何人も単独で又は他の者と共同して,公に又は私的に,礼拝,儀式,行事及び教導によってその宗教を表明する自由を有する。
・何人も宗教選択は自由であり,宗教的強制は受けない。
・宗教の自由は,公共の安全等,必要な場合にのみ,法律により制限される。
・表現の自由は,口頭,手書き,印刷,芸術形態など自ら選択する方法で行使できる。

ネパールの憲法と刑法の宗教規定は,先述のように正当な人権としての宗教的自由を不当に制限するための法的根拠とされる恐れのあるものであり,したがって,もし仮に現実にその方向での解釈・運用に傾いていくならば,それは国際社会のこの自由権規約に抵触することになってしまうであろう。

Nepal Law Commission

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2021/12/31 at 17:07

キリスト教牧師に有罪判決(1)

年末はクリスマスの季節,ネパールでも聖俗関連行事が年々盛んになってきたが,その一方,それに危機感を募らせる勢力によるキリスト教攻撃も半ば年中行事化してきた。

今年も,いくつかキリスト教攻撃事件があったが,ネパール国内にとどまらず世界的なニュースとなったのが,ケシャブ・ラジ・アチャルヤ牧師の裁判。

ケシャブさんは,ポカラの「アバンダント・ハーベスト教会」の牧師だが,その教会活動を通して人びとをキリスト教に改宗させたり,人びとの宗教感情を毀損したとして逮捕され,裁判にかけられ,この11月30日,ドルパ郡裁判所で禁錮2年,罰金2万ルピーの有罪判決を言い渡された。

この判決が出ると,欧米のキリスト教会が直ちに厳しい抗議声明を出したし,またネパールでも抗議の声が高まりつつある。

ネパールは,いまや世界で最もキリスト教徒の増加率の高い国の一つ。そのネパールにおいて,情熱的な説教で人気の高いケシャブ牧師が,その教会活動を違法とされ,有罪判決を下された。牧師側は上訴するであろうが,その上級審での裁判や,裁判の進行とともに展開されるであろう抗議活動は,今後どうなっていくのであろうか? 争点が宗教だけに,成り行きが心配される。

【参照】キリスト教攻撃激化と規制強化 キリスト教関連記事 

▼クリスマス満載の新聞

■ゴルカパトラ(2021/12/25)
■ヒマラヤン(2021/12/25)

▼アバンダント・ハーベスト教会/ ケシャブ牧師

■アバンダント・ハーベスト教会(Google)
■ケシャブ牧師(FB)

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2021/12/27 at 17:22

性別「X」パスポート,英国発行せず

英国最高裁判所は12月15日,性別「X」パスポートの発行を求めて上訴したクリスティ・エラン‐ケインさんの訴えを棄却した。ネパールをはじめ,すでに十数か国が「X」パスポートの発行を始めたというのに,さすが保守本家,アダム/イブ以来の男女峻別の正統を断固堅持する覚悟らしい。

【参照】Xパスポート関係記事

1.英国パスポートの性別欄
英国では,パスポート取得には,「M(男)」か「F(女)」のいずれか一方の性を選択し,申請しなければならない。「M」または「F」以外の選択肢は,日本と同様,英国にもない。

といっても,外国人の場合は,所持しているのが「X」パスポートであっても,その有効性を英国政府は認めている。頑固と実益の巧妙な功利的使い分け,これこそ英国保守主義の神髄なのだ。

■英国パスポート
■日本パスポート

2.クリスティさんの「X」パスポート訴訟
この英国のM/F択一選択パスポート制度に異議を唱え,男女いずれでもない性中立(gender-neutral)ないし性無区分(non-gendered)の人も選択しうる「X」欄の追加を求め,内務省を訴えたのが,クリスティ・エラン‐ケイン(Christie Elan-Cane)さん。

クリスティさんは,最高裁判決(12月15日)によれば,女性(female)として生れたが,思春期になると女性としての身体に違和感を抱き始め,1989年に乳房切除,1990年には子宮摘出を行った。

こうしてクリスティさんは,自分の性的アイデンティティ(性的自己認識)はnon-gendered,つまり男女いずれのジェンダー(性)にも属さない性無区分(X)にある,と確信するに至ったのである。

そのクリスティさんにとって,特に具体的な大きな障害となったのが,M(男)/F(女)いずれかの択一を要件とするパスポート制度。そこでクリスティさんは,パスポートの性別欄への「X(non-gendered)」の追加を求め,運動を繰り広げることになった。今回最高裁判決が出た裁判も,その一環である。

(注)最高裁判決によれば,クリスティさんは1995年以降,4回パスポートを取得しているようだ。いずれもM/Fの選択なしでの取得をパスポート局に拒否された後,取得。「M」か「F」のいずれかが当局か本人により選択されたのだろうが,詳細不明。

クリスティさんは,ノン・ジェンダー「X」の公認の必要性について,法廷の内外で,こう訴えてきた。

「私のアイデンティティは,男でも女でもない。自分は,ノン・ジェンダー(非ジェンダー)であり,そう訴えてきた。*2」

「本人のアイデンティティ(自己認知)の承認は基本的人権なのに,ノン・ジェンダーの人々は無権利であるかの如く扱われている。*5」

「男でも女でもない人は,パスポート取得の際,自分のものではないジェンダーでの申請を強制される。許せないことだ。*3」

「(M/F択一制パスポートは)侮辱的な,人の尊厳を傷つけるものだ。私は,はるか以前から全力を傾け,この差別的な政策の変更を政府に働きかけてきた。*2」

「12月15日に(最高裁判決で)正義が実現されることを期待しているが,もし英国内で正義が得られないなら,弁護団と私は,ストラスブールの欧州人権裁判所に訴えることを決意している。*5」

3.M/F択一制パスポート是認の最高裁判決
クリスティさんの「X」選択可能パスポート発行の訴えは2017年,行政裁判所(高等裁判所)に提出されたが,2018年6月,敗訴。さらに控訴院でも2020年,敗訴。そして最高裁への上訴も,2021年12月15日,棄却となった。最高裁判決は,判決文(*7,8)と解説記事によれば,おおよそ以下の通り。

・パスポートの性別は,申請者のアイデンティティ確認のためのもので,生物学的なもの。性別は,法的目的のために認定される。

・パスポートは,「M(男)」または「F(女)」のいずれかを選択したうえで発行される。性を変更したトランス・ジェンダーの人も,変更後のジェンダーにより「M」または「F」を選択する。本人の申告なき場合は,パスポート局が提出書類に基づき判定し「M」か「F」のいずれかとする。

・英国の法制度は,M/Fの2区分が大前提であり,ノン・ジェンダー(どの性でもない)は想定していない。「X」をパスポートに追加すると,他の法や制度との整合性が取れなくなり,混乱する。

・パスポートによる身分証明,治安維持に支障が生じる。

・パスポートへの「X」欄追加の利益よりも統治の整合性維持の利益の方が勝る。「X」欄追加には,行政コストだけでも2百万ポンドが必要。

・M/F択一制パスポートは,ノン・ジェンダーの人には不便かもしれないが,「X」欄追加を希望する人は,ごく少ない。

・EU諸国の間には,「X」欄追加への合意はない。欧州人権条約は,パスポートへの「X」欄追加は義務づけていない。

4.文化的「性」としてのジェンダーの難しさ
「性」には,生物学的な面と文化的な面,客観的な面と主観的な面など,さまざまな側面が複雑に絡んでおり,その判別は難しい。

たとえば,英語。男・女の代名詞は,he/his/him,she/her/her。では,クリスティさんは,どう呼ばれるべきか?

BBCは「she」を当てているが,クリスティさんは,そうは呼ばれたくないに違いない(*3)クリスティさん自身は,per/per/perselfを提案しているそうだが,一般にはこれらの語はまだ見かけない(*5)。

あるいはまた,ジェンダーを特定しないtheyを,she,heの代わりに使う試みもあるそうだが,theyには慣用的に定着した意味があり,ややこしくてこれは流通しそうにない。

神話にも「男/女」2区分が多い。キリスト教の神は,天地を創造し,男(アダム)と女(イブ)を創った。また日本神話でも,日本の島々は,男(イザナギ)と女(イザナミ)が交わり生み出された。いずれの神話でも,「男」と「女」であり,しかも男優位が当然のこととされている。

この神話的創世以来の伝統的男女2区分を改め,男女と「第3の性」の3区分,あるいは「第3の性」をさらに細分化し多くの性区分にしていくことは,容易なことではない。

そもそも性は,生物学的にも文化的にも,厳密に見るなら無限に多様なものであって,2つであれ,いくつであれ,明確に区別し都合よく仕分けできるようなものではないのであろう。

そこで,ちゃぶ台返し,いっそのこと性区分なんか一切なくしてしまい,すべての人を「人」のみとして平等に扱え,という極論も出てくることになるのである。

*1 Gender-neutral passports: Campaigner Christie Elan-Cane loses Supreme Court case, By Joseph Lee, BBC News 2021/12/15
*2 Christie Elan-Cane loses legal challenge over gender-neutral passports, BBC,2020/3/10
*3 Gender-neutral passport rules are ‘unlawful’, Court of Appeal hears, BBC,2019/12/3
*4 “Why I want gender-neutral UK passports,” BBC,2017/10/11
*5 UK’s highest court rejects appeal for gender-neutral passports after activist’s 30-year fight, Vic Parsons, PinkNews, 2021/12/15
*6 UK Supreme Court rejects gender-neutral ‘X’ passport, By Rachel Savage,Reuters, 2021/12/15
*7 Supreme Court,JUDGMENT R(on the application of Elan-Cane)(Appellant) v Secretary of State for the Home Department(Respondent)
*8 Supreme Court, Press Summary

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2021/12/22 at 16:57

山に展望台,街に人造動植物:ネパールの景観破壊

ネパールでは,山や丘の上に展望台をつくったり,道路わきや広場に人造動植物モニュメントを設置するのが流行っているという。観光客や買い物客を呼び寄せ,村おこしや街活性化を図るのが目的だろうが,自然・文化景観の観点からの反対も少なくない。

1.いくつかの事例
(1)山上の展望台
▼第1州:イラムの山の上に,予算8千万ルピーで展望台建設予定。
▼第3州:12の山の頂上に,予算1億8千万ルピーで展望台建設予定。
▼ポカラ:「サランコット開発5カ年計画(予算2億9千万ルピー)」で市近郊にケーブルカー,展望台,公園,ヘリポート,博物館,ホテルなどを設置予定。

[批判]
「連邦,州,地方自治体の権力亡者たちが,われわれの苦労して働き納めた税金を,あちこちの山の上に無用な展望台を建てるのに浪費している。彼らのスローガンは,『1つの丘に1つの展望台』。・・・・惨めなカネの浪費というべきか,バカらしい嘲笑のタネというべきか。」(*1)

「サランコットからの景観は比類なきものなのに,1千万ルピーもかけて,そこに展望台をつくるとは,まったく信じがたいことだ。」(*2)

「ネパールの山々は,もともと世界で最も高い山々だ。頂上からの景色は自然の絶景だ。それなのに,そこを20メートルばかり嵩上げすることに何の意味があるのか。そんなものではなく,これらの山々には,公衆トイレ,快適な宿,ゴミ処理施設など,もっと適切なものをつくるべきではないか。」(*1)

211122aKathmandu P, 2021/9/3

(2)コンクリやプラスチックの人造動植物
▼各地の道路わきや広場:コンクリ(コンクリート)やプラスチックで,コブシや沙羅の木,蓮の花,ニンニク,タマネギなどが造られ,設置されている。
▼ウダイプル:コンクリ製のブタ(予算600万ルピー)。
▼モラン郡:世界最大のコンクリ製牝牛

[批判]
「中央政府や地方自治体の役人たちは,『観光振興』を名目に巨額の予算をつけ,交差点や公園にコンクリやプラスチックのレプリカを設置している。」(*3)

「村でも町でも新しいことが流行り始めた。交差点や公園などにコンクリやプラスチックの造形物を設置することだ。」(*3)

211122bonlinekhabar.com, 2021/4/21
(3)万里の長城
カトマンズ北方のヘランブでは,観光振興のため,60kmにも及ぶ巨大な人造壁の建設が計画されている。

[批判]
「コンクリ製の塔や神話上の人物,あるいは石造りの壁などを見に,わざわざ訪ネする観光客がいるとは思われない。」(*1)

2.欧米や日本でも
山上の展望台や広場の人造モニュメントは,ネパールではいま急増し始めたばかりだが,欧米や日本では,はるか以前から設置されてきた。

たとえば,ヨーロッパ・アルプス。幾度かトレッキングに行き,急峻な山岳の迫力や山麓の絵のように美しい光景に魅了されたが,その一方,いたるところにケーブルカー,展望台など人造物が設置され,しかも景観とはそぐわない奇抜なデザインや色も少なくなく,いたく失望させられた。

たとえばモンブラン(モンテビアンコ)には,仏伊両国側から頂上近くまでケーブルカーで登り,そこの展望台から周囲を見回すことが出来る。が,それで何が得られるのか?

ケーブル終点の展望台は標高3777mもの高所! 観光客はすぐ高山病の症状に襲われ,寒さで震え上がる。見えるのは,相対的に――3777mも――低くなってしまった山々。氷河はあっても,山々の風景そのものは平凡。観光客は暖房の利いた軽食店や土産物屋に駆け込み,金を巻き上げられ,早々に,ケーブルカーに駆け戻り,下山することになる。

211122dモンブラン・ロープウェイ

日本にも,そんな高山観光施設が,いくつもある。

が,山にしても地域にしても,有名なところは,まだましだ。悲惨なのが,そうでないところ。大金をかけ観光施設を設置しても,赤字垂れ流しで維持するか,さもなければ放置・荒廃,あるいは撤去だ。残るは,自然・文化景観の無残な破壊と赤字だけ。

そんなところが,日本中,いたるところにある。

211217a 211217b

 ■天橋立ビューランド / 三峯山展望台(長野県観光機構)

3.先進国の景観破壊から学ぶべきこと
先進諸国の環境保護派・景観保護派は,自分たちの,これまでのすさまじい環境・景観破壊には頬かむりして途上国にお説教するきらいがあるが,彼らの主張そのものには耳を傾けるべきところも少なくない。

ネパールの人造構造物による山岳観光開発や地域振興も,いくつかは成功するかもしれないが,他の大部分は失敗し,無残な残骸と負債を残すだけとなるだろう。

先進諸国の失敗から学ぶべきことは,少なくない。

*1 “EDIFICE COMPLEX, We need more health posts, affordable medical care and quality schools. Not more statues of mythical figures, and view towers,” Editorial,Nepali Times,July 26, 2019
*2 “The decline in Nepali public aesthetics; Why are we spending millions on view towers on hilltops, where the view is already worthwhile?,” Kathmandu Post, September 3, 2021
*3 Rabindra Ghimire, “‘More trees’for less greenery: The ‘concrete’ irony in Nepal’s cities,” english.onlinekhabar, April 21, 2021
*4 “Five-year master plan mooted for extensive development of Sarangkot,” Himalayan, Dec 16, 2017
*5 Umesh Pun, “Nepal’s tallest Shiva statue being built in Pokhara, expected to boost religious tourism,” Republica, November 9, 2020
*6 日々のネパール情報
 ▼ ネパール各地で見られる、その土地の名産を模した像
 ▼ネパールの巨大猫|新宿3D猫にネコに負けてないかも!
 ▼ハッティチョウク、ガイダチョウク(象の交差点とサイの交差点)/チトワン・ソウラハ
*7 Ramesh Kumar, The land of the watchtower!, Himalkhabar, July 22, 2076
*8 Still Rising Nepal, Nepali Times, 2022/04/01
*9 Ramesh Kumar, Nepal’s shortsighted view-tower craze, Nepali Times,2022/04/03
*10 “How myopic they are: People in far-flung areas lack basic necessities, and they are building view towers,” Editorial, Kathmandu Post, 2022/04/04

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2021/11/23 at 11:47

紹介:米澤穂信『王とサーカス』

タイトルに「ネパール」関係の語がないので見逃していたが,この本は,王族殺害事件(2001年6月)で緊迫するカトマンズを舞台とするフィクション。文庫版で472頁もの大作であり,ミステリ分野で高く評価され,三つの賞を授賞している。

米澤穂信『王とサーカス」東京創元社,2015年;創元推理文庫,2018年
 ☆週刊文春「ミステリーベスト10」2015年,第1位
 ☆早川書房「ミステリが読みたい!」2016年,第1位
 ☆宝島社「このミステリがすごい!」2016年,第1位

1.梗概
文庫版カバー裏面の作品紹介:
「海外旅行特集の仕事を受け,太刀洗万智はネパールに向かった。現地で知り合った少年にガイドを頼み,穏やかな時間を過ごそうとしていた矢先,王宮で国王殺害事件が勃発する。太刀洗は早速取材を開始したが,そんな彼女を嘲笑うかのように,彼女の前にはひとつの死体が転がり・・・・・・ 2001年に実際に起きた王宮事件を取り込んで描いた壮大なフィクション,米澤ミステリの記念碑的傑作。」

さらに詳しくは,下記ネット記事参照:
*「王とサーカス」ウィキペディア


2.コメント
この作品は,長編のわりには最後の「なぞ解き」部分が少々手薄な感じがするが,ネパールに関心をもつ私としては,王族殺害事件がらみのミステリとして,面白く読み通すことが出来た。特に興味深かったのは――

(1)カトマンズの街や日本人向けロッジの雰囲気が,よく描かれている。王族殺害事件前後の頃は,たしかにそんな感じだった。

(2)この本のメインテーマは,王族殺害事件そのものではなく,その事件の――とりわけ外国メディアによる――報道の仕方の方にある。

太刀洗の取材に,王宮警備の国軍准尉はこう応える。「お前はサーカスの座長だ。お前の書くものはサーカスの演し物だ。我々の王の死は,とっておきのメインイベントというわけだ」。

ここで准将は,サーカスの演し物のように,報道はより強い刺激を求める読者の期待に応えることを目的としているのか,記者の使命とはいったい何なのか,と問いかけている。本書のタイトルが「王とサーカス」となっている所以も,ここにある

このときは,太刀洗は,この真っ向からの問いに全く答えられなかった。その彼女が,彼女なりの答えにたどり着いたのは,王宮事件とは無関係の麻薬殺人を王宮事件絡みの暗殺特ダネとして報道することをすんでのところで免れたあとのことであった。物語の結末部分で,つまり謎解きがすべて終わった後で,太刀洗はこう語っている。

《「私は・・・・・」
仏陀の目が見降ろしている。
「ここがどういう場所なのか,わたしがいるのはどういう場所なのか,明らかにしたい」
BBCが伝え,NHKが伝えてなお,わたしが書く意味はそこにある。》(451頁)

報道は,たしかにそのようなものかもしれない。が,そう思う一方,ハラハラ・ドキドキの長編ミステリの終え方としては,少々,物足りない感じがしないでもなかった。

(3)先進諸国のネパール援助の独善性・偽善性の告発。これは,幾度か,かなりストレートな形で出てくる。

サガル少年(太刀洗の現地ガイド)「よそ者が訳知り顔で俺たちは悲惨だと書いたから,俺たちはこの街で這いずりまわっている」。
――――「外国の連中が来て,この国の赤ん坊が死んでいく現実を書き立てた。そうしたら金が落ちてきて,赤ん坊が死ななくなってな」「仕事もないのに,人間の数だけ増えたんだ。」「増えた子供たちが絨毯工場で働いていたら,またカメラを持ったやつが来て,こんな場所で働くのは悲惨だとわめきたてた。確かに悲惨だったさ。だから工場が止まった。それで兄貴は仕事をなくして,慣れない仕事をして死んだ」

先進国による無邪気な,善意のネパール貧困報道やネパール援助が,ネパールをさらに苦しめ悲惨にするーーたしかに,そのような情況が,以前のネパールには,ときとして見られたことは認めざるをえない。忸怩たる思い。

【参照】
ナラヤンヒティ王宮博物館,再訪
王宮博物館と中日米
王宮博物館の見所
CIAと日本外務省-王族殺害事件をめぐって
バブラム博士,茶番のようです
王制復古の提唱
国王の政治的発言,日本財団会長同行メディア会見
退位で王制継続勧告,米大使
ビシュヌの死
王室と軍と非公然権力の闇
日本大使館の王室批判禁止警告 

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2021/11/15 at 08:58

米国「性別X」パスポート,ようやく発行

米国務省が10月27日,「性別X(エックス)」パスポートを初めて発行した,と発表した。「LGBTQI+の人を含め、全ての人の自由と尊厳、平等を推進する」ためとのこと。

米国パスポートでの「性」選択は,これまでもかなり自由であった。出生証明書,既取得パスポート,州身分証明書などに記載済みの「性」とは異なる別の「性」の選択が可能だったし,性別変更には医療機関発行診断書も不要。そこに今回,いずれの性でもない「X」選択の自由(権利)が追加されたのだ。

「X」は,要するに「性」を区別しないということ。区別し,区別されなければ,より自由で便利ともいえるので,「X」選択はおそらく増加するだろう。そして,そうなっていけば,性区別を大前提とする既存社会そのものも大きく変わっていかざるをえない。スポーツの男女別,学校・会社・議会における男女別,等々。

そして,「性」が多様化・自由化すれば,「」絡みの日本の「」も,もちろん自由化せざるをえないだろう。

【参照】
第三の性パスポート,ネパールなどに倣い米でも
第三の性パスポート,ネパール発行開始
性的少数者の権利,先進国ネパールから学べ
M・F・X:ネパール「第三の性」旅券発行へ
「第三の性」パスポート,最高裁作成命令
ツクツクの女性運転手さん
制憲議会選挙2013(37):指名議席争奪
セックス超先進国ネパールに未来はあるか?
第三の性,公認

*1 U.S. Department of State, “Selecting your Gender Marker.”
*2 「男性でも女性でもない「性別X」のパスポート、米国務省が初発行」CNN,2021.10.28
*3 「性別「X」の旅券、初発給 来年から本格運用―米」時事,2021年10月28日
*4「米、初のLGBTQ旅券「Xジェンダー」選択肢」日経,2021年10月28日

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2021/10/29 at 17:56

紹介:「ネパールのビール」

図書館で『ネパールのビール』というタイトルの本を見かけたので,借りてきて読んでみた。といっても,「ネパールのビール」は,338ページもの大著に収められた多数のエッセイの一つで,ほんの4ページ余にすぎない短編であった。

いささか,あっけにとられたが,「ネパールのビール」そのものは,大著タイトルとして選んで冠されるのももっとな,感動的なーー文芸春秋特集の意を酌むなら「泣かせる」ーーエッセイであった。

▼日本エッセイスト・クラブ編『ベスト・エッセイ集 ネパールのビール』文芸春秋,1991
*初出:吉田直哉「ネパールのビール」,『文芸春秋』1990年1月号(特集・私がいちばん泣いた話)
ネット掲載「ネパールのビール」全文
  ■91年版『ネパールのビール』

1.「ネパールのビール」梗概
著者は,1985(昭60)年夏,テレビ番組撮影(*1)のためドラカ村(*2)に行き,10日ほど滞在した。ドラカ村は海抜1500mで,斜面に家々が散在,人口は4500人。電気,水道,ガスなし。車道もなく,人びとは荷を背負って移動。

そのため,著者らは,車道終点のチャリコットからポーターを雇い,約1時間半かけ機材や食料をドラカ村まで運んでもらった。ビール(瓶ビール)は重いので,諦めた。

*1 NHK衛星第1「NHK特集・ヒマラヤ・ドラカ村でいま」1986年1月15日10:15~11:00
*2 ドラカ村はチャリコットから約4㎞,いまは道路が付き,バス停もある。
  ■チャリコット~ドラカ村(Google)

撮影で大汗をかいたあと,著者が,ビールを冷やして飲みたいなと口にしたのを,村の少年チェトリが聞き,自分がチャリコットから買ってきてあげると申し出た。

チェトリ少年は遠くの小さな村出身で,ドラカ村に下宿して通学。下宿の薄暗い土間で自炊し,そこで勉強もよくしている。

そのチェトリ少年に,著者は夕方お金を渡し,チャリコットまでビールを買いに行ってもらった。少年は,夜の8時ころ,ビール5瓶を背負い戻ってきた。

翌日も,ビールを飲みたくなった著者は,ビール1ダースぶん以上のお金を渡し,買い出しを頼んだ。

ところが,出掛けた少年は,いつになっても帰ってこない。村人や学校の先生に相談すると,そんな大金をあずけたのなら事故ではなく逃げたのだ,といわれた。これを聞き,著者は,大金で子どもの一生を狂わせてしまった,と深く後悔した。

いたたまれない気持ちで過ごした3日目の深夜,少年がヨレヨレ泥まみれで帰ってきた。チャリコットには3本しかなかったので,山を4つ越えたところで7本買い足したが,帰りに,ころんで3本割ってしまったと,べそをかきながら3本の破片を見せ,釣銭を差し出した。

そんなチェトリ少年を抱きしめ,著者は泣き,そして深く反省した。

2.「泣かせる」が特異ではない話
以上が,「ネパールのビール」の概要。たしかに感動的な「泣かせる」話だ。少年が,著者のために買ったのは瓶ビール10本。3本は割れてしまったとはいえ,重い。それらを背負い,山を4つも越え,持ち帰った。3日目の深夜まで,山道を何時間歩いたのか。お駄賃がもらえるとしても,たかがしれている。想像を絶する忍苦!

著者は,あろうことか,そんな少年を疑ってしまった。それだけに,帰ってきた少年を見て,著者が感動して泣き,深く反省したのは,もっともといえよう。

このように,「ネパールのビール」は感動的な泣かせるエッセイだが,そこで描かれているような出来事は,決して特異なものではない。ネパールを訪れたことのある日本人なら,多かれ少なかれ,幾度も同種の体験をしているはずだ。

3.泣くに泣けない話
私自身も,「ネパールのビール」とほぼ同じころ,初めて訪ネしアンナプルナ・トレッキングをしたとき,同じようなことを体験した。

ポカラから乗客鈴生りジープで川沿いをさかのぼり,ダンプス登り口で下車。さあ出発と前を見ると,絶壁のような急登。恐れをなし躊躇していると,たむろしていた地元の人々が次々と声をかけてきたので,人のよさそうな少年の一人にダンプスまでの荷揚げを頼んだ。年齢ははっきりしないが,日本の中学生くらい。小柄だが,重い荷物の大部分を背負ってくれた。日当は驚くほど安く,たしか2,3百円くらい。それでも荷物を担ぎ,断崖のような山道をどんどん登って行った。

身軽になった私は,おとぎの国のような風景をながめ,写真を撮ったりしながら,休み休み登って行った。そんな私を,大きな荷を背負った地元の人たちが次々と追い抜いていく。女性の方が多く,背負っている荷の中にはコーラやビールのビンが何本も見られる。いかにも重そう。上方の村々に運び上げているのだ。

そうこうするうちに,荷物をもち先に行った少年のことが気になりだした。ダンプスの村で約束通り待っていてくれるだろうか? まさか持ち逃げなどしていないだろうな,などと。わずかの手当てしか払っていないのに,こんな心配。われながら情けなかったが,ダンプスに着くと,そこで少年がちゃんと待っていてくれた。「ネパールのビール」の著者のように泣きはしなかったが,私も,大いに反省させられた。

ダンプスで1泊し,さらにランドルンで1泊,そして最終目的地のガンドルンまで登った。この間,道端の茶店やロッジでビン入りのコーラやビールが売られているのを目にしたが,それらを運び上げる地元女性の姿が目に浮かび,どうしても買って飲むことは出来なかった。

ところが,ガンドルンで歩き回り疲れ果てて,夕方,ロッジに戻ると,無性にビールが飲みたくなり,とうとう一本買って飲んでしまった。うまかった! が,それだけに自分のあまりの意思の弱さが情けなく,やりきれない罪の意識にさいなまれることになった。

はるか下方の登り口から,いやひょっとしたらポカラの町から,女性や少年を含む荷揚げの人々が,何時間も,いや時には何日もかけて,背負い運び上げてきた重い瓶ビールや瓶コーラを,町よりは少し高いとはいえ当時の日本人にとっては全く気にならないほど安い値段で買い,一気に飲んでしまってよいものか? 私の一瞬の,のど越しの快は,ネパールの荷揚げの人々の労苦に見合うものなのか? それは,事実上,彼らの人間としての尊厳を無視した傲慢な搾取を意味するのではないのか?

日本人とネパール地方住民との間には,1980年代中頃にはまだ,想像を絶するほどの生活格差があった。当時,ネパールの地方に行くと,日本人は多かれ少なかれ優越感に捉われるのを禁じえず,と同時に,そうした優越感から行動しているのではないかという自己猜疑に取り憑かれ,不安になる。たとえば,日本であれば,15歳の少年に徒歩往復3時間もかかる遠方に夕方ビールを買いに行かせようとは思いもしなかったであろうし,また,小柄な少年にわずか2,3百円のはした金で重い荷物を背負わせ急峻な山道を登らせようともしなかったはずだ。

ここには,ビールを買ってきてくれた少年や荷揚げをしてくれた少年を疑ったことへの反省だけでなく,それらよりも根源的な自己の優越的地位そのものへのどうしようもない罪悪感があるように思われる。泣くに泣けない自責の念。

1980年代中頃のネパールは,訪ネ日本人の多くにとって,他者との関係において自己を改めて見直す試練の場でもあったのである。

  ■ダンプス~ガンドルン(Google)

4.道徳教育教材としての「ネパールのビール」
「ネパールのビール」は,一見,起承転結の明確なエッセイなので,道徳教育の課題文として多くの学校で使用されてきた。対象は主に2年生。たとえば,次のような報告がある。

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埼玉県立総合教育センター 第2学年○組 道徳学習指導案
1 主題名: 誠実な生き方
2 資料名: 「ネパールのビール」 出典( 自分を考える」あかつき)
4 ねらい: 自分で考え、決めたことは誠実に実行し、その結果に責任をもとうとする心情を養う。

安芸高田市立向原中学校 道徳科指導案 第2学年指導者:上田 仁
主題名:人間のすばらしさ(よりよく生きる喜び)
教材名:「ネパールのビール」
筆者とチェトリくんの生き方の違いを対比させることを通して,人間の醜さに気づくと共に,人間の持つ強さや気高さを信じ,人間として誇りある生き方を見いだそうとする道徳的心情を育てる。

岩手県立総合教育センター 第2学年 道徳学習指導案 指導者:伊藤千寿
主題名:信頼感
内容項目:人間の強さと気高さ、生きる喜び
資料名:「ネパールのビール」
人間は信頼に値すると思う相手に対してであっても、状況によっては疑いの気持ちをもってしまうことがある。それは気持ちの弱さとも言えるが、よほど相手を知り尽くしているのでない限りは仕方がないことでもある。しかし、それを超える誠実さに触れることによって、疑ってしまったことを悔いたり、相手が信頼に値する人間であることを再認識したりすることもある。そのような経験を繰り返す中で、自分も弱さをもっていることを認めたうえでそれを乗り越えることのできる可能性を信じられるようになり、そのことがやがて喜びをもって生きていくことにつながると考える。

【参照】西部中学校「道徳の授業~ネパールのビール~」2018年2月28日

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中学2年道徳科の課題文としてであれば,「ネパールのビール」がこのような読み方をされるのも,もっともかもしれない。

5.もう一つの読み方
しかしながら,その一方,人それぞれの考え方や行動は,その人の生まれ育ってきた環境に大きく規定され(存在被拘束性),それが原因で解消の容易ではない誤解や対立が生じることにも目を向けるようにすることが必要であるように思われる。

異文化,異社会,異国家等の間の相互理解や和解は,そう容易ではない。「ネパールのビール」も,よく読めば,それを暗示しているように思われる。これは,永遠の課題と覚悟せざるをえない。

道徳教育では,学習レベルに応じた形で,相互理解の困難さ,その場合の対応の仕方ーー単純明快な解答のない場合の問題への対処の仕方ーーについても議論し,考えを深めていくべきではないだろうか。

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2021/08/06 at 10:49

第三の性パスポート,ネパールなどに倣い米でも

アメリカ国務省が6月30日,パスポートの性別欄に「X」を追加すると発表した。「M(男)」でも「F(女)」でもない人びとは,「X」を選択できるようになる。いわば「第三の性パスポート」。今年中に実施の予定。

このような「第三の性パスポート」は,ネパールをはじめ印,濠,加など数か国がすでに採用しており,米政府もそれらの国の「第三の性パスポート」は承認している。
 【参照】第三の性パスポート,ネパール発行開始 性的少数者の権利,先進国ネパールから学べ M・F・X:ネパール「第三の性」旅券発行へ 「第三の性」パスポート,最高裁作成命令

また,米国内でも,20州以上が性別「X」選択可能な身分証明証を発行しているし,控訴裁判所も「X」選択可能パスポートの発行命令を出している。

バイデン政権は,性の多様性容認への内外のこのような流れに掉さし,「史上最多のLGBTQI+を政府関係者に任命」(在日米大使館)したのに続き,このたびは「第三の性パスポート」の採用に踏み切ったのであろう。

それにしても,「性」は,人間のアイデンティティの根源にかかわるだけに,難しい。現在のところ,人びとは,その「性」により,「」または「」だけでなく,「LGBTQI+」としても区分されているらしい。

 L = レスビアン(女性同性愛者)
 G = ゲイ([主に男性」同性愛者)
 B = バイセクシュアル(両性愛者)
 T = トランスジェンダー(性別違和)
 Q = クィア/クエスチョニング(Queer/Questioning,性自認未定ないし不選択)
 I = インターセックス(男女両性身体)
 + = その他の様々な性

あまりにも複雑。正直,よくわからない。「性」は,厳密に定義しようとすればするほど多様となり,したがってそれぞれの「性アイデンティティ」を尊重して人びとを公平に処遇しようとすればするほど社会の仕組みも複雑とならざるをえない。

しかし,そんな方向に突き進めば,早晩,にっちもさっちも行かなくなるのは目に見えている。

そこで,いっそのこと「性」の区分や記述を一切なくしてしまえ,といった極論が出されることになる。もともと「性」など無限に多様なのだから,その多様性を尊重すべきなら,「性」を一切問わないのがもっとも公平ということになる。たとえば,トイレを性ごとに無限に多様化できないのなら,性別を問わない「万人共用トイレ」にしてしまえ,ということ。

が,こうした性区分撤廃論はちゃぶ台返し,問題を振り出しに戻すだけにすぎない。非生産的。われわれとしては,ややこしくて面倒だが,「LGBTQI+」という形でいま提起されている問題に,一つ一つ誠実に取り組み,よりよい解決策を模索していく以外に方法はあるまい。

このような「性」多様化の問題は,何かにつけ外圧で動く日本にとっても他人事では済まされない。たとえば,アメリカは「LGBTQI+の権利を擁護する米国」を掲げ,在日米大使館主催「LGBTQI+の権利向上をめざそう~アメリカと日本をつないで~」などを開催している。

おせっかい,余計なお世話という気もしないではないが,「人権」は,いまや「大砲」以上に強力で有効なアメリカ外交の手段。照準が向けられているのは中国だけではない。日本政府も,いずれ「第三の性パスポート」を発行し,そして,もう一つの「せい=姓」についても「夫婦別姓」法制化という形で多様化せざるをえなくなるだろう。

*1 ANTONY J. BLINKEN(SECRETARY OF STATE), “Proposing Changes to the Department’s Policies on Gender on U.S. Passports and Consular Reports of Birth Abroad,” PRESS STATEMENT, JUNE 30, 2021
*2 在日米国大使館と領事館「LGBTQI+の権利を擁護する米国
*3 “U.S. protects the rights of LGBTQI+ people ,” ShareAmerica -Jun 3, 2021
*4 アメリカ大使館「バイデン政権、史上最多のLGBTQI+を政府関係者に任命
*5 “U.S. to add third gender option to American passports,” nbcnews.com,July 1, 2021
*6 Kate Sosin, Orion Rummler, “U.S. to add ‘X’ gender marker on passports,” June 30, 2021

■インドのパスポート申請書

■ネパールの出入国申請書

谷川昌幸(C)

Written by Tanigawa

2021/07/04 at 16:44

紹介:「ヒマラヤに呼ばれて」

児童文学作家による「ネパール人との深い交流」の体験を描いた長編ノンフィクション。
 ▼さとう・まきこ「ヒマラヤに呼ばれてーこの世に偶然はないー」ヒカルランド,2018

著者は1991年,43歳のとき,「な~んとなく」ネパールへトレッキングに出かけ,その自然と文化と,そしてとりわけ人に魅了されてしまう。

「ネパールの貧しい少年を母として見守ることになった筆者。マン[上記少年」をはじめとするネパール人との深い交流の中,筆者の生活や価値観は大きく変わっていく」(表紙キャプション)

このようなネパールとの関わり方は,ネパールに出かけたことのある日本人の多くにとって,著者ほど深くはないにせよ,多かれ少なかれ自ら身をもって体験したことであり,したがって本書を読むと,そのことが懐かしく,また時には自責の念に駆られつつ,思い起こされるにちがいない。

私の場合,初めてネパールに行ったのは著者のほんの数年前,ルートも,著者のその後の訪ネの際のものと合わせると重なる部分が多い。

ロイヤルネパール航空(RNA)ーーカトマンズーーポカラーーフェディーーダンプスーーランドルンーーガンドルン

本書を読んでいると,私自身の初の訪ネの際の途方もない当惑と驚きと感動の日々を追体験しているようであった。

(C)谷川昌幸

Written by Tanigawa

2021/06/26 at 17:29

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